蕎麦屋
増田朋美
蕎麦屋
日本から何十キロも離れたところにあるパリ市内。日本にくらべたらずっと人も多いし、電車もたくさん走っているし、大きな建物もあり、まさしく大都会というのにふさわしいところであるが、日本に比べると、どこかのんびりしていて、気忙しくならないように工夫されている街である。
その日、シャルル・ド・ゴール空港近くにあるモーム家では。
「おはよう水穂。」
と、トラーが、眠っていた水穂さんに声を掛ける。
「おはようございます。」
水穂さんがそう言うと、
「ねえ水穂、今日空港行こうよ。なんでも空港に蕎麦屋ができたんだって。なんでも最近こちらでも蕎麦屋が流行っているらしいのよ。どんな味がするか行ってみよう。」
と、トラーはにこやかに言った。
「そうですか。あいにく疲れてしまっているので今日は。」
と、水穂さんが言うが、
「良いじゃないの。たまには歩いたほうが良いって、ベーカー先生だって言ってたわよ。空港を歩いてみるだけでも良いわ。疲れたら休むところはいくらでもある。」
トラーはそう、どこか妖艶な表情でそういうのであった。
「しかし、空港を歩いてどうするんですかね?」
水穂さんがそういうのであるが、
「歩いてみるのは良いことよ。じゃあ、行こう。」
トラーに言われて、水穂さんは、布団から起き、着物を着替え直して、仕方なく外へ出た。
「しかし、水穂っていつも着物なのね。あたしそれが不思議だわ。こっちへ来て、せっかくリフレッシュするために来てるんだから、洋服着てもいいと思うんだけど?」
トラーは道路を歩きながらそういうのであるが、水穂さんはにこやかに笑うだけで、答えなかった。
「空港はこっちよ。あれがラウンジなの。誰でも入れるのよ。」
トラーは水穂さんを空港のラウンジへ連れて行った。確かに誰でも入れるということで、いろんな人達がお茶を飲んだり、ケーキを食べたりしている。
「ほら、向こうにパン屋があるわ。あそこでバゲット買っていかない?バゲットは本当に美味しいから?」
「残念ですがバゲットは食べられません。ごめんなさい。」
トラーの話に水穂さんは、申し訳なさそうに言った。
「じゃあ、他のものを買っていこう。ここだったら、いろんなものがたくさんあるわよ。変わったところでは、インドネシアの食べ物まであるのよ。」
トラーはそういうのであった。
「ちなみに、ここではうどん屋もあるし、ラーメン屋だってあるわ。本当になんでも売ってるから、遠慮しないで言ってよ。」
「そうですか。でもトラーさん、僕達、蕎麦を食べに来たんじゃなかったんですか?」
水穂さんがそう言うと、
「ああそうだったわね。じゃあ、このラウンジの近くに蕎麦屋があるわ。」
そう言ってトラーは、水穂さんの手を引っ張って、その店へ連れて行った。先程のラウンジのように大量に人がいる店ではなくて、一つか2つしかないテーブル席と、数席のカウンター席に、客がちらほらいる程度。大変静かな店であった。
「こんにちは。」
トラーと、水穂さんは、テーブル席に座らされた。メニューを見せてもらったのであるが、蕎麦と言ってもガレットを中心に販売している店で、生クリームやいちごなどを乗せた、デザート用のものが中心になっている。しかしメニューの片隅に、蕎麦麺とローマ字で書かれていた。トラーはすぐそれを頼んだ。水穂さんもそれを頼んだ。
ところが、やってきたのは日本によくある蕎麦麺ではなくて、いわゆるピッツォッケリと呼ばれている、10センチ程度の棒状の麺を利用するパスタであった。どうやら、これを蕎麦麺と愛称をつけていたらしい。確かに、そば粉を使用しているから、蕎麦と言えなくもないが。
「これ、蕎麦じゃないですね。おそらく蕎麦と、ピッツォッケリを勘違いして出しているんじゃないですか?」
水穂さんがそう言うと、
「そうなの?私知らなかった。蕎麦もピッツォッケリも似たようなものだと思ってた。ピッツォッケリに似たものが、日本にもあるのかと思ってたわ。ごめんなさいね。それとは違うのね。」
トラーは素直に謝った。
「いや、良いんですよ。日本でそばといえば蕎麦麺のことを指しますが、こっちではピッツォッケリの事を言うのは、当たり前じゃないですか。それに、文化というのは、そういう勘違いから発生することだってあるんじゃないですか。音楽なんかにはよくあることです。料理もそうじゃないですか?」
水穂さんはそう静かに言った。
「そうなんだ。ありがとう。水穂はそういうところが優しくて良いね。あたし、勘違いして失敗して笑われたことは今までに何度もあった。それなのにいいよって言ってくれたのは、水穂だけよ。本当にありがとう。」
トラーはそうにこやかに笑っていった。
不意に誰かが喋っている声がした。他に客が来た様子はないので、店の人がラジオでも流しているのだろう。もちろん、フランス語で流れているのであるが、その中に若隆景とか、大ノ里と聞こえてくるので、大相撲中継を流しているんだとわかる。
「ああ、こんなところで大相撲中継流しているんですか?」
水穂さんが思わず言うと、
「そうなのよ。こっちでも相撲は大人気よ。日本で人気ある力士は、こっちでも大人気よ。」
トラーはにこやかに笑った。
「そうなんですか。でも決まりての表現の仕方とかどうするんだろう?とったりとか、どうコチラで表現するんですか?押し出しくらいは、表現できるかもしれませんが?」
水穂さんがそう言うと、確かに決まり手を表現する単語がないときは、そのまま流しているようである。よく聞いてみると、内無双とか、うっちゃりなど、日本語でしか表現できない決まりてはそのまま聞こえてくる。
「なんだか知ったかぶりの大相撲中継ですね。日本語でしか表現できない決まりては、いっぱいあると思いますので、仕方ないこともあるでしょうね。」
水穂さんは、苦笑いしていった。
「でも楽しいでしょ。こっちでも、人気力士の名前を知ってる人は多いわよ。」
トラーはにこやかに言った。
「そうですか。それは嬉しいことですが、なんだか違和感があるなっていう気持ちがしないでもないけど、それはあまり言われないんですか?」
水穂さんはそういうが、
「良いじゃないの。勘違いから発生する文化もあるって言ってくれたのは、水穂でしょ?だからそんなこと気にしないで楽しみましょうよ。あたしは、少なくともそう思ってるわ。水穂をここへ連れてきたのもそのためなんだし。」
トラーはにこやかに言った。いつまでも人が入らないで、知ったかぶりの大相撲中継を流している蕎麦屋は、空港の人たちを無視して営業を続けていた。
蕎麦屋 増田朋美 @masubuchi4996
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