魔王軍で恋に落ちた元社畜の話

トムさんとナナ

魔王軍で恋に落ちた元社畜の話

## 第一章 転生と配属


「また明日も資料作成か……」


深夜一時を過ぎた駅のホームで、田中健太郎は疲れ切った表情でスマートフォンの画面を見つめていた。メールボックには明日の朝一番から始まる会議の資料作成依頼が三件も届いている。


前の会社に入ってから三年。毎日終電まで働いているのに、作った資料は会議で一度も使われずに終わることがほとんどだった。上司からは「もっと気を利かせろ」と言われ、同僚とは昇進を巡って張り詰めた関係が続いている。


「俺の努力って、一体何のためなんだろう……」


自分が何のために働いているのか分からない。そんな虚無感が健太郎の心を支配していた。


「もう無理だ……」


そんな呟きが最後だった。


気がつくと、健太郎は見たこともない石造りの部屋で目を覚ましていた。窓の外には二つの月が浮かんでいる。


「え?ここどこ?」


慌てて起き上がった健太郎の前に、黒いローブを着た女性が現れた。年の頃は二十代後半といったところか。銀色の長い髪に紫の瞳を持ち、美しいが冷たい印象を与える顔立ちをしている。


「目覚めたか、転生者よ。私は魔王軍第三軍団長、冷月紗英だ」


「れいげつ……さえ?魔王軍?」


健太郎の頭に情報が流れ込んできた。どうやら自分は異世界に転生したらしい。そしてここは魔王城。


「君には我が軍の事務方として働いてもらう。断る権利はない」


紗英の冷たい視線に、健太郎は思わず背筋を伸ばした。この感覚、前の会社の部長を思い出す。


「あの、履歴書とか職務経歴書は……」


「そんなものは不要だ。君が前世で培った『社畜』としての経験こそが、我々に必要なのだから」


## 第二章 魔王軍の現実


翌朝から健太郎の魔王軍ライフが始まった。配属されたのは第三軍団の作戦本部。といっても、実態は雑多な事務作業の山だった。


「これが今月の戦果報告書ね。まとめておいて」


紗英から渡された書類を見て、健太郎は絶句した。字が汚い。内容もバラバラ。前職でこんな報告書を出したら、上司に叱られて作り直しは確実だ。


だが、健太郎の心の奥底では小さな希望が芽生えていた。前の会社とは違い、ここでの仕事は実際に戦闘に関わっている。自分の努力が誰かの役に立つかもしれない。


「あの、紗英さん」


「様をつけろ」


「紗英様、この報告書なんですが、フォーマットを統一して、もう少し見やすくした方が……」


「余計なことを言わずに、そのまままとめろ」


冷たく言い放たれ、健太郎は黙って作業に取り掛かった。しかし、どうしても気になって仕方がない。結局、勝手にエクセルで表を作成し、データを整理して見やすい資料に仕上げた。


翌日、その資料を見た紗英の表情が変わった。


「これは……誰が作った?」


「あ、はい。勝手にすみません。でも、このほうが魔王様への報告もしやすいかと思って……」


紗英は無言で資料をめくり続けた。グラフや表が整然と並び、一目で戦況が把握できる。これまで何時間もかけて読み込んでいた雑多な報告書とは雲泥の差だった。


実は紗英も、毎月の報告書作成には頭を悩ませていた。魔王からは「分かりやすい報告をしろ」と言われるが、部下たちの書く報告書は統一性がなく、まとめるだけで一日がかりになることも珍しくなかった。


「……今後、報告書の作成は君に任せる」


そっけなく言うと、紗英は部屋から出て行った。しかし、その後ろ姿は、これまでより少しだけ軽やかに見えた。


## 第三章 認められた実力


一週間後、健太郎の作った報告書は魔王の元に届いた。


「冷月、この報告書は誰が作成した?」


魔王サマエルの声に、紗英は内心緊張した。


「新しく配属された事務員です」


「素晴らしい。これまでの報告書とは比べ物にならん。他の軍団にも同じレベルの資料作成を求める」


魔王からの褒め言葉に、紗英は複雑な心境だった。自分が長年苦労してきた報告書作成を、あの男は簡単にやってのけた。しかし、悔しさよりも安堵の方が大きかった。


作戦本部に戻ると、健太郎が別の作業に取り組んでいた。彼の机の周りには、きれいに整理されたファイルが並んでいる。


「何をしている?」


「スケジュール管理表を作っています。各部隊の訓練予定や作戦行動予定を一元管理すれば、リソースの無駄遣いが減らせるかと」


画面には色分けされたカレンダーが表示されている。一目で各部隊の予定が把握でき、重複や空白時間も分かりやすい。


紗英は健太郎の真剣な横顔を見つめた。この男は文句一つ言わず、黙々と仕事をこなしている。それも、ただやらされているのではなく、本当に魔王軍のことを考えて改善しようとしている。


その姿を見ていると、紗英の胸の奥で何かが温かくなった。


「君は……一体何者なんだ?」


「ただの元社畜です。前の会社では、こういう作業ばかりやらされてましたから」


健太郎の苦笑いに、紗英は小さな驚きを感じた。この男は、過去の辛い経験を恨んでいない。それどころか、その経験を活かそうとしている。


一方、健太郎の心には新しい感情が芽生えていた。自分が作ったスケジュール表を見た兵士たちが「これは分かりやすい」と言ってくれた。前の会社では感じたことのない充実感だった。


## 第四章 距離の変化(三ヶ月後)


季節が変わり、健太郎が魔王軍に来てから三ヶ月が経った。彼の作る資料は魔王軍内で評判となり、他の軍団からも指導を求められるようになっていた。


紗英は最近、健太郎が夜遅くまで残業している姿をよく見かけるようになった。魔王軍のために献身的に働く彼の姿に、なぜか心が締め付けられる。


「健太郎」


ある日、紗英が初めて健太郎の名前を呼んだ。


「はい、紗英様」


紗英は一瞬迷った。この男は自分のことを顧みず、ひたすら働いている。そんな彼に対して、いつまでも冷たい態度を取り続けるのは間違っているのではないか。


「……様はもういい。紗英で構わない」


健太郎は驚いた。あの冷たい紗英が、敬語を止めろと言うなんて。


「でも……」


「君の作った資料のおかげで、私の評価は上がった。魔王様から褒められたのは久しぶりだ」


紗英の表情が少し和らいでいる。健太郎は初めて見る彼女の笑顔に、心臓が高鳴った。


「よかったです。僕も役に立てて嬉しいです」


「君は……なぜ文句を言わないんだ?こんなに働いているのに」


「慣れてるんです。前の会社も激務でしたから。でも、ここの仕事は前の会社と違って、ちゃんと意味があるというか……」


「意味?」


健太郎は窓の外を見た。訓練場では、彼が作ったマニュアルに従って兵士たちが効率的に訓練している。その表情は明るく、充実していた。


「前の会社では、作った資料が使われずに終わることもよくありました。でも、ここでは僕の作った資料が実際に役立ってる。兵士たちの笑顔を見ていると、自分の努力が意味を持っているって感じられるんです」


紗英の胸の奥が熱くなった。この男は、自分の経験を恨むのではなく、それを活かして他人を幸せにしようとしている。その前向きさに、紗英は深く惹かれていることに気づいた。


## 第五章 夜更けの会話(半年後)


健太郎が魔王軍に来てから半年。彼の業務改善提案により、第三軍団の効率は大幅に向上していた。


ある夜、健太郎が残業をしていると、紗英がお茶を持ってきた。


「遅くまでお疲れ様」


「ありがとうございます……あれ、紗英さんもまだ仕事してたんですか?」


「ああ。君の資料を確認していた」


二人並んで資料を見ながら、自然と会話が弾んだ。


「健太郎は前世で、どんな仕事をしていたんだ?」


「システム系の会社で、営業企画をやってました。クライアントの要望をまとめて、開発チームに伝える仕事です」


「それは……大変だったろう」


健太郎の表情が少し曇った。


「まあ、板挟みになることも多くて。クライアントからは『なぜできないんだ』と怒られ、開発チームからは『無茶な要求ばかり』と言われる。でも、お客さんが喜んでくれたときは嬉しかったです」


健太郎の話を聞いていると、紗英は自分との共通点を強く感じた。彼女も上司である魔王と、部下である兵士たちとの間で苦労することが多い。魔王からは「なぜ兵士の士気が上がらないんだ」と言われ、兵士たちからは「なぜこんな厳しい命令を」と反発される。


「私も似たような立場だ。魔王様の命令を部下に伝え、部下の状況を魔王様に報告する。でも、どちらの期待にも応えきれないことが多い」


「紗英さんも大変ですね。責任者って本当に孤独な立場ですよね」


健太郎の理解ある言葉に、紗英の瞳が潤んだ。これまで誰にも理解されることのなかった苦労を、この男は分かってくれる。


「なぜこの男の横顔を見ると、心が温かくなるのだろうか……」


紗英は自分の心の変化に戸惑った。いつからか、健太郎と過ごす時間が一日で最も安らげる時間になっていた。


「健太郎……」


「はい?」


「……いや、何でもない」


紗英は言いかけて、やめた。自分の気持ちがまだ整理できずにいた。


## 第六章 改革の始動(一年後)


健太郎の提案で、魔王軍全体の業務効率化プロジェクトが正式に開始された。半年をかけた準備期間を経て、いよいよ本格実施の時が来た。


「まず、各部署の業務フローを見直しましょう。無駄な工程を削減して、コミュニケーションの円滑化を図ります」


会議室で健太郎がプレゼンしている。前職で培ったプレゼンスキルが、異世界でも活かされていた。


「具体的には、日報の電子化、会議の議事録テンプレート化、そして定期的な進捗確認ミーティングの導入です」


魔王軍の幹部たちは、最初こそ懐疑的だったが、第三軍団での実績を見れば反対する理由はなかった。


プロジェクトは順調に進行し、その功績により健太郎を責任者とする「事務改革室」が新設された。健太郎は室長に任命され、紗英がその後見役となった。


「これは素晴らしい成果だ」


半年後、魔王サマエルも満足している。各軍団の業務効率は平均30%向上し、兵士たちの士気も上がっていた。


「冷月、君の部下は優秀だな」


紗英は誇らしげに頷いた。しかし、同時に不安も感じていた。健太郎の能力がここまで高いとなると、いずれ彼は自分の元を離れていくのではないか。


## 第七章 告白への想い(プロジェクト成功から三ヶ月後)


業務改革プロジェクトが完全に軌道に乗り、健太郎の評価は魔王軍全体で確立されていた。昇進の話も具体的に出始めている。


「健太郎、君を魔王軍総参謀に推薦したいという話がある」


紗英がそう告げたとき、内心では彼の答えを試していた。もし健太郎が昇進を望むなら、自分への気持ちはその程度だったということになる。


健太郎は困惑した。


「でも、僕はここで紗英さんと一緒に働きたいです」


紗英の心臓が大きく跳ねた。


「……なぜだ?昇進は良いことだろう」


「確かに昇進は嬉しいです。でも、僕にとって一番大切なのは、一緒に働く人なんです」


紗英は顔を赤らめた。心の中で安堵と喜びが同時に押し寄せてくる。


「一緒に働く人?」


「はい。紗英さんと一緒にいると、仕事が楽しいんです。前の会社では感じたことのない気持ちです」


紗英は健太郎の言葉に胸が熱くなった。自分も同じ気持ちだった。健太郎と過ごす時間は、彼女にとって何よりも大切なものになっていた。


「健太郎……私も……」


しかし、そのとき緊急警報が鳴り響いた。


「敵襲だ!勇者パーティが魔王城に向かっている!」


## 第八章 戦火の中の絆


勇者パーティの襲撃により、魔王城は戦闘状態に入った。勇者一行は四人。剣士、魔法使い、僧侶、そして弓使い。それぞれが高いレベルを持つ精鋭だった。


「健太郎、君は城内で待機していろ」


「でも……」


「これは命令だ」


紗英は第三軍団を率いて迎撃に向かった。


勇者の剣士は驚異的な速度で第三軍団の最前線を突破しようとしていた。紗英の部隊が正面で必死に食い止めている間に、魔法使いは広範囲攻撃魔法で第二軍団の動きを封じている。弓使いは高所から狙撃で第四軍団の指揮官を狙い、僧侶の回復魔法で勇者たちの体力は常に万全だった。


「第二軍団、東門が突破されました!魔法攻撃で身動きが取れません!」


「第四軍団、西門でも苦戦中!指揮官が負傷して統制が乱れています!」


通信魔法で入る報告は悲観的なものばかりだった。勇者パーティは巧妙に魔王軍を分散させ、各個撃破を狙っている。


健太郎は作戦本部で戦況を見守っていたが、各部隊の配置に致命的な問題があることに気づいた。


「このままでは全滅する……」


健太郎は急いで最適な配置を計算した。勇者パーティの移動パターンを分析し、最も効果的な迎撃ポイントを割り出す。


「第二軍団は東門から撤退、中央広場で待機!魔法攻撃の射程外に逃れろ!第四軍団は西門を放棄して第一軍団と合流!第三軍団は時間稼ぎ後、第二軍団と挟撃態勢を取れ!」


健太郎の指示は的確だった。分散されていた魔王軍が一点に集中し、勇者パーティを包囲する形となった。魔法使いの広範囲攻撃も、集結した魔王軍の前では効果が薄れる。


「今だ!一斉攻撃!」


紗英の号令と共に、魔王軍の総攻撃が始まった。さすがの勇者パーティも、四方からの統制された攻撃には対応しきれない。


「撤退だ!今日のところは引く!」


勇者は仲間を連れて撤退していった。魔王軍の勝利だった。


## 第九章 心からの告白


戦いが終わり、魔王城の大広間では勝利の祝宴が開かれていた。しかし紗英の姿はそこになかった。


健太郎は紗英を探し、城の屋上で彼女を見つけた。


「お疲れ様でした」


「健太郎……君のおかげで勝てた。ありがとう」


紗英の声は疲れていたが、温かかった。


「でも、僕は何もしてません。指示を出しただけです」


「それが一番大切なことだ。君がいなければ、我々は負けていた」


二人は並んで夜空を見上げた。二つの月が美しく輝いている。


「健太郎……さっき言いかけたことがある」


「はい」


紗英は健太郎の方を向いた。月光に照らされた彼女の顔は、これまで見たことがないほど優しかった。


「私は……君と一緒にいると安心する。君の前向きさに、いつも救われている」


「僕も同じです。紗英さんといると、自分が必要とされていると感じられます。前の世界では感じたことのない充実感です」


「健太郎……」


「紗英さん、僕は……紗英さんを愛してます」


健太郎の告白に、紗英の瞳が潤んだ。


「馬鹿者……」


そう言いながら、紗英は健太郎の胸に顔を埋めた。


「私の方が先に気づいていたのに……先に言われてしまった」


「え?」


「私も愛している、健太郎」


二人の唇が重なった。長い間求め続けていた答えが、ようやく見つかった瞬間だった。


## エピローグ 新しい物語の始まり(それから一年後)


健太郎と紗英の結婚式は、魔王軍全体で祝われた。二人は事務改革室で働き続け、魔王軍は史上最も効率的な組織となっていた。


「今日も新しい転生者が到着するそうですね」


「ええ。元看護師の方らしいです」


二人は新人を迎える準備をしていた。健太郎が作成した『転生者受け入れマニュアル』に従って、魔王軍では新しい転生者を温かく迎える体制が整っていた。


「私たちも、こうして新しい人を迎える立場になったのですね」


健太郎の言葉には、深い感慨がこもっていた。かつて絶望していた社畜時代の自分が、今では他の転生者の希望となっている。


「そうですね。今度は私たちが、新しい人たちの居場所を作る番です」


紗英は健太郎の手を握った。二人の努力が報われ、居場所を見つけた喜びを、次の世代に引き継いでいこう。そんな強い決意が込められていた。


前世では報われなかった努力が、この世界では確実に意味を持っている。そして何より、愛する人と一緒にその努力を分かち合えている。


窓の外では、新しい転生者を迎える準備が進んでいる。健太郎が作ったマニュアルに従って、魔王軍の日常が回り続けている。


二つの月が見守る異世界で、元社畜と魔王軍幹部の愛は、今も新しい物語を紡ぎ続けている。


そして、魔王軍の資料庫には一冊の本が収められている。


『異世界転職成功マニュアル』

著者:田中健太郎・冷月紗英


その第一章にはこう書かれていた。


「努力は必ず報われる。ただし、それが報われる場所を見つけることができれば」


【完】

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