真夏のひと皿
綿貫 善
真夏のひと皿
これっぽっちの寂しさもない、明るくギラギラとした夏の陽光の下、ひどく陰鬱な気持ちである。日傘をさしても地面から照り返すのだから意味がない。昨夜降った雨はすっかりと干上がり、むわむわと熱い蒸気となって肺を不快に湿らせる。蝉が、うるさい。
道端を歩いていると、木造のなんだかわからない店の軒先に「氷」の字が出ている。夜光灯に吸い寄せられる蛾みたいに、私はへろへろとそのお店に近づいた。入ってみようか、と思ったがその店は「氷」の旗が揺らめいているだけで、古めかしい木枠のガラス戸はピチッと閉じられている。加えて戸の内側には象牙色の(と言えば聞こえがいいが、悪く言えば黄ばんだ)カーテンが上から下までかかっているものだから、中は何も見えない。
今日は閉まっているのだろう。そう、どう見ても閉まっている。
だが私はその事実を受け入れられず、その場にぼんやりと立ち尽くした。
別にかき氷がとんでもなく好きだとかそんなことはない。今日の私は、端的に言うと頭がおかしいのだ。おかしくなったのはかれこれ十五分ほど前である。
十五分前、私は七年も付き合った男に振られた。
理由は奴の言い分からすると私に非があるらしい。ごちゃごちゃと言っていたが、要約すると奴の好みに私があまりにも無関心で辛いと。例えば家で映画を見たりするとき、彼が提案する映画に対して私が難色を示すこととか、ライブに誘っても興味ないから行きたくないと言った諸々がそれにあたるらしい。
確かに、付き合った当初は奴に好かれたくて興味のないものにもうんうんとうなずき、あらゆることを受け入れようとした。七年も付き合っていると段々慣れてきてしまったのか、好かれようと努力することは確かに減った。
だがそれは私に限った話だろうか?奴だって私が見ているラブコメドラマなんか見ないし、なんだったら小馬鹿にしてくるし、私が食べたいと言った和食の店なんか、薄味は力が出ないからと言って結局私が一人で入店した。
言いたいことは山ほどあったが、私は別れを切り出された時、「そ」とだけ返した。すれ違っていることは、うっすらと自覚していた。一方的に悪者にされたのは気に食わないが、言い返すのも億劫だった。
さて、先方もまさか平仮名一文字で七年間に幕が引かれるとも思っていなかったのだろう。鳩が豆鉄砲を食らうとはよく言ったもので、まさにそんな顔をしていた。
餞と言っては何だが、最後の現場となった喫茶店の会計は私が払った。ほとんど勢いで出てきたものだから、自分の食べかけのプリンアラモードに心が痛む。あわよくば、奴が涙を流しながら私の残したプリンを供養してくれていたら嬉しい。
それが十五分前の出来事である。
そこから灼熱のアスファルトの上を、踵のある白い華奢なサンダルであてどもなく歩き続けた。下町の古風な街並みには魅力的な雑貨屋や飲食店が軒を連ねていたが、何も視界に入ってこなかった。唯一認識できたのが、先ほどの「氷」である。
だがしかし、やっていない。私の頭はゲームで言うならバグの修正が出来ず、キャラクターがフリーズした状態だった。ストーリー上で「氷」を食べるしか選択肢がないはずなのに、コマンドにないのである。
フリーズしていようが、世界はお構いなしに私を蒸し焼きにしようとする。私の額からは馬鹿みたいに汗がしたたり落ちる。
なんだか景色と自分が溶けていくような、そんな気持ち悪さに襲われた。
すると突然、戸がガラガラっと勢いよく開いた。
あっけにとられていると中の冷気と共に、十年漬け込んだ梅干しのようにすばらしい皺の老婆が出てきた。
「宗教の勧誘ならお断りだよ」
老婆はそういって私の顔をにらみつけた。
だがバグった私が「宗教」という単語の意味を咄嗟に理解できず「しゅ、しゅ?しゅ?」と蒸気機関車になっていたら、大変哀れなものに見えたらしい。
「そんなとこつったてんじゃないよ。冷たい空気が出てっちまうじゃないのさ」
そう言って老婆は私を中に招き入れた。
中は砂利を敷き詰めたような無機質な床に、朽ちかけた色の立派な木の柱が二本、その柱を縫うようにプラスチックの天板とアルミの骨子を組み合わせた二人用の四角いテーブルが四つに、テーブルそれぞれに錆びたパイプ素材の背のない丸椅子がに二脚ずつ配置してある。椅子のクッション部分はところどころ破れて黄色いスポンジがちらちらと顔を出していた。
私は比較的破れていない椅子を選んで座り、天井を見上げた。意外と高さのある天井の板は、3匹のお化けがぐるぐると鬼ごっこをしているような面妖な木目模様が浮き上がっていた。
「あの、外の『氷』が--」
私は老婆に声をかけようとしたが、それをさえぎるように「ふん」と鼻を鳴らすと老婆は奥に引っ込んでいた。私は促されるまま座ってしまったが、この後どうしたらいいかわからず肩身を狭くして小さくなった。このまま老婆に存在を忘れられてもかまわないので、外よりは涼しいこの家屋の中に置いて欲しかった。太陽にさらされる気力なんて、すっかりなくなっていた。部屋の角の壁に備え付けられた古い異様に明るいピンク色の扇風機がガタガタいいながら首を振り、時折私の長い髪をゆっくりと吹いていく。
奥の台所からはなにやら菜箸が金属に触れるような音や、水道からざざぁっと水が流れる音が聞こえてくる。
そういえば、何も注文していない。
いよいよ私は何のために座っているのかわからなくなってきたので、台所に近づき「あの」と声をかけた。中は換気扇を回していないのか、蒸気で輪郭がおぼろげになった老婆が見えた。
「座ってな!」
ぴしゃりと言われ、私はすごすごと引っ込んだ。とりあえず存在は忘れられていなかったから、もういいやという気持ちになった。
しばらくピンクの扇風機を眺めながら(ずっと眺めていたら扇風機と仲良くなった気がした)、さっきの喫茶店でのやりとりを思いだしていた。清々しく目の前からいなくなってやったつもりだったが、今になってああ言ってやればよかったとか、目の前のお冷でも昼ドラよろしくひっかけてやればよかったのだろうか、とか。くだらないことが色々浮かんできた。
「それにしたって七年は長すぎるでしょ」
扇風機に話しかけるように私はひとりごちた。扇風機さんは「そうねえ、あたしにはいまいちわからないわねえ」なんて言っているかのように、カクカクと首を横に振った。
「二十歳からの七年なんて、女盛りをドブに捨てた気分ね」
私は大きくため息をついた。これからまた新しい人を探して、結婚まで二年くらい付き合って、相性を吟味して、下手したらまた何年も付き合った挙句に別れるのだろうか。いやいや、そもそも新しい彼氏なんて果たしてできるのか?そうだ、それより先に奴の部屋に置いてきた化粧下地、一万円以上するからあれだけは回収したい。いや服も下着も置きっぱなしだ。そういえば来月行く予定だった旅行先の宿もキャンセルしないと。
なんて、めんどくさい。
マクロからミクロまで考え出すときりがない。私はもう一度ため息をついた。さっきよりもっと隙間風みたいにかすかで干からびたため息だ。
ゴンっと目の前に大きな皿がおかれた。
私は「え」と小さく声を漏らした。
「冷麺ですか?」
「そうだよ、盛岡冷麺」
「かき氷じゃなくて?」
「どう見たらかき氷に見えるんだい、これが。だいたいうちじゃかき氷なんてやってないよ」
「じゃあ外の旗って…」
「涼しそうでいいだろう」
そういって老婆はもう一皿を同じ要領でゴンとテーブルに置いた。どうやら老婆も一緒に食べるらしい。老婆は蚊でもつぶす勢いでいただきますと手を合わせると、ずばずばと麺をすすり始めた。
皿の上には乳白色で半透明の麺がきれいに盛られ、固ゆでの卵の黄色はひまわりみたいで目にまぶしい。雑に盛られたキムチは汁と混ざって現代アートみたいな赤いマーブル模様を作り出し、ベーコンだったのかチャーシューだったのか、元がよくわからない角切りの肉が添えられている。
はやく食いな、と言っているかのように老婆が鋭い視線を送ってくるので、私も慌てて手を合わせて箸をつけた。
全然食欲はなかったが、私の体が塩分を求めているのか、箸が止まらなかった。そして馬鹿みたいな話だが、冷麺から取った塩分は、すぐに私の目から出ていった。
今私の脳みその大部分は冷麺の味に占拠されているが、ほんのひと匙分だけ、何年も前に奴と見に行った花火大会の景色を思いだしていた。
とんでもない速さで食べ終わった老婆は、私の前にティッシュ箱を置き、ピンクの扇風機の方へ顔を向けた。老婆も扇風機さんと語らっているようで、少しかわいらしかった。
あれから早一年経った。
存外自分の家から遠くない場所にあの店があるものだから、時折様子を見に行った。
だがしかし、カーテンが開いていることがない。『氷』の旗は年がら年中出ているらしい。
来るたび、私は同じようにガラス戸の前に立つ。ちょっとした儀式のようなものだ。
--あれ以来、老婆に会うことは二度となかった。
という私の脳内モノローグを打ち破るように、ガラリと戸が開いた。
「なんだい、また来たのかいタダ飯ぐらい」
「ひどい言いがかり。そっちが絶対にお金もらってくれないだけでしょ頑固ババア」
私は右手に引っ提げていたお土産を自慢気に掲げた。
「ほらいいでしょ。夏のかたまり」
老婆はそれを見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「スイカなんてまるまる一個持ってきてどうすんのさ」
文句をたれてはいるが、まんざらでもなさそうである。
「早く入んな。冷たい空気が出ていっちまう」
老婆はそそくさと台所に向かったが、ふと思い出したように私の方を振り返って聞いた。
「あんた、新しい男はできたのかい」
私は元気よく答えた。
「できてない!」
外の蝉がやかましかった。
真夏のひと皿 綿貫 善 @huwahuwatanuki
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