終 二.
それを聞いて、由良は――噴き出した。
「そっか、そこまでは聞いてないんだ?」
良平の耳に入った情報は、由良がハルを射たところまでのようだ。説明しようと口を開きかけたとき、怒っているのに鞠が弾むような声が、洞窟内に響いた。
「おい、由良! 遅いぞ」
無意識に忍び笑いが漏れた。由良は立ち上がって入口までいき、隙間から体をねじこんできたハルが地面へ降りるのを手伝う。良平が目を丸くし、よろよろと腰を上げた。
「ハル様……? え、生きてる?」
「なんだ良平、阿呆の面ではないか。知らなかったのか。こんなところで、いつまでもぐだぐだと寝ているからだぞ。いい加減、覚悟を決めて豆を祝いにこい」
「ね。ハルは殺しても死なないって。今日だって、ハルが良平兄をなんとしてでも遠坂に連れ戻すって息巻くのを、俺がまず話をするからってなだめすかして来たんだって」
ハルと由良がそれぞれに良平をからかっても、良平はまだ事態をのみこめないでいるようだ。
「いや、だからどうやって……?」
「わたしも、今度こそは死ぬかもしれないとは思ったがな」
矢の先端がハルを貫いた、あのとき。ハルは「ハル」を真の名だと宣言した。
その瞬間ハルではなく、大蛇がのたうったのだ。
大蛇の力が弱まったその隙を逃さず、ハルは大蛇に向かって、自身に刺さったはずの矢を突き刺したのである。
――荒ぶる神は、名寄せの矢に封じられた。
「あれは俺も予想外だったよ。勝算があったとはいえ……俺は、ゆえとおなじようにすれば、そのときの赤子みたいにハルは消えると思ってたんだ。ただし、死なずにね」
名寄せの矢でひとは殺せない。
「だからハルが矢を受けても、消えるとはいえどこかにはいるはずで、あとで見つければいいと腹を括っていたんだ。主様は放たれてしまうけど、それもしかたないかともね」
「おいおい、神護りの台詞じゃないな……」
由良は荒ぶる神を野に放つのを覚悟の上で、ハルを分かとうとしたのだった。事実は、ゆえの行動で消えた赤子はハルではなく菫のほうだったのだが。
ただ、その事実で初めて腑に落ちた点もある。
菫はゆえの行動により、巫女の選定から外れたのだろう。そうでなければ、贄に選ばれた菫はとうに荒ぶる神の干渉を受けたはずだった。
選定から外れた理由はおそらく、矢を射た――「名を寄せた」のが名付けた本人だったからだ。
由良も同様だった。名のない娘にハルと名付けたのが由良であり、さらにその名をハル自身が真の名にしたからこそ、矢を受けたハルはよりましではなくなった。
「結果的には主様を分かつどころか、封じるとはね。ハルには恐れ入ったよ」
洞窟の中で泣きながら由良の胸を繰り返し叩いたハルは、もういない。ここにいるのは、たしかな意思を持った自分であることを諦めなかった娘だ。
まだ感情が追いつかないらしい表情をした良平に、ハルが矢の刺さった痕などわずかもない自身の胸を指して言う。
「わたしはこの名に救われたのだな」
ハルの身の内には、かつて荒ぶる神の残滓めいたものが残っているらしい。はっきりとした形はなく、ただ気配が感じられるだけだというが、荒ぶる神の存在もまたハルの一部だったということかもしれない。
良平が穏やかな顔でうなずく。神護りはこれから、今後の在り方を再考しなければならないだろう。贄を必要とする荒ぶる神を、いつまで名寄せの矢に封じておけるのか。知る者はいない。
遠坂の家に限っても、次期当主の決定や瀬良の処遇など問題は山積している。良平のこともある。
それでも、諾々と巫女を犠牲にするだけだった時代は、終わった。
「ほんっと、ハルといると心の臓が保たないな」
「心の臓を止められかけたのはわたしのほうだが? それにな、わたしはおまえの言うとおりにしただけだぞ」
「俺の?」
目をしばたたいた由良に、ハルは大輪の花が咲くように笑った。
「『ハルとして生きればいい』と言っただろう。だから、主様と思いきり喧嘩してやったぞ」
絶句する良平を残して、ハルは洞窟を引き返す。由良もしばらく呆然としていたが、われに返りあとを追った。まったく、ハルは常人ではない。神依りだったからという意味ではなく、その澄んだ心の在り方が。
由良はふと思いついて引き返し、あぐらをかく良平に「あのさ」と口を開く。
「いつか、ハルにゆえの話をしてやってよ。俺にはできないことだからさ」
「……そうだな。菫のことも、いつかは」
良平が感慨深そうに言う。由良は釘を刺した。
「あと、今日は豆の元服だって言わなかった? 絢乃と豆にも会ってくれよ」
「それは。……俺には菫がいる。今日もどこかしらで夕食を調達して、俺を待ってるんだ」
「まだ煮え切らないわけ?」
由良は鼻白んだが、良平は首を横に振った。
「菫に話せたら、そのときは絢乃たちにも会いにいく。ちゃんと話すよ」
おい、と先に行ったハルがふり返り、由良は足早に追いつく。良平はあとから来るらしいと伝えると、ハルの顔に笑みが咲いた。
「皆が、笑い合えるとよいな」
ハルの肩に手を置くと、今度は咲き初めの花のようなはにかんだ笑みが返ってくる。無防備に向けられたその表情に、由良の胸が思いがけず騒いだ。なぜだかばつが悪い。かといって手を離すのも惜しい。
由良はハルの肩の華奢さに今さらながら気づくと、一度めよりもそっとその肩を叩いた。
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