終 三.

 ハルが由良とともに遠坂の屋敷に戻ると、豆の支度が終わったところだった。

 髪を頭のてっぺん近くで結い、薄墨の袍に白袴を着た豆は凜々しく見える。ハルはほう、とため息をついた。着付けた絢乃も誇らしそうだ。


「見違えたな、豆」

「まだ冠をつけてもらってないから、落ち着かないけどな!」


豆が胸を反らしたところに、襖戸を開ける者があった。良峰が、いかめしい顔をいつもの倍はいかめしくして入ってくる。


「いったいいつになったら始められる? さっさと支度しろ」

「今、終わったよ」


 良峰はハルたちも揃ったのを無言で確認すると、奥の間の上座に足を進めた。豆がその正面に立つ。ハルは由良や絢乃にならって隅へ下がった。

 良峰の手には、成人男性が被る冠がある。ハルは隣で正座した由良を盗み見た。由良もまた、良峰や豆とおなじく薄墨の袍に白袴。あのまま正式に神護りと認められたのだろう。

 胸がじわりと、熱を持つ。


「良久、そなたを今日より神護りと認める。主様のお心を安らげるため、そしてこの国の繁栄と安寧のため、いっそう励まれよ」

「はい。おれ、誰よりも強くなって主様とこの国の人々を護ります」


 良峰が進み出て、結った姿がまだ馴染まない小さな頭に、重々しい仕草で冠を被せる。良久が顔を上げた。新米だが立派な神護りだ。

 荒ぶる神を封じた今、これから神護りの役目も変わっていくだろう。それでも、豆たちがこの国を支えていく柱となるのは間違いない。


「おめでとう、良久。無事にこの日を迎えられて、嬉しいわ」


 絢乃が真っ先に良久を抱きしめる。良久は居心地悪そうに身じろいだ。


「おれ、もう赤子じゃないんだって。かかさま、そこわかってる?」

「まあ、まあ。そうね、良久。あなたはもう大人ですよ」


  絢乃が体を離し、良久がハルに駆け寄る。


「これでおれも、いっぱしの神護りだからな。ハル。もし今後なにかあったら、そのときはおれが護ってやる」

「頼もしいな豆――じゃなくて良久」

「で、どう、完成形のおれ。ハルもおれに惚れたか?」


 周囲がぎょっとしたが、ハルは首をかしげた。


「惚れる? とはなんだ」

「ええっと、だからさ。うん、心の臓を射貫かれた気分になることだぞ」

「ああ、なるほど。それならわかる。わたしも由良に心の臓を射貫かれたからな。あれは肝が冷えた」


 良久を除いた皆の視線が、微妙な空気を含んでハルを向いた。良久だけは様子が違い、嵐の直撃を受けたような顔をしている。


「ハル、由良よりおれのほうがいい男だぞ。おれにしろよ!」

「まあ……っ、まあ、良久、そうだったの? どうしましょう」


 高い声でおろおろし始めたのは絢乃だ。男たちはと見ると、良峰も由良も絶句している。ややあってから、良峰がつぶやく。


「元服を終えたばかりで求婚か。子は恐れを知らないものだが、いやはや……」


 これは求婚だったのか。ハルはようやく理解した。神依りだった巫女を娶ろうとは、良久もなかなか豪胆である。微笑ましく思ったが、さて返事はと考えたときだった。


「駄目だよ、ハルは」


 隣から由良が笑顔で口を出した。


「良久。悪いけど、ハルは諦めて」

「む、どうせ由良は、わたしといると心の臓が保たないとかなんとか言う気だろう。失礼なやつめ」

「……え」


 なぜか良峰と絢乃が揃ってぽかんとし、由良が珍しく眉を下げて顔をそむける。

 良久だけが、問題ないと言わんばかりに薄墨の袍の胸を反らした。ハルは苦笑して、足下にすり寄ってきたフユを抱きあげる。


「わたしは今、これまでになく体が軽いんだ。今なら、行きたい場所や見たい景色をすべて手にできる気がする」


名波なはの山裾で出会った君代きみよや村の女たちは、今ごろどうしているだろう。君代の子にも会ってみたい。

 村を吹き抜ける清涼な風、夜闇の深い山で見あげた星々、この都で目にした市の喧噪。どれもがハルの中できらめいている。

 そしてまだ見ぬ景色もこの目に映したい。そこにはどんな人が住み、どんな営みをして生きているのか。望みが次々に湧いてくる。

 空っぽではない、自分の中にたしかな自分があるからこそ、新たな世界が開けていくように思えるのだ。


「お前たちが、わたしを今ここに立たせてくれたのだ。だから良久、またお前の元にも戻ってくる。お前もわたしの大事な男だぞ」


 ハルが笑いかければ、良久が頬を真っ赤に染めあげてもごもごとなにか言う。


「ほう、ハル様はひとたらしのようだ」


 良峰がぽつりと零す。意味はわからないが、呆れ笑いの表情からして否定ではないだろう。まあどんな意味でもいいかとハルは思う。


「良久、次に会うときには立派な神護りになっていろ。――由良も息災で」

「ひとりで行く気なの」


 由良が笑顔に険をまじえた。ふだんひょうひょうとして本心が読めないのが由良という男だが、今はあからさまな不機嫌を示したにもかかわらず、やっぱり本心が読めない。

 ただの娘になっても危険視されているのか。まだ神護りの監視下に置くべきだと思われているのか。知らずハルも口を尖らせる。

 だが、由良はそのハルの疑問を軽やかに霧散させた。


「女ひとりの旅は勘繰られるって言わなかった? ひとりは危険なんだって」

「あれは、わたしを捕らえるための方便だっただろう」

「それは否定しないけど、危険なのは嘘じゃないよ。護衛が要ると思うな。だいたい、路銀もろくに持たずに、どうやって旅をするの」

「む。……うかつであった」


 物を得るには先立つものが必要だと、島を出て初めて知ったくらいである。頭からすっかり抜け落ちていた。

 さきほどまでの揚々とした気分が萎みそうになり、ハルは負けまいと顔を上げる。

 由良が笑っていた。

 意地の悪い笑みではなく、それはハルの心に火が灯るたぐいの、やわらかな笑みだった。ごく自然に、ハルは口を開いていた。


「では、名波までついてきてくれ。由良」


 由良が、ハルの腕の中のフユにうかがいを立てる素振りをしかけて止めた。


「ハルは放っておくと、ろくなことをしなそうだからね。いいよ。それに、ハルはまだなぜ主様と別れられたのか、理解できてないんじゃない?」

「ああそうだ、それも説明してもらわねばな」


 菫が関係しているらしい、とは絢乃から聞いたのだが、それ以上は絢乃も知らないようだった。由良が眩しそうに目を細めてうなずく。その声も、心なしか丸い。春の陽気に包まれたかのような。


「おまえがくれた名は、よい名だな」


 胸の奥にあたたかな光が差す。ハルは襖戸を開け放ち、外縁に出る。

 どこもかも、眩しい――と思った。


「今日は良久、お前とお前たち神護りのために舞を捧げる。そこで見ていろ。これがわたしからの祝いだ」


 ハルは外縁から庭に降り立ち、空を仰ぐ。

 曲島から見た空に続く空。だが初夏の近づいた爽やかな風が連れてくる気分は、島で空を見ていたときとはまったく違う。

 澄み渡った空に、一瞬、神気が吹き抜けたような気がした。

 ハルは、自分のものとして馴染んだ朱色の袴の裾をととのえる。

 ひと呼吸して。


 大きく一歩、ハルは空へと軽やかに跳躍した。

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水穂国事変 神依る巫女は春を夢見る 白瀬あお @shirase_ao

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