第49話:筋肉泰平

 雪原に静まり返る最上の敗残兵たちの中、今川氏真はゆっくりと前に進み出た。彼の足元からは、雪が砕ける音が、静寂に満ちた戦場に響き渡る。それは、氏真が感じていた、勝利の昂揚と敗北の虚無が入り混じった、言葉にならない感情の鼓動だった。


 氏真は、最上兵たちの前に立つと、一度、大きく息を吸い込んだ。その胸の奥底で、かつて文弱と揶揄され、父の影に怯えていた自分と、今ここに立つ、強靭な肉体を持った自分が、静かに交錯していた。甲冑を脱ぎ捨てた。重い鉄の塊が、鈍い音を立てて雪に沈む。鍛え抜かれた肉体が、冬の陽光を浴びて、まばゆく輝く。それは、彼の「肉体こそが己の意志である」という信念を、言葉を使わずに証明する、静かな儀式だった。


「武は、血を流すためにあるのではない。肉を育てるためにあるのだ」。


 氏真の声は、静かだったが、その一言一言に、彼の人生のすべてが凝縮されていた。最上兵たちは、その言葉に息を呑む。彼らが信じてきた「武士の道」とはあまりにもかけ離れた、しかし、抗いがたい説得力を持つ言葉だった。彼らの心に、「恐怖」と「憧憬」が入り混じった、新たな「義」の光が灯り始める。


 氏真の言葉に倣い、今川軍全体が、一糸乱れぬ動きで甲冑を脱ぎ捨てた。白銀の大地に、鋼のように引き締まった筋肉の軍列が現れる。その肉体から放たれる圧倒的な熱量と、一糸乱れぬ規律は、最上兵たちをさらに圧倒した。彼らは、目の前で繰り広げられる、人智を超えた光景に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。それは、勝利の暴力ではなく、「完璧な美」による圧倒的な支配だった。


 今川軍の統治は、もはや「軍国」ではない。「筋国」だった。筋肉の理論は、軍制・医術・農政・建築にまで適用され、筋力による農具の進化、戦闘訓練の体育化、骨格別の職能分化が、新たな時代の礎を築いていた。


「われら、筋肉に支配されるのではない。我らこそが、筋肉を信じて歩むのだ!」


 氏真の咆哮が、雪原に響き渡る。その声は、最上兵たちの耳に、敗北の宣告ではなく、新たな時代への招待状のように聞こえた。彼らの心には、かつての武士の矜持とは異なる、しかし、抗いがたい「強さ」への渇望が、熱く込み上げてくる。


 氏真は、巨大な雪上訓練場に立つと、天を仰いで叫んだ。


「これは終わりではない。筋肉による、永遠の平和の始まりだッ!!」


 氏真の号令と共に、今川軍全体が、一斉にスクワットを始めた。一回、二回、三回。大地が揺れる。空が割れる。雪が爆発する。それは、単なる訓練ではない。彼らの肉体と精神が、完全に一体となった瞬間の、力強い叫びだった。


「筋肉! 筋肉! 筋肉!!」


 全軍の筋肉の咆哮が、天を衝く。それは、敗北の呻きではなかった。それは、筋肉が世界を支配した瞬間の、勝利の咆哮だった。


 ――その日、雪原に響き渡ったのは、敗北の呻きではなかった。


 それは、筋肉が世界を支配した瞬間の、勝利の咆哮だった。

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戦国マッスル無双~今川義元編~ 五平 @FiveFlat

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