ニューヨークの地下鉄で日本人のホームレスを見た話
鈴木静女
第1話
ニューヨークに赴任して2年目の春私は地下鉄Nラインでマンハッタンを北上していた。途中どこかの駅で蓑虫のようなホームレスが隣の車両から移動してきてただでさえ空いていた車両のまばらな人並みの中にぽっかりと異様な空間が出来た。彼は丁度私の真向かいの座席2人分を占領し沢山の荷物を丁寧に座席に並べなぜか本人は置ききれなかった壊れたスーツケースにもたれかかる様に地べたに座り込んだ。いい加減に地下鉄に乗り込んでくるホームレスには見慣れていたが私がつい注目してしまったのはそのホームレスがアジア人だったからだ。ニューヨークでもアジア系のホームレスを見るのは珍しい。一度チャイナタウンで中国人らしいホームレスを見かけた事があるくらいだ。醤油を煮しめた様な粗末な服を着てボロボロの毛布をまとったまだ若いホームレスだった。目の前のホームレスもやはり醤油を煮詰めた様な色の肌着の様な長袖シャツにもとは灰色かカーキ色であったろうズボンを履いていた。ズボンの股間部分がかなりの部分変色しており永遠に乾く事のない悪臭を漂わせていた。彼は坊主に近いざん切り頭で肌には張りがあるがかなりの年寄りの様だった。車内は暖房と機械油の臭いに混じって彼の排泄物の匂いが漂っている。私は嫌悪感を覚え他の乗客のように離れた席に移動するべきだったと後悔し始めていた。小便だけではない乾いた大便の苦い匂いもする。不本意ながら次の駅で一度降り隣の車両に移ろうかと考えていた時不意にそのホームレスがこちらに微笑みかけてきた。
うふふ
ふふ
ね
ねぇ
私はギョッとした。
それは間違いなく日本人の日本語の発音だった。それも女性の声だ。
私は驚愕して目を見開いた。
ねぇ、
ねぇ見てる?
見てるよね
思ったよりずっと若い女の声だった。
女はうふふと笑いながら汚れきったズボンの中にボロボロの指先だけが出ている毛糸の手袋をしたままの自分の右手を滑りこませ股間を弄り始めた。
ああ
ああ
いいよ
見てる
見てるね
女は喘ぎながら股間を弄り続ける。
私は目が離せなくなり女の顔を凝視する。
丸顔のボサボサの坊主頭の女の頬は霜焼けで赤くひび割れていた。
ああ ああと
喘ぎながらぽっかりと開けた口の中には歯がほとんど残っていなかった。
真っ黒の洞穴のような女の口の中を眺めながら
ああそうか
歯がないから老人の様な顔に見えたのかと妙に納得した。
気がついたら私は沢山の乗客に囲まれていた。もうすでに目的地のタイムズスクエア駅まで2駅だ。それでもやはり彼女の周りだけがぽっかりと何か結界が張られた様に丸く空間ができていた。4月の麗らかな昼下がりだった。
誰しもが不気味なホームレスのマスターベーションが目に入らない様に目を逸らしていたる。響き渡る喘ぎ声が女性なのも居た堪れなかった。私はその言葉が日本語である事もさらに居た堪れなく今この瞬間だけは彼女と同じ日本人だと思われたくないと思った。
目的地のタイムズスクエアに到着した時人並みに流される様に私は下車した。
オフィスに着いてもしばらくは先程の光景が頭から離れられずぼうっとしていた。
ああ
ああ
いいよ
見てる
見てるね
ぽっかりと開いた真っ暗な口。
汚れきった布の厚いズボン。
家畜小屋の様なすえた匂い。
ふとあの声はどこかで聞いた事があるような気がしてきた。
遠い昔何処かで聞いたことのある懐かしい声の様な気がした。
ニューヨークの地下鉄で日本人のホームレスを見た話 鈴木静女 @nene3ny2
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ニューヨークの地下鉄で日本人のホームレスを見た話の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます