第48話:戦国の終焉
最上義光は、折れた槍を手に、雪原に膝をついていた。冷たい雪が、彼の肌を刺す。その冷たさは、彼の身体を凍らせるだけでなく、彼の心に宿る「武士の矜持」という燃え盛る炎を、静かに、しかし確実に消し去ろうとしていた。彼の眼前では、今川軍の兵士たちが、まるで流水のように整然と、しかし圧倒的な熱量で進軍している。彼らの足音が、雪を叩き、地面を揺らし、義光の心臓に直接響き渡る。それは、武士が持つべき「血潮の音」ではなく、鉄と筋肉が織りなす、冷たく、無機質な鼓動だった。
氏真は、その光景を、ただ静かに見つめていた。彼の表情には、勝利の歓喜も、敗者への侮蔑もなかった。ただ、父・義元の「筋肉泰平の世」という理念が、今、この奥羽の地に具現化されたことへの、静かな確信だけがあった。氏真の視線は、義光の折れた槍、そしてその手から伝わる、時代の終焉を象徴する無力感を、ただ見つめている。
義光の脳裏には、幼い頃の記憶が蘇っていた。父から教わった、刀の持ち方、名乗りの作法。初陣で敵に一礼し、返礼された美しき武士の記憶。武士道こそが人の生き方だと信じた、あの頃の情熱が、冷たい雪のように降り積もる。武士とは、名誉を重んじ、血を流すことを厭わぬ存在。それが、義光が信じ、守り抜こうとした世界のすべてだった。
しかし、そのすべてが、目の前で崩壊している。
「もはや誇りなど無力……この世を動かすのは、肉の理(ことわり)か」
義光は、折れた槍を握りしめ、自嘲気味に呟いた。彼の武士としての哲学は、目の前の「筋肉の暴力」によって、音を立てて崩壊していた。義光は、自らの槍を、雪の上に置いた。それは、武士としての矜持を、自らの手で葬り去る行為だった。
氏真は、その義光の姿を、ただ静かに見つめていた。彼の口から、言葉は発せられない。言葉は、もはや必要ない。義光は、自らの手で、武士としての時代に幕を引いたのだ。
「見よ、あれが近代だ」
氏真は、雪上に立つ鞠武衆の陣形を一瞥し、ただそう呟いた。鞠武衆は三十名単位で動き、互いに視認しやすい金筋甲冑の信号旗を使って連携していた。その動きは、まるで巨大な一つの生命体のようだった。
「もはや武士は不要。血も礼も名乗りもいらぬ。ただ技術と鍛錬のみが世界を動かす」
義光は、その言葉の意味を一瞬で理解し、そして全てを失った。義光は、雪の中で静かに膝をつき、天を仰いだ。冷たい雪が、彼の顔を叩き、涙のように頬を伝う。それは、武士としての誇りが、時代の流れに押し流されていく音だった。
――その日、雪原で散ったのは、最上義光という男ではなく、戦国という一つの時代そのものだった。
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