たったひとつの、かすれた音
@syubi01
第1話 筆の奥に眠る言葉を探して
はあ……。
祖父の溜息が、また聞こえた。
今日は三回目。きっちり、午前十時、午後一時、そして今――午後五時。
いつも、時計みたいに正確なリズムで、彼は溜息をつく。
そして、その視線の先にあるのは、決まって――あの絵だ。
廊下の一番奥。
障子の横にかけられた、一枚の墨絵。
それは、水墨で描かれた一人の少女の後ろ姿。
ゆるくまとめられた黒髪、伏し目がちの表情、薄く描かれた着物の袖。
柔らかい、でもどこか寂しげな雰囲気が漂っている。
『……なんで、ずっとあの絵ばかり見てるんだろう。』
私は書道部に入っている。
字を書くのは好き。筆の感触も、墨の匂いも、好き。
けれど、あの絵を見ていると、自分の書がとても子供っぽく思えてくる。
祖父は、昔すごい書道家だったらしい。
父が言うには、展覧会にも出していたし、弟子も何人かいたとか。
でも、今の祖父は、何も話さない。
認知症が進んでいて、名前も、人の顔も、あまり分からない。
けれど、あの絵だけは、ちゃんと覚えてるみたいだった。
ある日、祖父の横にしゃがんで、私は思い切って聞いてみた。
『ねえ、おじいちゃん。あの絵……誰が描いたの?』
祖父は返事をしない。
目は絵に向けたまま、ただ静かに、ゆっくりと呼吸している。
その胸が、少しだけ上下するたびに、私は不安になる。
すると、背後から父の声がした。
「その絵か。あれはな、若い頃の父さんが描いた唯一の“絵”なんだよ。」
『唯一……?』
「そう。父さんは、書しかやらなかったからな。
あの一枚だけが、人物画なんだ。珍しいにもほどがあるって、
弟子たちの間でも、話題になったらしいよ。」
『じゃあ、モデルは……おばあちゃん?』
「いや、違う。母さんじゃない。」
父はそう言い切った。
でも、それ以上は何も言わなかった。
私はもう一度、絵を見た。
少女の顔は、淡い筆で描かれていて、細部がぼやけている。
それでも、やわらかな髪の流れや、肩の曲線は丁寧に描かれていた。
署名は……ない。
左下に「昭六年 春」とだけ書かれていて、その横に、滲んだ印影がある。
名前は、どこにもなかった。
『……どうして、名前を書かなかったんだろう。』
それが「絵」だから?
それとも、名前を書きたくなかったから?
祖父はまた、はあ……と、小さく溜息をついた。
まるで、その絵に向かって、言葉の代わりを託すように。
その瞬間、私はなんとなく思った。
――あの絵には、きっと「名前」が隠れてる。
そして、それはもう誰も知らない、「おじいちゃんの最後の名前」かもしれない。
『……名前って、書にとって一番大事なものじゃない?』
部活でよくそう言われる。
作品に魂を込めるなら、まずは署名からだ、と。
だけど――祖父は、その「名前」を書かなかった。
私の目の前には、あの絵がある。
毎日見てるのに、どこか掴めない。
書でもなく、絵でもなく、その間に浮かぶ何か。
その中に――名があるはずだ。
『おじいちゃん、この子……誰?』
返事はない。
今日も、祖父は廊下で同じ絵を見て、微動だにしない。
風がふわっと障子を揺らし、絵の前に影が落ちた。
私はふと、和室の押入れに向かった。
もしかしたら……と思って、古いアルバムを探す。
祖母や母の若い頃の写真を見つけて、ページをめくる。
どれも白黒で、笑っている顔ばかりだったけど――
『……違う。なんか、違うんだよね……』
絵の中の少女は、笑っていなかった。
いや、表情そのものがぼやけていて、よく見えない。
でも、確かに「悲しい人」に見えた。
写真に写るおばあちゃんは、もっときっぱりした顔立ち。
母は……うーん、目の感じが違う気がする。
父に聞いてみた。
『あの絵、やっぱりおばあちゃんじゃないよね?』
「違うって言ったろう。母さんじゃない。……そもそも、モデルがいたのかどうかもわからんさ。
ただ、父さんはあれ一枚しか人物を描かなかった。それだけだよ。」
父の声は、どこか面倒くさそうだった。
それ以上、何かを聞いても答えてくれそうになかった。
だから、私は自分で調べることにした。
書道部の教室に行き、先生の机から使い古しの字典を借りてきた。
そして、絵のコピーを自分なりに分解してみた。
筆の流れ、墨の濃淡、重なり、角度――
そこに、漢字の影を探した。
『これ……"夢"のつくりに似てない? あとは……"香"?』
画中の髪の流れは、どこか「夢」の旁(つくり)の「夕」にも見える。
袖の折れ目が、「香」の下の部分みたい。
ほかにも、「音」「希」「美」……女の子の名前に使われそうな字を、いくつも当てはめてみた。
『夢香(ゆめか)……希音(のん)……音羽(おとは)……』
ノートに片っ端から書き出して、画のどこにあてはまるか線で結ぶ。
けど、どれもしっくりこなかった。
強いて言えば「夢香」なんだけど……形は合っても、雰囲気が合わない。
この絵の子は、もっと静かで、もっと孤独で、もっと……切ない。
『まるで、書かれなかった名前みたい……』
祖父は今も、絵を見ている。
名前を呼ぶように、でも決して口には出さず。
筆を使っても、最後まで書ききれなかった何か――
『もしかして……"名前を書かなかった"んじゃなくて、"書けなかった"んじゃ……』
墨の滲み、筆の止まり方、線の強弱。
まるで、「言葉にならない気持ち」を押し殺すような、そんな筆跡だった。
私はふと、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
『……やっぱり、わかんない。』
夢香も違うし、希音も合わない。
何十通りも書いて、組み合わせて、絵に重ねて――全部、ダメだった。
私はふと、別の方法を試してみたくなった。
もしかして、漢字じゃないのかも?
だって、あの絵の線は、書の筆致とは少し違う。
もっと軽くて、流れてて、まるで……ひらがな、みたいだった。
『ひらがな……?』
その発想が浮かんだ時、少しだけ鳥肌が立った。
でも、すぐに思った。
『だったら、カタカナの可能性もあるよね?』
私は自分のノートを開いて、思いつく限りの平仮名と片仮名を書き出した。
あ、い、う、え、お……タ、チ、ツ、テ、ト……
その中から、形が画の筆跡に似ているものをピックアップする。
まずはカタカナ。
「エ」「テ」「ナ」「フ」――どれも、直線が多くて、筆の勢いが出やすい。
髪のラインと、「エ」の交差する線が少し似てる気がした。
「ナ」も、肩の角度と重なりそう。
試しに、描き出したカタカナをトレペ(トレーシングペーパー)に書いて、
コピーした絵に重ねてみた。
『んー……ちょっと違うかも……?』
輪郭は合ってる気もするけど、線の流れが硬い。
なにより、絵の持つあの「やわらかさ」と、ちょっとズレてる。
私はため息をついて、次はひらがなに目を向けた。
くるくると丸い線、曲がりくねった形、まるで音のようなリズム。
その中でも、気になったのは「た」と「え」だった。
「た」は、あの長く下に伸びる筆線と、どこか似てる。
「え」は、髪の流れというより、輪郭全体の曲線と重なって見えた。
でも、それはあくまで、感覚の話。
私の中ではまだ、「たえ」って名前だって確信はなかった。
それに、重要な違和感があった。
『……この二文字、同じ紙に一緒に書かれてない。』
私は、祖父の書斎で見つけた古い練習紙の束を思い出した。
部屋の隅の木箱の中に、薄茶色になった和紙が何枚も入っていた。
開いてみると、そこには丁寧に書かれたひらがなやカタカナが並んでいた。
ページをめくるたびに、繰り返し現れる文字があった。
「た」「え」「よ」「み」「は」……
だけど、「た」と「え」が一緒に書かれてるページは、なかった。
しかも、「た」だけ書かれた一枚の紙の端には、
にじんだ黒い墨の跡があって、途中で筆が止まったように見えた。
その下には、こんな小さな文字が書かれていた。
――名前を書けば、消えてしまう。
『……おじいちゃん……?』
私はその紙をそっと膝に乗せて、目を閉じた。
その言葉は、まるで呪いみたいだった。
けど同時に、とても優しい音にも聞こえた。
「たえ」――それが、誰かの名前だったのかもしれない。
でも、祖父はそれを最後まで書けなかった。
いや、書かなかったのかもしれない。
きっと、それを書いたら、その人が「いなくなってしまう」と思ったから。
だから、書かなかった。
代わりに、絵の中に、線の中に、その名前を――
私は震える指で、トレペに「た」と「え」を書いた。
そして、それを絵の髪と頬のラインにそっと重ねた。
ぴたり、と、線が重なった。
『……まさか……』
私は、息をのんだ。
名前は、もうずっとそこにあった。
私が、見つけられなかっただけだった。
『……ねえ、これ、もし違ってたらどうしよう。』
紙の上で、筆を持ったまま、私は動けなかった。
絵に重ねた「た」と「え」の筆跡は、何度見ても自然だった。
でも――それを「名前」として口に出すのは、怖かった。
もし、違ってたら?
もし、勝手に触れちゃいけないものだったら?
それに、名前を呼んでしまったら、何かが……終わってしまいそうで。
祖父は、今日もあの絵を見つめている。
同じ姿勢、同じ角度、同じ沈黙。
ただ、今日は――目が、少し潤んでいるように見えた。
『……やっぱり、たえ……なの?』
声に出す勇気が出ない。
けれど、言わなきゃいけない気がした。
だって、きっと祖父は、それをずっと待ってた。
私は、祖父の隣に座った。
彼の視線の先にある絵を、同じ角度で見つめる。
そして、そっと唇を開いた。
『……たえ。』
その瞬間。
祖父の体が、ふわっと動いた。
まるで、風が吹いたみたいに。
彼の目が、ゆっくりと私の方を向いた。
その瞳は、濁ってるはずなのに、なぜか私の顔をまっすぐ捉えていた。
唇が、ほんの少しだけ動いた。
そして――
「……そうだ。」
低く、かすれた声だった。
でも、はっきりと、聞こえた。
それから、祖父は、長く深いため息を吐いた。
はあぁ……と。
今まで聞いた中で、一番優しい音だった。
目がゆっくり閉じて、肩がすっと落ちる。
そのまま、何も言わず、何も動かず。
まるで、あの絵の中の少女と同じように、静かに時間から外れていった。
私は、何も言えなかった。
ただその場に座って、祖父の最後のため息が、私の胸の奥に染み込んでいくのを感じていた。
葬式の日、空は不思議なくらい静かだった。
風もなくて、まるで祖父のために、世界が一瞬だけ止まってくれたみたいだった。
火葬場の煙が昇っていくのを見ながら、私は何も考えられなかった。
悲しいとか、寂しいとか、そういう言葉すら、遠くにある感じだった。
ただ――あの最後の「ため息」の音だけが、今も耳に残ってる。
帰ってきたその夜、私はあの絵の前に座った。
祖父が毎日見ていた場所に、今度は私が座って。
少女は、変わらずそこにいた。
誰のことも見ないまま、ただ静かに、何かを待っていた。
私は、筆と墨を用意した。
いつもの練習とは違う。
これは、書道でも、課題でもない。
ただ――名前を、届けるための一筆。
『……おじいちゃんの、最後の名前。』
私は、絵の余白に、丁寧に書いた。
「たえのひとえ(妙)」
それは、「たえ」という名を一筆に込めたという意味でもあるし、
「唯一無二の、儚い想い」という意味もある。
漢字にしてもいいと思ったけど、祖父は最後までそれを「書かなかった」。
だから、私は「ひらがな」で書いた。
部活の先生に頼んで、その絵を展覧会に出すことになった。
会場で、それを見た他校の先生が、ぽつりとこう言った。
「これは……書でもないし、絵でもない。
でも、筆が……言葉にならないものを、語っているね。」
私は、小さく笑った。
『……そうですね。たぶん、おじいちゃんの中で、一番希少な言葉だったんだと思います。』
もう、祖父は何も言わない。
でも、毎日絵の前で嘆いていたあの溜息は、
今も私の中で、そっと響いている。
名前を呼ぶたびに――あのやさしい声が、心の奥で返ってくる気がする。
たったひとつの、かすれた音 @syubi01
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