第2話 脱出 から あぶく銭

灰色の雲が渋谷の空を覆い隠し、視界の果てまで薄暗い煤の臭いが漂っていた。かつて世界でもっとも人が行き交ったスクランブル交差点は瓦礫と砂塵の荒野と化し、ネオンサインの欠片が風に鳴るだけ──そこに残る人間の声は幕府軍の無線と靴音のみだった。


 対角線上に設置された二台の移動管制車。その間を結ぶ形で、ナイロン製巨大テントが張り巡らされている。ここが『渋谷緊急対策本部』。テント内には折り畳み式の長机が迷路のように配置され、所狭しと並ぶホログラム・コンソールが刻々と最新データを流し込んでいる。


 中央フロアのホログラムマップには、渋谷の地形が半透明の立体投影で表示され、先ほど発生した“消失域”が赤い空洞として穿たれていた。モニターを囲むのは、制服姿の参謀将校たちと白衣を羽織った異界解析官、生気のない顔でメスを握る医療班――各部署の責任者たちだ。


 「被害状況を報告せよ!」

 荒川遥斗一等陸佐の怒号がテント内を震わせる。瞬時に端末を操作した通信士が顔色を変えた。


 「市街地居住区、建造物の90%が崩壊。行方不明3500名、即死体不明多数!」


 別のオペレーターが声を重ねる。


 「S級原生生物の出現は確認されず! しかし未明の映像に未知の中型個体が数体──現在追跡ドローンを損耗しながら監視中です!」


 医療班長・野呂川准将は前髪の下で血走った目を光らせた。


 「重傷者はおよそ五千。中でも熱失神と空間歪曲由来の外傷が目立つ。現場に残留している神秘粒子濃度が高いため、一刻も早い搬送が必要だ!」


 科学研究官・雲野博士はしわの寄ったスーツを正し、ホログラムに手を伸ばして数値を拡大した。


 「観測された歪曲波形──これまでのダンジョン崩壊例と一致しない。瞬間的に“虚数特異点”が発生し、時空の位相が反転した痕跡です。問題は発生源ですが……」


 博士が指で示したのは、赤い空洞の中心点。その周囲では瓦礫が砂の逆流のように浮き上がり、元の構造物へと戻ろうとしていた。


 「ダンジョンフロアが自律的に再生成を開始しています。崩壊のあとに復元プロセス──従来の理論を逸脱したケースです」


 荒川一等陸佐は腕を組み、深く息を吐いた。


 「だが、なぜ市街だけが再生されない? 地下に食い込んだ異界構造体が地上を拒絶しているのか……」


 その時、テント後方から小柄な女性将校が駆け込んだ。佐谷みさ少尉だ。栗色の髪を揺らし、敬礼もそこそこに報告する。


 「司令! ダンジョン南ゲート付近で生存者を発見しました! 名前は坂上圭、年齢二十七。いずれかの民間資格──“シーカー免許”を所持しています!」


 緊張が一瞬で濃密になる。荒川は素早く命じた。


 「生存者を即刻ここへ! 最優先保護対象だ!」


 周囲の幕僚が走り去る中、みさ少尉だけがわずかに眉をひそめた。圭と名乗った男の腕に、黒い樹形を思わせる紋様がちらりと覗いていたのだ。


 渋谷災禍の中心で何が起きたのか──その答えを握るのは、まだ混乱の渦中から救い出されたばかりの一介のシーカー。しかし、その背後に“星侵兵器”という禁忌の響きが潜んでいることを、対策本部の誰も想像していなかった。




 日は傾きかけていたが、渋谷の空は夕焼けではなく薄い鉛色に染まっていた。対策本部の外周では、幕府軍衛生隊が即席テントを並べ、熱傷や外傷に苦しむ人々にシルバーシートと温かいスープを配布している。


 その向こうに広がるのは“真白”――瓦礫さえも存在しない、白く塗り潰された空間だった。歩行者デッキも巨大ビジョンも、かつての賑わいを知る者にとっては悪夢のような空白であり、そこに立つ避難民は誰もが目を逸らしていた。


 「ママ……ママはまだ向こうにいるんだよね?」

 小さな女の子が母親の袖を握り、泣き腫らした目で空白地帯を見つめる。その母親も言葉に詰まり、ただ抱き寄せるしかなかった。


 救護テントに立つ神父は、小さな鐘を鳴らしながら鎮魂の祈りを捧げる。群衆の嗚咽と、ホログラム拡声器から流れる避難指示が重なり、あたりは悲嘆と混乱が支配していた。


 一方、対策本部テント内では分析班の議論が白熱していた。雲野博士がスクリーンに再生された映像を指し示す。


 「ご覧ください。ダンジョン深層部は既に再生成を完了。崩落前とほぼ同一の構造に戻っています。にもかかわらず、地上区画は再生を拒否しています」


 参謀の一人が苦い顔で腕を組む。

 「異界側が地上のレイヤを“不要”と判断したのか? あるいは星侵兵器の影響で相互作用が断絶したか……」


 雲野博士は頷きつつ、別の映像を拡大した。渋谷ダンジョン中央ホール──元は地下鉄コンコースが変質した異界空間──が、ゆっくりと輝くパターンで脈動している。


 「特筆すべきは、この再生成ペースです。従来のSS級ダンジョンでも最低36時間を要したフェーズが、たった“数刻”で完了している。まるで……何者かが『再生しろ』と命じたかのように」


 その言葉に、参謀たちは顔を見合わせた。もし渋谷ダンジョンが意図を持ち、地上を切り捨てたのだとしたら?


 荒川一等陸佐はテーブルを叩き、場を収めた。

 「結論を急ぐな。まずは現場からの生存者情報が鍵になる。坂上圭の尋問結果を待て」


 彼の声には、事態を収束できない焦りと、未知への恐怖が滲んでいた。幕府軍の権威が傷つけられたのは、渋谷の街だけではない――。




 夜半、仮設照明が白々と光るテント内部。坂上圭は折り畳み式スチールチェアに腰かけ、目の前の簡易テーブルでぬるい水を啜っていた。軍医の応急処置で腕の擦過傷は包帯に覆われたが、黒い樹形を思わせる紋様は包帯の下からじわじわと浮かび上がり、まるで脈打つように動いている。


 カーテンが揺れ、佐谷みさ少尉が静かに現れた。手にはタブレットと小型レコーダー。栗色の髪を後ろでまとめ、穏やかな笑みを絶やさない。だが瞳の奥は鋭く、圭の表情を逃さない観察者の目をしていた。


 「改めまして、坂上さん。お怪我、大丈夫ですか?」


 「ええ、まあ……精神的にはジェットコースターですが」


 思わず苦笑する圭。みさは気遣いの表情を浮かべ、水のボトルを追加で差し出す。


 テーブルにレコーダーが置かれ、赤いLEDが点灯した。尋問というより聴取に近い穏やかな調子で、みさ少尉は口を開く。


 「あなたが渋谷ダンジョン内部で遭遇した現象を、時系列でお聞かせください。どんな些細なことでも構いません」


 圭は深呼吸し、黒い樹に触れた瞬間の記憶――視界が白く塗り潰され、音も熱も奪われた感覚――を言葉に変えて語った。ウサギ型原生生物を狩り、魔石を拾い集めたこと。背後に突如出現した巨木。引き寄せられるように触れた途端、世界が“消える”手応え。気づけば、自分以外の全てが消失していた事実。


 みさは頷きながらメモを取り、時折専門用語を交えて確認を取る。


 「その際、体感時間はどれほどでしたか? 呼吸は? 圧力変化は?」


 圭は首を捻りつつ答える。


 「数秒……いや、一瞬だったかも。息を吸う間もなかった。体が空洞に落ちたみたいで──」


 語るほどに指先が震え、紙コップの水面がわずかに揺れた。みさはペンを置き、眼鏡を外して静かに微笑む。


 「怖かったでしょう。でも、あなたが感じたことはとても貴重な情報です」


 続けて彼女はタブレットを回し、圭に映像を示した。それはドローンが捉えた芝浦ふ頭の海域――黒点が海面を抉り、真円の深い空洞を残す映像だった。


 「あなたの腕にある紋様は、今も微弱なエネルギー反応を放っています。もし制御できるのなら、あの現象を再現していただきたい」


 圭の眉が跳ね上がる。


 「冗談じゃない。あれは“消す”力でしょう? 俺が失敗したら、また誰かが──」


 みさは首を振る。


 「だからこそ、安全な隔離海域で。軍の支援とリアルタイム観測で、最小限の規模で顕現していただく。あなたの同意なく強制はしません」


 一拍置いて、彼女は机の下から黒革の封筒を取り出した。内部には正式な要請書と、圭の身柄保障を約束する協定書が収められている。


 「ですが、圭さん。おそらくですが、それは星侵兵器です。それもいまだ未知の十九番目でしょう。そしてそれを持っているのは世界にただ一人あなただけ。制御の鍵もあなただけ。協力いただければ、あなた自身とこの国を守る盾になるはずです」


 圭は封筒を受け取り、署名欄を見つめた。震える指先でペンを握り、渋谷で消えた人々の悲鳴を脳裏に呼び戻す。そして、静かに口を開いた。


 「……分かりました。絶対に安全を最優先してください」


 みさは深々と頭を下げた。


 「約束します」


 こうして翌朝、芝浦ふ頭での実演が正式決定した。圭は折れた剣より重い責任を背負い、未知の力を再び呼び覚ます覚悟を固めた。




 夜明けと同時に、坂上圭を乗せた装甲車は首都高を南下し、倉庫街の入り江へと到着した。ここ芝浦ふ頭沖は、旧港湾施設を改造した軍事隔離エリア──防潮壁で囲まれ、周囲一キロに民間船もドローンも近づけない封鎖海域だ。


 「準備完了。安全半径五百、外周一キロで監視ネット稼働」

 通信員の声がヘッドセットに響く。港には管制クレーンを改造した観測タワーが林立し、センサー類が海面と空域を多層スキャンしていた。


 圭はみさ少尉と共に浮桟橋へ誘導される。白い作業服を着た技術班が周囲に展開し、腕の紋様のエネルギー波形をリアルタイムで計測する装置を取り付けた。


 「エネルギー値、安定……いや、微上昇中」

 技師の報告に緊張が走る。圭自身にも感じ取れる脈動が、指先から心臓へと逆流するようだった。


 桟橋の対岸、指揮所コンテナの最上段。荒川一等陸佐をはじめ高官たちが双眼装置越しに見守る。その後方では巨大ホログラムスクリーンに海域の立体図が投影され、各センサーの数値が赤く点滅していた。


 みさ少尉が圭の前に立ち、静かに頷く。

 「最小規模、半径百メートルでお願いします」


 圭は深呼吸し、恐怖を押し殺すように腕を突き出した。紋様が黒い光を孕み、空気が鈍く震える。次の瞬間──


 “バシュッ”


 無音の断裂が海面を走り、黒い球が生まれる。直径二メートルに満たない球体は、静かに海水を飲み込むように沈み込んだ──と、その瞬間、海面がボウルを伏せたように凹み始め、渦を巻きながら水柱が立ち上がる。


 「臨界波形、上限ギリギリ! 半径拡大中!」

 観測員の叫びと同時に、球体は急速に収縮し、凹んだ海面は元に戻った。しかしそこには、深さ計測不能な暗い円孔がぽっかりと空いていた。推計直径、一キロ。


 轟音と共に壁面を流れ落ちる滝のような海水。指揮所にいた高官たちは一様に顔面を蒼白にする。


 「──これが、十九番星侵兵器の“最小出力”だと?」


 誰かの震える声がマイクを通じて漏れた。圭は膝が笑うのを必死に堪え、みさ少尉はすぐさま支えた。


 「これ以上の拡大は危険です!」

 技術班が装置を緊急停止し、紋様の発光が収束していく。


 沈黙を破り、遠隔回線のスピーカーから重々しい声が響いた。対策本部の上層部──幕府軍中央司令室だ。


 『……威力確認、終了。坂上圭殿。貴殿の保有する兵器は、我が国の安全保障上、最優先で管理されるべき国家機密である。つきましては、兵器譲渡について正式な買い取り交渉をお願いしたい』


 地面を伝う重低音が、圭の胸を打つ。みさ少尉が圭の顔色を伺い、首肯した。


 「提示額は、一兆円。加えて、生涯にわたる安全保障と、波及する被害責任を国家が負います」


 圭は暗い円孔を見つめた。そこには波一つなく、ただ虚無が口を開けている。あの力が自分の死と共に制御不能になること。星侵兵器が再び闇へ潜れば、第2、第3の渋谷が生まれること──。


 「……もう売ります売ります。こんな兵器を個人で管理できるわけないんですよ!!」  


圭は早口になりながら、心臓がバクバクする。


 「でも、俺が危機に瀕したときは絶対に守ってもらう」


 指揮所でブザーが鳴り、協議のざわめきが走る。やがて再びスピーカーが開く。


 『条件、了承。正式契約として前例のない国家級特別護衛を付与する』


 圭はみさ少尉と視線を交わし、小さく頷いた。署名用タブレットが差し出され、震える指でサインを描く。文字が確定した瞬間、資産管理AIが「1,000,000,000,000 JPY」──十二桁の数字を端末に表示した。


 その文字列は、命より重い責任の証明書だった。


 高官たちは安堵と恐怖の入り混じった視線で圭を見つめ、みさ少尉だけが静かに呟いた。


 「これで、少しでも多くの命を守れますように……」


 吹き込む海風はまだ冷たく、どこまでも重い。だが、圭の心は奇妙に静かだった。――金では測れない運命の重力が、自分の肩に降り積もる音を聞いた気がした。




<星侵兵器の移譲について>


※過去の記録からう分かっていること。


・主が手放す意思がない限りその手を離れない


・主が老衰以外の外部的要因で死亡した場合、兵器が暴発し、行方をくらます


・主の意思で次の者へ引き継ぐことでしか、主の変更はできない


・現主の遡って1主が外的要因で死亡した場合、兵器が暴発し、行方をくらます

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現代ダンジョン豪遊譚ーー(仮) 若葉 葵 @Aoi_Wakaba

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