五、不気味な気配

 朝霧がまだ川面に貼りついている時間帯だった。

 その薄白い霧を裂くようにして、一人の町忍が編笠を深くかぶり、橋の上を足早に歩いてくる。通りすがりの旅人を装ったまま、すれ違いざま、わずかに身を寄せた。


「……今朝も、二人。川から上がった」


 囁きは風よりも小さく、しかし確実に亥助いすけの耳へ落ちた。

 編笠の忍びはそのまま一瞥もくれず、通りの角へと消えた。


 亥助はわずかに顔をしかめ、帯に差した短刀の位置を直す。


「またか……」


 低い声には、怒りよりも焦りが滲む。

 その隣で太一たいちが大きく息を吐いた。昨夜ほとんど眠れなかったのだろう、目の下に疲労の影が濃い。


「姿が見えねえ。痕跡も少ねえ。殺し慣れた手つきだ……まったく、どうなっていやがる」

「……苛立つのはわかるが、声を落とせ」


 亥助は周囲を横目で確認しながら告げる。


「敵は影だ。俺たちが気づく前に斬られる」


 太一は唇を噛んだ。

 川から上がった二人は、いずれも優秀な仲間だった。それが二晩続けて死体で戻る。この町のどこかに、確実に“何者か”が潜んでいる。


 少し離れた位置で、ミヲが不安げに二人の顔を見比べていた。

 まだ齢十四。だが身のこなしは軽く、耳も良い。経験は足りないが、町忍としての素養は確かだ。


「……亥助殿」


 ミヲの声は細く、少し震えていた。


「これから会う戦忍の方々が力を貸してくだされば……事は片付くのでしょうか?」


 返ってくる沈黙は重い。

 やがて亥助は、面を向けぬまま短く答えた。


「わからぬ。きゃつらは……人を斬り殺すことしか出来ん奴らだ。ならずものと変わらん」


 その語気には嫌悪すら混じっている。

 太一も同意するように鼻を鳴らした。


「事態が収まるどころか、異物が混ざるだけ動きにくくなるというものだ。町の織り目に土足で踏み込まれてみろ。……上役は何を考えているのか」


 ミヲは黙り込み、指先をぎゅっと握った。

 年長の町忍たちは、戦忍を警戒し、嫌い、恐れている。

 “戦忍は鬼だ”──そんな噂話さえ子供の頃から耳にしてきた。

 どのような人物なのか…。想像すればするほど、鬼のような大男たちが脳裏に浮かび、背筋が落ち着かない。


 亥助は彼女の不安を察したのか、少しだけ声を和らげた。


「ミヲ、怯える必要はない。戦忍がどうあれ……ここは俺達の持ち場だ。俺たちは俺たちのやり方で立ち向かう。あくまで奴らは“応援”だ」


 太一も腕を組み、眉間をほぐす。


「そうだ。町は俺たちの領分だ。戦忍に仕切らせる筋合いはねぇ」


 しかし言葉に反して、空気は重い。

 町忍が殺され続けるこの状況では、戦忍の介入は避けられなかった。

 それでも町忍の誇りが邪魔をし、素直に頼る気にもなれない。


 ミヲは通りの先を見つめた。

 その向こうからやってくる戦忍は──どんな姿をしていて、どんな声で、どんな目をしているのだろう。


 胸の奥がきゅっと鳴る。


 そして三人は、それぞれの思惑を抱えたまま、戦忍との接触地点へ向かって歩き出した。



****



 合流地点の古井戸は、朝の薄霧に沈んでいた。

 井戸端にはすでに三つの影──山村やまむら亥助いすけ太一たいち、そして編笠を深くかぶったミヲが立っていた。三人とも町人の姿に紛れているが、その立ち方、呼吸の浅さは緊張を隠しきれていない。


「……来ぬな」


 亥助が低く呟き、井戸の縁を指先で叩く。


「まあ、この事態だ。怖気づいて山に戻ったかもしれん」


 太一が鼻で笑った。


 ミヲだけは黙っていた。

 想像していた“戦忍”は、鬼のような体格の男たち。肩幅が倍はあって、目つきは獣のようで──そう思い込んでいた彼女は、遠くの小道に三つの細い影が現れた時、「違う」とまず感じた。

 むしろ、自分とあまり変わらぬ年の少年たちで、しかも華奢だ。あれが待ち人であるはずがない、と一歩退く。


 少年たちの方も、相手に気づいて立ち止まった。

 先頭の魁が軽く周囲を確認し、その横で谷河内はあからさまに眉間に皺を寄せる。澄真はというと──

 知らない人間の気配にぴくりと肩を揺らし、無意識に魁の背に半歩隠れた。


「……無視してやがるのか?」

 谷河内がボソッと漏らす。


 町忍の三人は、目の前の三人をただの村人としか思わず、こちらに注意すら払っていない。

 太一は亥助に何か囁き、ミヲはそっと別の道の様子を窺っていた。


 見かねた谷河内が、苛立ちを隠さず一歩踏み出す。


「おい」


 その声に、町忍の三人が同時に振り返った。

 亥助は怪訝な顔をし、太一は僅かに目を細める。ミヲは驚いたように編笠を押さえた。


「……何か用でも?」

 太一が探るような声音で言う。


 魁は苦笑し、あらかじめ取り決められていた合言葉を口にした。


「“水脈は西へ”」


 聞いた瞬間、亥助と太一の表情が硬直した。

 ミヲは目を丸くし、編笠の下で唇を震わせながら、合言葉の続きを声に出す。


「…“影は東へ返る”」 


「……おい。お前たちがそうなのか……?」



 訝しげに見る太一を一瞥し、魁が一歩前へ進んだ。

 朝霧を吸い込むように息を整え、静かに名乗る。


「我ら三名、城下の大事に手を貸すよう命じられ馳せ参じた。──名は望月魁悠」


 その名が落ちた瞬間、太一の眉が跳ね上がる。


「望月?……宗玄そうげん様と同じ氏では?」

「望月宗玄は、俺の父だ」


 淡々とした口調だったが、町忍の側に走った衝撃は大きかった。

 亥助と太一は目を見合わせ、ミヲでさえ編笠の奥で息を呑んでいるのが分かる。


 亥助は顎に手を当て、ゆっくりと納得したようにうなずいた。


「……なるほど。正直なところ、我々の窮地に子供などを寄越した上役に腹が立っていたが……貴殿が来られたのであれば話は別だ」


 そう言い、改めて姿勢を正す。


「俺は山村亥助。こっちは太一、そして……」

「…ミヲです」


 魁は軽く頷き、すぐ背後を振り返る。


「──お前らも名乗れ」


 谷河内が渋々前に出て、肩をすくめながら言う。


「谷河内喜助。ガキに見えて申し訳なかったが、これでも齢十九だ」


 その隣では、澄真が小さく身を縮めていた。

 視線は地面に落とされ、魁の袖をそっと掴んだまま動かない。


 町忍の三人が不審そうに彼を見つめると、澄真はさらに魁の背へ隠れる。

 編笠の隙間から、ミヲがじっとその華奢な影を観察していた。


「……」


 魁は浅く溜息を吐き、代わりに名乗った。


「これは結城澄真。故あって面を被っているが、詮索は無用に願いたい」


 戦場で被る狐面ではなく、猫の面を被った澄真は、無言のまま軽く頭を下げる。

 味方である町忍び相手といえど、いたずらに素顔は見せない方がいいという魁の意向だった。


「──この通り少々人見知りだが、腕は確かだ。頼っていい」


(……そうは見えないけど)


 ミヲは心の中でそっと呟いた。

 そのあまりに淡い雰囲気からは、とても“腕が確か”などとは思えない。

 亥助と太一も同じようで、互いに肩をすくめてみせた。


 魁は気に留める様子もなく、すぐに本題へ踏み込む。


「早速になるが、事情を聞きたい」

「ああ……ここでは話せん」


 亥助が周囲へ視線を巡らせ、声を落とす。


「ついてきてくれ」


 そう告げると、三人の町忍はすばやく町の裏道へ歩き出した。

 魁、谷河内、そして澄真も、互いの距離を慎重に保ちながら後を追う。


 迷路のような城下町の奥は、朝霞の名残を吸い込んだまま、冷たく静まり返っていた。

 町忍三名の背中は迷いなく進み、澄真たちはその後に影を重ねるように続く。


 その間、澄真はずっと魁の袖をつまんでいた。

 肩を寄せ合うほどの距離。足音も息遣いも、互いに触れ合いそうなほど近い。


 魁は澄真に視線だけを向け、小声で問いかけた。


「……どうした?」


 澄真はハッとし、慌てて袖から手を離した。

 だが視線は落としたまま、喉がひくりと動く。


「……見られるの……少し怖い。 ……けど、それより……」


 魁が眉を寄せる。


「ん?」

「なんだか……ビリビリする」

「びりびり?」


 その言葉に割って入ったのは、後ろからひょいと顔を出した谷河内だった。


「俺も感じるぜ。あいつらの敵意をびっっっしびしにな!!」


 声が思った以上に響き、魁は眉間に深い皺を寄せる。


「声が大きい。……谷河内、いい加減にしろ。ここは町忍の持ち場だ。俺達の介入が面白くないのは当然だろう」

「……っ」


 谷河内は一瞬むっとしたが、魁の真剣な目に根負けしたように深呼吸する。


「……わかったよ! もう何も言わねえ!──それに、いつまでも尖ってたらアイツらと同じになっちまうしな」


 魁はその言葉に、ほんのわずか表情を緩ませた。


 しかし、その横で──

 澄真だけはまだ、不安げな表情で視線を地面に落としていた。


 握りしめた拳が、かすかに震えている。


 その震えが“敵意への警戒”なのか、

 もしくは——もっと別の、澄真だけが感じ取っている何かなのか。


 魁は問いかけようとしたが、言葉は喉で留まり、結局前を歩く町忍の背に意識を戻した。


 六人は無言のまま、さらに城下の奥へと足を進めていく。



****



 案内された先は、町外れの古い蔵だった。

 湿った空気がよどみ、静まり返った空間に、十名近い町忍たちが集っている。


 彼らの中央。

 布をかけられた二名の遺体が、丁寧に並べられていた。


 町忍たちの表情は一様に沈み、どこか擦り切れてもいた。


 太一が口を開く。


「こうして……ほぼ毎日、犠牲者が出ている。

 昨夜も見回りに出た仲間が戻らず、夜明けと同時に捜したら……この有り様で」


 声には怒りも、悔しさも、疲労も混じっている。


「検分させてもらっても?」


 様子を窺うように問う魁に、亥助がうなずく。


「頼む」


 魁はまず二人の遺体に手を合わせ、それから片方の着物をそっとめくった。


 その横で、亡骸と親しかったらしい町忍の男が、ぽつりと洩らす。


「……そいつは、もうじき祝言を挙げるはずだったんだ……」


 重い言葉が、蔵の奥に落ちていく。

 誰も口を挟まない。町忍たちの喪失の深さが、静けさに滲んだ。


 澄真はもう一人の遺体の傍にしゃがみ込み、じっと観察している。

 そのときだった。


「……ん?」


 魁の小さな声だったが、周囲の空気がぴたりと止まった。

 魁の顔を、亥助が覗き込む。


「どうした?」


 魁は血痕に指を滑らせ、周囲の土をつまんでみる。

 そして遺体の腕を持ち上げ、爪の間を覗き込んだ。


「……この傷、斬られたものじゃない。刺突だ。それも……」


 魁は眉をひそめる。


「同じ角度、同じ深さ、同じ向き。二人とも“寸分違わず”同じ刺し方をされている」

「……偶然ってわけじゃねえな」

「偶然どころか、人間業とは思えない“正確さ”だ。刺突点も、急所を外さず、ほぼ同じ位置……まるで、同じ型で突きを繰り返したような」


 魁は遺体の手元を見て、さらに目を細めた。


「……しかも、争った形跡が極端に少ない。襲われた瞬間に“反応できなかった”のか……」

「暗殺の手練れか?」

「おそらく。しかもこれは、“見せつけるための殺し”だ。技術を誇示するように、綺麗すぎる」


 町忍たちの背筋に冷気が走り、ミヲは顔色を悪くしながら口を開く。


「……じゃあ、下手人は……」

「少なくとも、素人ではない。型に狂いがない……これは、“訓練された刃”の仕事だ」


 そのとき。

 澄真が、じっと遺体を見つめたまま、小さく呟いた。


「魁……これ……」


 澄真の指先が示すのは、遺体の足首。

 そこには、よく見なければ分からないほど微細な、二つの痕跡。


「……踏み込みの跡か?」

「うん……。たぶん……犯人、“左足から”入ってる」


 魁の瞳が鋭く光る。


「……左足からの踏み込み……? この刺しの角度で?」


 町忍たちには意味が分かっていないが、魁だけは震えるほどの違和感を覚えた。


(この刺し型……左から踏み込んでこの角度で急所を貫くのは……普通の剣士では逆に“やりにくい”はずだ)


 魁は息を呑み、澄真を見た。


(まさか……忍びの“型”……?)


 澄真は言葉には出さず、ただ目を伏せる。


「──太一、例の紙を」


 亥助に促された太一が、机の上に広げたのは町の地図だった。

 川沿いの区域にいくつもの印が付けられている。


「……この十日ほどで、犠牲者は八名。全て町忍であり、うち六名は“情報収集”に長けた者達だった」


 蔵に重たい沈黙が落ちた。

 魁が頷き、地図へ身を寄せる。


「殺された場所は?」

「川沿いの三つの橋付近が多い。遺体が流されて見つかるのは別の場所だ。夜間に見回りに出た者や、人混みに紛れて接触しようとした者も……」


 語尾は悔しさに滲んだ。

 魁は地図に指先をすべらせながら、淡々と問う。


「敵の人数、あるいは特徴は掴めていないのか?」


 亥助が歯噛みする。


「……全く掴めん。町忍の者がここまで何も得られんのは異常だ。気配も足跡も、遺留物もほぼ無し。まして切り口は鋭いのに乱れがない。……まるで“影”が人を殺しているようだ」


 谷河内が腕組みしながら首を傾げる。


「影、ねえ……気味が悪ぃな」

「姿を見た者はいないが、ただひとつだけ、昨夜やられた仲間が最期に残した“跡”がある」

「跡?」


 太一が机の下から布に包まれた木板を取り出した。

 血で汚れたそれには、爪で引っ掻いたような鋭い線が刻まれている。


 魁が目を細める。


「……これは、“形”だな」

「形?」


 魁は指でその線をなぞりながら言う。


「……この刻み方。おそらく死の間際に仲間へ何かを知らせようとした“合図”だ。最期に“敵の特徴”を残したんだ」


 場の空気がぐっと硬くなる。


「分かるのか?」

「断定はまだしない。だが……」


 魁は木板から指を離し、僅かに息を吐いた。


「この線の引き方は、“左から右へ斜めに切り下ろす”癖がある、と言いたいように見える。それも、ただの癖ではなく……剣の“型”そのもの」


 魁は静かに続ける。


「……織宮の剣だ。この町を狙っているのは、同じ“織宮の者”である可能性が高い」


 蔵にいた十名ほどの町忍全員の顔色が、一瞬で変わった。

 疑念、怒り、嫌悪、そして恐怖。


「……あんた、今……何て言った?」

「聞こえたはずだ」

「まさか……内通者……?いや、そんな……」


 場の空気は混乱寸前。

 そんな中、澄真だけが面の奥でじっと黙り、遺体の傷を反芻している。


「……同じ…刀の匂い」


 誰にも届かないほどの微かな声で。

 魁だけがその言葉に、横目で気付いた。


(……やはり、お前も感じていたか)


 太一がまず反応した。

 顔色がさっと血の気を失い、それから逆に血が昇る。


「……同じ織宮だと? 俺達を殺してるのが、味方だと? 冗談じゃねぇ!!」

「落ち着け太一!!言っているのは“可能性”の話だろう!」


 しかし太一は怒りを飲み込めない。

 犠牲になった仲間の名を思い出すだけで、胸の奥が焼けるのだ。


「八人も殺られてるんだぞ!?それをやったのが、外の賊じゃねぇ、“俺達を知っている誰か”の仕業ってのか!」


「太一殿」


 魁の、低く通る声が、蔵の中に響いた。

 太一が言葉を止める。


「お気持ちは当然だ。怒りも疑念も……痛いほど理解する。 だが、今ここで焦っても、何も解決しない」


 魁は静かに太一の目を見る。

 太一の肩が僅かに震えた。怒りだけではない──不安だ。


 魁は続ける。


「まずは事実を確かめたい。剣の癖が“織宮のものに似ている”というだけで、犯人が内からとは限らない。模倣や、攪乱の可能性も」


 町忍達の呼吸が、少しだけ整う。

 そも空気を察しながら、魁は淡々とまとめる。


「いずれにせよ──まだ断言はできない。だからこそ、今は情報を集める。敵の動き。足跡。聞き込み。地形。 町忍の力が要る」


 亥助が深く息をつく。


「わかった。 では、街の状況を順に説明しよう。“消える殺気”のことも、昨夜あった不審者の影も……全部話す」

「助かる」


 亥助が壁際の棚から、簡易の地図を広げた。

 紙は使い込まれて端が柔らかくなっており、何度も仲間達の指でなぞられた跡がある。


「……これが城下の通りと、毎夜の“犠牲が上がった場所”だ。 見ての通り……点が散らばっていて、規則性がない。追跡しようにも、線が繋がらん」


 太一が赤墨で記された小さな点を、悔しげに指先でなぞる。


「毎度“消える”んだ。気配を感じ、追っても……角を曲がればいなくなる。本当に生きた人間か疑うほどに」


 澄真は地図にしゃがみ込み、面越しにじっと覗き込んだ。

 指で一点一点を触るようになぞり──わずかに首を傾げた。

 その仕草に、魁が澄真に視線を移す。


「……何か気付いたか?」

「うん……いや……うーん……変な感じするだけ」

「変ってなんだよ」


と、谷河内。


「ばらばらに見える。でも……全部“歩いてる道”が似てる。なんかこう……ぐにゃ、って……」


 言葉にしづらい感覚。

 だが魁はすぐに理解の糸口を掴む。


「“回遊している”……ということか?」


 澄真はぽんと手を叩いた。


「それ!ずっと同じところ歩いてるみたいに。でも、遠くのを選んだり……変なの」


 ミヲが地図をのぞきこむ。


「……同じ場所を……巡っている……?」

「いや、だとしたら……行く方向が毎度違いすぎる」

「だが、“人が死ぬ位置”は違っても……“敵が現れた瞬間”の目撃情報は、奇妙に重なっていたな」


 太一がはっとする。


「……そうだ。“黒い影”を見たのは、全部この通りの傍……」


 地図の上、一本の細い道が浮かび上がる。

 澄真の感覚が、線を描き始めていた。


「その細道……なんなんだ?」

「城下の外れの、古い路地だ。抜け道にもなるが……夜は人が入らん」


 亥助の言葉に、魁が顔を上げる。


「まずはそこを調べたい。敵の正体が何であれ……動線を押さえるのが先だ」


 太一が静かに頷く。

 怒りはまだ奥底で燻っているが、任務に頭が向いている。


「……今から向かうか?」

「いや、まだだ」


 魁は迷いなく言葉を続けた。


「遺体から判断するに──敵は“夜に動く”。日が沈むまで、敵は現れん。いま急ぐより……地の利を詳しく教えてほしい」


 亥助は短く息を吐く。


「分かった。町の構造、旧い抜け道、閉ざされた屋敷……全部案内する。 それから──昨夜影を見た者の話も聞かせよう」


 そこで魁は振り返り、澄真を見やる。


「澄真。……さっきの“変な感じ”、まだするか?」


 澄真は面の奥で、きゅっと眉を寄せる。


「……うん。なんか…この町、ちょっとだけ変」

「変?」

「空気の色が違う。町の全部じゃなくて…どこかが、少しだけ冷たい。うまく言えないけど……」


 その言葉に、魁は小さく息を飲んだ。

 澄真はときどき──誰よりも早く“異変”を嗅ぎとる。


 ──その時。


 蔵の扉の外で、かすかな“軋み”が響いた。

 風の音にしては鋭く、足音にしては軽い。


 亥助が即座に合図を送り、町忍が入口へ散る。

 魁達も構える。


 澄真は──面を押えたまま、小さく呟いた。


「……今の……寒かった」


 小さな一言。

 それが、最初の“予兆”だった。

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