掌編小説「狐火の夢」

マスターボヌール

燈火

闇が深まる秋の夜、山間の風が静かに木々を揺らす。遠くで鹿が鳴き、足元に枯葉が舞う。村は息をひそめ、忘れられた時を生きていた。


この地には、語られてはいけない昔話があった。声にすることも、筆に記すこともはばかられた物語。


それでも――火は踊る。


誰にも見られぬように、誰にも気づかれぬように。


それは青白き炎。稲荷でも霊でもなく、記憶そのもの。

今宵、封じられた真実が、娘の瞳に宿るといった話。



秋の夜長、山間の村に不可思議な火が踊る。


「また出ておるな」


老いた村長の呟きに、囲炉裏を囲む村人たちの顔が強張った。障子越しに見える青白い光が、まるで生き物のように揺らめいている。


「狐火じゃ。稲荷様のお使いが、何かを知らせに来ておるのかもしれん」


しかし、村の最年長である婆様は首を振った。


「違う。あれは普通の狐火ではない。色が違う。青すぎる。それに...」


婆様の濁った瞳が、暗闇の向こうを見詰めた。


「あれは人を呼んでおる」


その時、村の外れで一人の少女が立ち尽くしていた。名を美月という十六の娘で、生まれつき霊感が強く、村人からは畏れられていた。


美月の瞳に映る狐火は、他の者には見えない形を成していた。火は踊りながら文字を描き、彼女だけに向けて何かを語りかけている。


『おいで』


『こちらへ』


『真実を見せてあげる』


美月の足は、意識とは裏腹に火の方へと向かっていた。


村を包む山には、古くから語り継がれる禁忌があった。


山の奥、三つの巨石に囲まれた場所には決して近づいてはならない。そこは現世と異界の境目であり、足を踏み入れた者は二度と戻らないという。


美月が狐火に導かれて辿り着いたのは、まさにその場所だった。


月光に照らされた三つの石は、まるで鳥居のような形を成している。その中央で、狐火はゆらゆらと浮かんでいた。


「なぜ私を呼んだの?」


美月の問いかけに、火は一層激しく踊った。そして徐々に形を変えて、一匹の白い狐の姿を現した。


狐の瞳は人のそれのように知性に満ち、口元には不敵な笑みを浮かべている。


『美月』


狐は人の言葉で彼女の名を呼んだ。


『お前にだけ、真実を教えてやろう。この村に隠された、忌まわしい秘密を』


「秘密?」


『百年前、この村で起きた惨劇を知っているか?』


美月は首を振る。しかし心の奥で、何か重要なことを忘れているような感覚があった。


『思い出すがいい。お前の血に刻まれた記憶を』


狐が尻尾を振ると、美月の視界が歪んだ。目の前に浮かんだのは、燃え盛る村の光景だった。


炎に包まれる家々、逃げ惑う人々の悲鳴、そして―――


『見えるか?あの巫女を』


燃え盛る社の前に、一人の少女が立っていた。美月と同じ年頃で、同じ顔をしていた。


「私...?」


『お前の先祖だ。名を月姫という』


幻の中で、月姫は村人たちに囲まれていた。人々の表情は恐怖と憎悪に歪んでいる。


「化け物め!」


「貴様のせいで村に災いが!」


「稲荷様の怒りを買ったのは、この女のせいじゃ!」


月姫は必死に弁明しようとしたが、村人たちは聞く耳を持たなかった。そして―――


美月は目を逸らしたくなったが、狐の力で視線を固定されていた。月姫が炎の中に投げ込まれる瞬間を、彼女は見ることを強いられた。


『無実の巫女を殺した村人たち。だが月姫は死の間際、呪いの言葉を残した』


炎に包まれながら、月姫は叫んでいた。


「我が怨み、百年の後に必ず果たさん!血筋を辿りて現世に戻り、この村に真の恐怖を知らしめん!」


『その血筋の末裔が』


狐が美月を見つめる。


『お前だ』


真実を知った美月の中で、何かが目覚めた。


月姫の記憶が雪崩のように流れ込み、彼女の中に眠っていた力が覚醒する。美月の瞳が金色に光り、髪が風もないのに舞い上がった。


「私は...月姫...」


声は美月のものではなかった。百年の怨念を宿した、別の人格が表面に現れたのだ。


『そうだ。お前の本当の名は月姫。復讐の時が来た』


狐は満足げに笑う。


『村人どもに思い知らせてやるがいい。無実の者を殺した報いを』


美月―いや、月姫の周りで狐火が乱舞する。数十、数百の火が現れ、村の方角へと向かっていく。


その夜から、村に異変が起き始めた。


まず、村長の孫が姿を消した。朝起きると布団だけが残され、本人は影も形もない。捜索隊が山狩りをしたが、見つかったのは破れた着物の切れ端だけだった。


次に、井戸の水が血のように赤く染まった。どれだけ汲み出しても色は変わらず、村人たちは遠くの沢まで水を汲みに行かなければならなくなった。


そして決定的だったのは、村の若い男たちが次々と謎の熱病に倒れたことだった。皆、うわ言で同じことを繰り返していた。


「月姫様が...月姫様が来る...許してください...」


村人たちがざわめく中、美月だけが平然としていた。いや、美月の姿をした何かが、である。


「どうしたの、皆さん?」


彼女は無邪気に微笑む。しかしその笑顔の奥に、村人たちは深い闇を感じ取っていた。


村の異変は日を追うごとに激しくなった。


子供たちが一人また一人と姿を消し、残された親たちは泣き叫んだ。消えた子供たちの最後の目撃証言は皆同じだった。


「青い火に導かれて、山の方へ歩いて行った」


村人たちは稲荷神社に集まり、神職に加持祈祷を依頼した。しかし神職でさえ、この異常な事態に為す術がなかった。


「稲荷様の怒りじゃ。何か御心に背くことをしてしまったのじゃ」


「でも何を?我々は代々、稲荷様を敬ってきたはずじゃ」


その時、群衆の中から美月が進み出た。


「皆さん、私が聞いたお話があります」


美月の声は普段通り清らかだったが、村人たちは本能的に後ずさった。


「昔、この村で巫女が殺されたそうですね。無実の罪で」


村人たちの顔が青ざめる。


「その方の名前は、月姫様と言ったとか」


美月の瞳が金色に光った瞬間、村人たちは理解した。


目の前にいるのは美月ではない。百年前に殺された巫女の怨霊だった。


「覚えているでしょう?私を炎の中に投げ込んだ時のことを」


月姫の声で語る美月の周りに、無数の狐火が現れた。


「無実の私を化け物と呼び、村の災いの原因だと決めつけて」


村人たちは震え上がったが、逃げることができなかった。狐火が彼らを取り囲み、退路を断っていたのだ。


「あの時の村人の子孫たち。血は繋がっていても、罪は関係ないと思っていたでしょうね」


月姫が手を上げると、地面から青白い炎が立ち上がった。


「でも怨念というものは、血筋を辿るのです。あなたたちの先祖が私にしたことを、今度は私がお返しする番です」


「待ってくれ!」


村長が前に出た。


「確かに先祖が悪いことをしたのかもしれん。だが、それは百年も昔のこと。我々には関係のないことじゃ!」


月姫は冷笑した。


「関係ない?では、なぜあなたたちは私の墓も作らず、供養もせずにいたのです?罪の意識があったからでしょう?」


村長は言葉に詰まった。確かに村には、百年前に死んだ巫女の話は語り継がれていたが、誰も供養しようとはしなかった。無意識に触れてはいけないものとして扱ってきたのだ。


「美月ちゃん!」


突然、群衆の中から一人の老婆が声を上げた。美月の祖母だった。


「お前は美月じゃ。月姫ではない。孫の体を返しておくれ」


月姫は祖母を見つめた。


「この体は元々私のもの。血筋を辿れば、私の生まれ変わりなのですから」


「違う!美月は美月じゃ!優しい心を持った、我が孫じゃ!」


祖母の言葉に、月姫の表情が一瞬揺らいだ。


「美月...」


祖母は狐火を恐れることなく、月姫に近づいた。


「お前の苦しみはよく分かる。無実の罪で殺され、百年も怨念を抱き続けてきた。辛かったじゃろう」


月姫の瞳から涙が溢れた。


「でもな、復讐では何も解決せん。新たな悲しみを生むだけじゃ」


「では、どうすればいいのです!」


月姫が叫ぶと、狐火が激しく揺らめいた。


「私の無念は、どこにぶつければいいのです!」


「それは...」


祖母が振り返ると、村人たちが皆頭を下げていた。


「月姫様、申し訳ございませんでした」


村長が代表して謝罪する。


「先祖の犯した罪を、我々は忘れてはいけなかった。あなた様を供養し、心から謝罪すべきでした」


「今からでも遅くはありません」


神職が進み出る。


「私が責任を持って、月姫様の鎮魂の儀を執り行います。そして村の守護神として、末永くお祀りいたします」


月姫は立ち尽くしていた。長い間求めていた謝罪の言葉を聞いて、怨念の炎が静まっていくのを感じていた。


一週間後、村では盛大な鎮魂祭が行われた。


新しく建てられた月姫の祠には、美しい巫女装束を着た木像が安置されている。村人たちが次々と参拝し、心からの謝罪と感謝を捧げた。


美月は祠の前に座り、静かに祈りを捧げていた。月姫の記憶は残っているが、もう怨念に支配されることはない。


「ありがとう、美月」


心の中で月姫が語りかける。


「あなたのおかげで、私は救われました」


「私も先祖の罪を償えて良かった」


美月が微笑むと、祠の前に一匹の白い狐が現れた。あの夜、美月を導いた狐だった。


しかし今度は敵意はなく、感謝の気持ちを込めて美月に頭を下げる。


「稲荷様のお使いだったのね」


狐はうなずくと、青い火を灯した。しかし今度の火は温かく、見る者に安らぎを与える優しい光だった。


狐火は祠の周りを一周すると、山の奥へと消えていった。


それから村には平和が戻った。


消えた子供たちも無事に帰り、病に倒れた者たちも回復した。井戸の水も元の透明さを取り戻し、村人たちは安堵のため息をついた。


しかし最も大きな変化は、村人たちの心にあった。過去の罪と向き合い、それを償うことの大切さを学んだのだ。


美月は月姫の記憶を受け継ぎ、村の新しい巫女となった。彼女の元には、霊的な悩みを抱えた人々が相談に訪れる。


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掌編小説「狐火の夢」 マスターボヌール @bonuruoboro

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