#8 かすかな『音』


 それは、うららかな春の午後三時でした。

 窓から差し込む陽光が、私のデスクを穏やかに照らしていました。


 そんな静かな時間に、突然、電話のベルが鳴り響きました。

 私はおやつのフローレットを口に入れるのを諦め、受話器に手を伸ばして……


 ──既に嫌な予感がしていました。



 受話器を取ると、かすかな音が遠くから聞こえてきました。


 ニャア……


 猫、でした。

 胸の奥に冷たいものが走ります。


 猫とPC──猫から見ればちょうどよい座布団くらいですが、PCから見れば猫はとても相性が悪い存在です。


 胃がキリキリと締め付けられるような感覚。後でセルベールを飲まなければ……。


 電話の相手は、在宅勤務中の社員でした。

 声は落ち着いているようだったが、どこか焦りを帯びている。


「うちの猫が……デスクに飛び乗ってきて、コップをノートPCにひっくり返したんです」

「コップ? 何か入ってたんですか?」


 私は息を呑み、心臓が嫌な予感でドクンと跳ねる。


「コーヒーです。砂糖たっぷりの、甘いやつ……」


 その言葉に、私の頭の中で赤い警告ランプが点滅した。

 砂糖入りのコーヒー、最悪だ。


「量はどれくらいですか? 少量かあるいは──」

「ノートPCの下部から流れ出る量です。テーブルの上にコーヒー溜まりが出来ていて……」


 ノートPCの内部は、今頃、甘い毒に侵されているに違いない。


「慌てて電源を落としたんですけど……まだ動くか、わからないんです」


 相手の声は、まるで助けを求めるような響きだった。


 私は深呼吸して、状況を整理した。

 砂糖入りの液体は、ノートPCにとって致命傷だ。

 仮に今、奇跡的に起動したとしても、いずれは動かなくなる。

 机まで濡れるほどの量なら、内部はすでにびしょ濡れだろう。

 これは、メーカーに修理してもらうしかない。


 だが、相手はさらにこう尋ねてきた。

「ネットで見たんですけど……米びつに入れて乾かせば直るって、本当ですか?」


 私は受話器を握る手に力を込めた。

 ──お米か。


 確かに、そのようなレポートを載せたサイトをいくつか見たことがある。

 だが、一時的に動いたとしても、砂糖が基盤を確実に腐食する。

 それに……


「やめたほうがいいです」


 私は静かに、だがはっきりと答えた。


「お米が、コーヒーの匂いに染まってしまうかもしれませんよ」


 受話器の向こうで、相手が息を呑む音がした。

 しばらくの沈黙の後、かすれた声で答えた。


「……じゃあ、やめておきます」


 こうしてこのノートPCは、後日メーカーの修理工場に送られることになりました。




 在宅勤務の時代、猫だけではなくペットは時に思いもよらぬ災厄をPCに招きます。

 今回のような液体被りだけでなく、PCを落としたり、コードをかじって破損させたり。


 どうか、皆さんもご用心を。

 出来ればPCを置く部屋に、ペットを入れない方が良いかもしれません。



 ◇ ◆ ◇ ◆


 可愛さに 災厄いつも 付きまとう

 守りたいなら 部屋は別々


 ◇ ◆ ◇ ◆



おそまつ



─────────────────────────────────────


<作者から>


 ネタはまだまだありますが、一旦これで締めとさせていただきます。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。



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