六、復讐者

 澄真すまが、そっと面に手を触れながら呟く。


「……ねえ、かい。傷口……なんか、変な匂いする」

「匂い?」

「うん。……苦い匂い」


 太一たいちが訝しげに睨む。


「苦いって何だ?」


 澄真はぱっと返せず、言葉に詰まって黙り込んだ。

 亥助いすけも太一も“やれやれ”といったように視線を交わす。


 それを一瞥しながら、魁は考えるように顎に手を当てた。


「苦い匂いか…。──毒を使っている可能性が高いな」


 太一と亥助の表情が一気に強張った。


「毒で動きを鈍らせてから斬るのか……?」

「織宮にはそんな真似をする忍びはいない……!」

「ああ」


 魁は静かに頷いた。


「犯人は戦忍でも町忍でもない」


 谷河内やごうちが口の端を釣り上げる。


「……下手人げしゅにんは織宮の中の人間……しかし忍びじゃねえ。てことは、侍か」


 魁は首を振る。


「まだ断定はできない。今夜、動く者がいるはずだ。──そいつらを待ち伏せして確かめる」


 太一は反射的に言い返した。


「犠牲を増やすつもりか?」


 魁の瞳が冷たく光った。


「違う。あんた達が動くから犠牲が増えるんだ。町忍は町を守るのが役目。“影を狩る”のは戦忍の仕事だ」


 強い言葉だったが、怒りではなく静かな理。

 亥助は歯を食いしばり、首を縦に振った。


「……今夜の見回りは、我々ではなく貴殿らが立つ。そういうことか」

「そうだ」


 魁は短く答えた。

 その横で、澄真がぽつりと呟く。


「……じゃあ、今夜は眠れないね」


 谷河内が肩をすくめる。


「お前はいつでもどこでもちゃーんと寝てんだろうがよ」


 澄真が面の下でむっとしたのが分かり、魁は小さく苦笑した。



 ****



 見張りの持ち場は、森の縁にぽっかりと開いた空き地だった。

 夜気は冴え、虫の声も途切れがちで、火もしばらく前に落としてある。

 三人の影だけが、ぼんやりと月の光に伸びていた。


 魁は、腕を組んだまま木にもたれ、耳を澄ましていた。考えごとをしている時の癖だ。

 谷河内はその隣で欠伸を噛み殺し、澄真は少し離れた場所で、暗がりの奥をじっと見ている。


 「しかしよ、魁……」と谷河内がぼそりと言いかけた瞬間だった。

 澄真の身体が、弾かれたように振り返った。


 鞘走りが夜気を裂く。

 澄真の刀が一閃し、──キン!と、金属を弾く乾いた音が闇に跳ねた。

 魁も即座に構えを取る。

 谷河内は遅れて、慌てて腰の刀を抜いた。


 澄真は踏み込むように身を沈め、二撃目を払う。

 また、硬質な音が闇に散った。


 谷河内は目を凝らしても何も見えず、冷や汗をたらりと流した。


 「……お前すげえな。どうして分かんだよ……?」


 澄真は呼吸を整えながら、小さく答える。


 「風……裂く音。それから、殺気」


 それ以上、何も飛んでこなかった。森は再び静まり返る。


 「……なんだったんだ?」谷河内が肩を上下させながら呟く。


 魁は刀を収めずに、暗闇へ視線を向け、目を細めた。


 「試された、というところか」


 澄真は月の光に濡れた刃を見つめ、低く言う。


 「今の……急所、狙ってた」


 谷河内は身震いした。


 「……あっぶね……俺だけなら死んでたな」


 魁が、ほんの少しだけ眉を動かす。


 「──狙いは俺だな」


 谷河内がぎょっと魁を見る。


 「は?なんでだよ」


 澄真は迷いなく言う。


 「うん。真っ直ぐ魁に向かってた。……魁が、俺達の頭って知ってるみたい」


 魁は、昼間の光景を思い返すように目を細めた。


 「……町忍とのやりとりを、誰かに聞かれていたか」


 谷河内が吐き捨てるように言う。


 「あの三人の中の誰かって線もあるだろ?」


 澄真は首を横に振った。


 「それは……無いと思う」

 「なんでだよ」

 「魁が名乗ったから」


 谷河内は一瞬理解できず、ぽかんとする。

 澄真は続けた。


 「望月もちづきの名、隠さなかったの……あの人達を試したんでしょ」


 魁は短く息を吐いた。


 「俺を狙うということは、望月家に弓を引くのと同義だ。もし町忍がそれをやれば、町方全体の反乱と見なされる。……奴らが、そんな道を選ぶとは思えない」


 澄真が静かにうなずく。


 「だからさっきの攻撃、町方の人達じゃないよ」


 谷河内は鼻を鳴らすように笑った。


 「なるほどな。……けどよ、俺には散々説教したくせに、奴らを一番信用してねぇの、お前じゃね?」


 魁は谷河内を冷ややかに一瞥した。


 「敵意を丸出しにするなと言っただけだ。忍びなら忍べ」


 谷河内は肩をすくめ、ふてくされたように顔をそむけた。


 「へいへい……相変わらず性格悪ぃな、お前」


 魁は返事をしなかった。ただ、静まり返った森の奥を見つめ続けていた。

 その気配の向こうに、まだ姿を見せぬ“誰か”がいるように。



 ****



 森の奥、風も通わぬ闇の底で、三つの影が息を潜めていた。

 ただ一度、金属が弾けた甲高い音が夜気に響いたとき、その影の一人が舌打ちを漏らした。


 荒井あらいだった。四釜しかまに従い、共に奈落へと落ちた元武士。

 細く目を開け、暗闇の向こう――澄真が一閃を放った方向を、忌々しげに睨みつけている。


「……外したか。いや、弾かれたか」


 低く噛みしめるような声。

 怒りとも、驚愕ともつかぬ色が滲む。


 横に潜んでいた刺客がぼそりと囁いた。


「今の、見えたか? 気配を断って投げたはずだぞ。距離も角度も完璧だった」


 荒井はしばらく答えなかった。

 ただ、闇を睨みつけながら、拳を膝の上でゆっくり握り締める。


「……奴の反応だ」

「反応?」

「ああ。完全な死角。気配の端すら捉えぬほどの夜気の流れの中で、だ。

 それを真っ直ぐ斬り上げて弾いた…」


 その声には、悔しさよりも“戦場を知る者の恐れ”があった。


 荒井はわずかに肩を震わせる。

 怒りではない。脊髄を走った、古い経験が呼び起こした感覚。

「あれ」に似ている、と。


 刺客たちが黙り込む。

 森の闇は、風もないのにざわつくように感じられた。


 しばらくして別の男が息を呑むように言う。


「荒井殿……やはり奴らは……」


 言いにくそうに言葉を切った刺客に、荒井はうなずいた。


「……戦忍だろう」


 その一言で、残る二人がわずかに身を引いた。

 戦忍――戦で武士と肩を並べる、“戦うための忍び”。

 忍術で影に紛れる町忍とは違い、刀での戦闘を主とする異形の兵。


 荒井は低く続ける。


「わしが織宮に仕えていた頃、戦場で一度だけ見たことがある。

 味方でありながら、あれほど背を寒くした者共は他におらん。

 一瞬の動きで三人を斬り伏せ、風のように消えた」


 思い出しただけで、息が細る。

 幾度の死線を越えた武士であっても、恐怖に震える記憶は消えない。


 刺客の一人が唾を飲む音がした。


「そう考えれば……今の身のこなしも、確かに腑に落ちる」


 荒井は深い息を吐き、夜気を押しのけるように立ち上がった。

 膝丈の草が静かに揺れ、暗闇に形だけが浮かぶ。


「四釜様に……このことをお伝えせねば」


 噛みしめるような声音だった。

 報告は望ましいものではない。

 だが、伝えなければならない。あの主の目的のために。


「……あの少年。戦忍の中でも、抜きんでている。

 四釜様が探しておられる“才”を持つ者かもしれん」


 その言葉に、二人が息をのむ。


 荒井は、森の闇を一度だけ振り返った。

 澄真が立つ方角。

 その姿は見えない。ただ、あの一瞬の冷たい光だけが記憶に刻まれている。


「厄介な相手だ…」


 誰に聞かせるでもなく、小さく吐き捨てた。


 そして三つの影は、夜の闇に溶けるように音もなく退いた。



 *****



 粗末な篝火かがりびがひとつ、湿り気を帯びた夜気に揺れていた。黒々とした木立の奥、廃れた祠の影に潜むようにして、四釜しかま幻陽げんようは静かに座していた。


 身の丈六尺五寸ほどの巨躯。鎧も纏わずとも威圧を生む体つきは、闇よりなお濃い影を背負っているかのようだった。

 長い山篭りで焼けた肌は土気色に沈み、表情には“憎しみだけで命を繋いできた者”に特有の固い皺が刻まれている。


 その前で、荒井が深く膝を折っていた。額を地につけるほどに頭を垂れ、低く震える声で報告する。


「……やはり戦忍でございました。その中に、望月の小倅こせがれが」


 四釜の目がわずかに細まる。闇の中でも光を吸い込むような、獣の目だった。


「……戦忍…しかも望月宗玄の息子と来たか」


「は。暗がりでしたが、間違いございません」


 四釜は一拍、深く息を吐いた。その静けさ自体が、叱咤より苛烈だった。


「ふむ――。望月の血を狩る、絶好の機会を逃したということか」


 荒井の肩がビクリと跳ねた。叱責の口調は穏やかですらあるのに、膝にかけた両手にじっとり汗が滲む。


 四釜はゆっくりと立ち上がった。体を起こしただけで、祠が軋んだようにすら感じた。


「まあ良い」


 その低い声は、山の根を震わせる雷鳴の前触れめいた落ち着きがあった。


「この手で仕留めるまでよ。その首、望月宗玄へ送りつけてくれるわ」


 荒井は身を縮めながらも、一つだけ気がかりを口にした。


「…気にかかるのは、近くにいた戦忍……」


 四釜は顎をわずかに上げる。


二二ふじの矢を止めた忍びか」


 荒井は喉を鳴らし、続けた。


「二二の話では…暗闇、死角、距離、いずれも“万に一つも防がれるはずの無い”一矢だったと。…それを、易々と」


 四釜は黙したまま目を伏せ、片手で顎をなぞった。

 太い指が、古い戦傷の跡をなぞるたび、皮膚がざらつく音まで聞こえてきそうだった。


「二二の矢は狂いが無い。それを――悠に止める者が現れた、か」

「……は。得体の知れぬ曲者……」


 言い終える前に、荒井は違和感に気づいて顔を上げた。


 四釜が、笑っていたのだ。

 焚き火に照らされたその笑みは、愉悦よりも、獲物を前に腹を鳴らす獣に近かった。


「四釜様……?」


「面白いではないか。なぁ、荒井」


 荒井の背筋が凍りつく。

 主の声には、高揚と歓喜が交じり合っていた。


「ようやく、骨のある者共が現れたのだ。――狩りは、難があるほど面白い」


 四釜は闇に向かってゆっくりと歩き出す。

 その巨躯が森の闇に溶けていくにつれ、荒井は無意識に震えた。


 ぞくりと背の芯まで冷える。その寒気は、夜風のせいではなかった。



 ****



 夜が白みはじめる頃、森の端には冷えた朝霞がたなびき、土の匂いが濃く立ち込めていた。

 魁達と町忍は、昨夜襲撃してきた数人が潜んでいた方角へと進む。小高い山へと続く畦道を、まだ湿り気の残る空気を吸い込みながら歩く。


「遠隔から狙い撃つ手練れか…」


 その声音は相変わらず低く、研ぎ澄まされた刃のように曇りがない。

 亥助は腕を組み、険しい目つきで聞いていた。


「手練れなのは最初から分かっている。やられた仲間は皆、力量のある者達だった。生半可な敵に倒される連中ではない」


 その隣で谷河内が大げさに肩をすくめる。


「昨日の攻撃よ、魁に向かって飛んできたんだぜ。偶然って線もあるが……名前、知ってたんじゃねぇかと思えてくるわけよ」


 その一言に、太一の表情がぴくりと動いた。嫌な間が落ちる。


「まさか……貴様ら、俺達を疑っているんじゃ――」


 荒さの滲む声に、ミヲが慌てて制した。


「太一さん!」


「……すまねぇ。どうにも落ち着かなくてな」


 魁は首をゆっくり振った。怒りも苛立ちもなく、ただ淡々と。


「気が高ぶるのは当然だ。俺達の間に壁があることも承知している。だが、今は信用してほしい。同じ織宮に仕える忍び同士として」


 亥助はふっと息をつき、頭をかいた。


「そうだな。いがみ合っている場合じゃない。…悪かった。ましてや貴殿は、いずれ全忍び衆の長になる御人だ。信用せぬ理由が無い」

「今はまだ修行中の一忍びだ。……浮いた目で見ないでくれると助かる」


 魁は淡く笑みさえ浮かべた。それを見て太一は視線を逸らしたまま、小さく頷いた。


 森は朝霞を含んだ冷気で満ちている。

 夜明け直後の太陽がまだ樹々の高みに遮られ、地面には灰色の薄光が漂うばかりだ。

 落ち葉を踏む音がやけに大きく聞こえるのは、面々の緊張がそのまま耳に染みついているからだった。


 ふいに谷河内が歩みを止め、鼻をひくつかせた。


「……なんか、鉄っぽい匂いがすんぞ」


 魁がすぐに目で合図する。

 全員が警戒の構えをとりつつ、漂う匂いの方へと歩を進めた。


 やがて、小さな沢筋の手前で、六人は言葉を失う。


 倒れていたのは町忍の男だった。だが、これまでに見てきた遺体とは明らかに違っている。無惨というよりむしろ、不自然だ。

 傷のつき方が「見せつける」ために作られたように整いすぎている。衣も、血痕も、足跡さえも、すべてが“置かれた”ような匂いをまとっていた。


 魁はしゃがみ込み、しばし無言で痕跡を眺めた後、低く息を吐いた。


「……あまりに雑だ。こちらを誘っているとしか思えない」


 谷河内が肩を竦め、だが目だけは鋭く光らせた。


「罠にしても、わざとらしすぎんだろ」

「ああ、見え透いた罠だ。だが、乗る」


 魁がそう断言した声には、冷静さと、計算の鋭さが混じっていた。


 亥助たち町忍は目を見交わし、すぐにうなずいた。迷いはない。

 魁が立ち上がり、森の奥へ向かって顎をしゃくる。


「行くぞ」



 森は奥へ進むほど光を失い、空気に硬さが生まれた。

 土の匂いが濃く、時折、鳥すら鳴かなかった。


 やがて、谷河内が小さく舌打ちした。


「……来やがる」


 それは、気配だった。じわりと、背の後ろから湿った冷気が迫るような。


 澄真が一歩前へ出る。面の奥の視線が鋭く細まる。

 次の瞬間、梢がわずかに揺れた。


「動くな」


 魁の声が冷ややかに落ちた。

 揺れた枝の上、黒ずんだ衣の影が、いつの間にか彼らを見下ろしていた。


 荒井あらい――襲撃犯の片割れだ。その隣に、痩せた影がひとつ。顔は布で覆われ、目だけがぎらついている。昨夜、魁に向け矢を放った二二ふじだ。


 荒井の口元がゆがんだ。


「よく来たな、忍びども。それとも……餌に釣られた鼠と言うべきかの?」


 谷河内が一歩踏み出し、刀の柄に手をかけたが、魁が左手を静かに上げて制した。


「罠に気付いていても来たのは、お前たちの“意図”を見るためだ。逃げ回るばかりでなく、今度こそ姿を見せた理由を聞こうか」


 荒井は鼻で笑った。


「図太い小倅よ。昨夜、刺される寸前だったくせに」

「刺さっていないから話している。そんな鈍い腕で俺達を殺れると?」


 魁の声は静かながらも、氷のように鋭く刺さる。


 シッ、と二二が一歩前へ出た。


「外すはずがなかった。……その仮面が割り込んで来なければ」


 二二の細い指が澄真を示す。

 澄真は面越しにじっと彼らを見返していたが、何も言わなかった。代わりに、魁がゆっくりと言葉を紡ぐ。


「つまりは、お前たちの方が“読み違えた”ということだ。死角からの矢など、鈍い者にしか効かん」


 荒井の目尻がぴくりと跳ねた。


「言うではないか、若造……」


「事実だ。それとも、否定できる材料があるのなら聞こう」


 言葉の端が、まるで相手の胸に刃を押し当てるかのように冷たい。

 荒井が怒りで血管を浮かせかけた瞬間、二二が短く合図した。


「退くぞ」

「……ちっ。覚えておけ、望月の小倅――」


 荒井が捨て台詞を残し、影は音もなく梢から消えた。風だけが枝を揺らす。


 町忍の数名が安堵の息を漏らす。その中で魁はただ一点、森の奥を見つめていた。

 澄真もまた、同じ方向へ目を向けていた。


 二人の視線が交差し、魁がわずかに眉を寄せる。


「……気付いたか」


 澄真は小さくうなずいた。面の奥の瞳が、不気味なものを見たように揺れている。


「うん。今の二人の向こう……もっと奥に、誰かいた。殺気は……無い。でも、“見られてた”」


 魁が喉の奥で息を固めた。

 澄真の“感覚”は嘘をつかない。


 森の奥、黒い影が一本の杉の幹にもたれ、消えかけの月を背に立っていた。

 四釜幻陽――まだ姿こそ明かさぬが、その気配だけが、灼けた鉄のように森に刺さっていた。


(あれが……敵の頭)


 澄真の心臓が、ひとつだけ強く脈打った。理由は分からない。

 ただ、あの気配は他の誰とも違うものだった。



 *****



 荒井達が引いて行った方へと足を進める一行。

 森は深くなり、朝靄の残り香を漂わせながらしんと静まり返っていた。


 だが、その静寂は一瞬で破られる。


 澄真が足を止め、目だけを僅かに横へ向けた。

 次の瞬間、矢が空気を裂く音がした。


 ヒュ、と風が鳴る。


 澄真は反射的に動いていた。

 地を蹴るというより、木の影へ吸い込まれるように消え、背後の幹から跳ね上がる。

 身体が宙で一度しなり、枝を掴むと同時に、そこを踏み台にして斜め上へと旋回した。


 森の斜面と木々が、澄真の戦場となる。


 矢の軌跡を読み切り、空中から斬り落とすと、乾いた金属音が白い朝霧の中に弾けた。

 斬り落とした瞬間、視線はもう別の影を捉えている。


 斜後方、魁の死角。


 ──そこだ


 澄真は落下する勢いのまま枝を蹴ると、魁の背中に向かって伸びる刃を弾き飛ばした。


 魁は直後に短刀で追撃を受け止める。

 鋭い衝撃が腕に走る。

 敵の腕は重い。だが、魁は眉一つ動かさず、相手の足運びと間合いから人数と配置を一瞬で割り出した。


 「……三。左右と、前。」


 息を乱さず呟く魁の口調は淡々としている。


 一方、谷河内は最初の衝突で後方から飛び出してきた刺客に対し、体術で迎え撃っていた。

 刃を抜くより早く、手首を捻り、相手の懐へ潜り込む。重心を奪い、地面に叩きつける。


 谷河内は刀より体一つでの戦いが性に合っている。

 足を絡め、肩口を押し、敵の呼吸が乱れた瞬間を逃さず肘を落とす。森の地面に響く鈍い音。倒れた刺客の手から短刀が転がった。


 「おら、焦ってんじゃねぇよ!」


 軽口とは裏腹に、汗が背を伝っていた。

 相手の動きは町忍を殺してきた連中のものだ。

 重い、速い、迷いがない。


 だが、その中でも一際異質な速さがあった。


 澄真だ。


 木から木へ、影から影へ、飛び移る度に空気が震える。

 敵は彼の動きを追い切れない。姿が見えたと思えば、次の瞬間には別の枝から刃が落ちている。


 そして、澄真の動きには一つの方向性があった。


 ――常に、魁の周囲に戻る。


 無意識のうちに、守る位置へ立つ。魁の死角を埋めるように。

 魁はそれに気づいていた。澄真が戦場でいつも自然と彼の周りを巡るのを。


 望月家を守る──その意識が、澄真の骨の奥にまで染み込んでいるのだろう。

 それは望月もちづき宗玄そうげんが強いた“役目”ではない。

 澄真自身が、それを当然と考えている動きだった。


 魁は短刀で次の攻撃を受け止めながら、横目で澄真の姿を追った。


 澄真は木の上から斜めに落下し、一人の刺客の首元すれすれを斬り抜いた。

 殺してはいない。意図的な急所外し。その判断すら速い。


 「……魁!」


 澄真が声を上げた瞬間、後方の枝から刺客が飛び出し、魁の心臓目掛けて刃が迫る。


 魁は振り返る暇さえなかった。


 ただ、風が鳴った。


 澄真の刀がその敵の刃を弾き上げ、火花が散る。

 二撃目で相手の手首を弾き、刃を奪い落とし、三撃目で膝を折らせた。


 澄真の足がかすかに魁の前へ踏み出し、魁を庇う形で立つ。


 この時、魁の胸にひやりとした痛みに似た感情が走った。


 ――なぜ、そこまで俺を。


 だが、敵がまだ動いている。思考の隙はない。


 谷河内が刺客の腹へ掌底を叩き込み、ぐらりとよろめいた敵を蹴り飛ばす。


 「……もう分かった。」


 その声は低く、凪いでいるのに、森の空気を切り裂くように響いた。

 魁が敵陣の方へ視線を向けた瞬間、木々の影がざわりと揺れた。


 敵は退いた。

 気配が、すっと遠ざかる。


 追わない。

 追わせないための“間合い”で撤退する、訓練された足音だった。


 「……退いたか」


 魁は刀を下ろすと、最後に澄真を見た。澄真はまだ周囲を睨んでいる。

 猫のように、背筋が僅かに伸び、気配の“隙間”を嗅ぎ取ろうとしていた。


 そして澄真だけが、森の奥のもっと深いところ──


 黒い気配に気付いた。


 風でも、獣でもない。

 人の“念”だ。


 魁も谷河内も気付かない。

 ただ澄真だけが、その一点を睨みつけて動かない。


 (……やっぱり、試されてる)


 枝と影の隙間に、ひとつの影があった。

 大きい。

 異様に、太く、長い。


 まるで山の獣が立ち上がったような、威圧感がある。


 しかしその影は、澄真が見たと悟った瞬間、ふっと霧のように消えた。


 残ったのは、胸の奥の冷たいざわめきだけだった。

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