蛆虫拾遺集

鹿貴族

第1話 りんご

初めて私がそれを認識したのは、洞窟の入口で腐り果てたある人間の脳に侵入し、他の蛆虫連中と共に脳漿の腐敗液を泳いでいた時の事だ。



無いはずの視界に、声が流れ込んできたのだ。


「りんご」「りんご」「りんご」


それは自分の声のように思えた。突如視界は晴れあがり、彼の記憶は映画のスクリーンに映され始めた。腐敗液をひとつ啜る度、ひとつ刻まれた映像が紡がれていく。





はじめは愛だった。



隣の部族に、俺とよく目が合う女がいる。全く可愛く無いし、言葉も分からない。黙々と果実を集めては、家族に全部あげてしまう。耳が悪いのか、誰が声をかけても全く反応しない。そいつには兄が2人と妹が1人居て、妹が食べ残したものばかり食べている。


交易で出向くたびにこの女を見かけていたのだが、どうにも俺はこの自分の名も言えぬ女が気になって仕方なかった。



ある風の強い夜、女がひとりで焚き火番をしている所を見かけて飛びついた。


抱きついた瞬間、女はまるで育っていないからだを狐のように捩った。女のからだは火が無ければ石になってしまうのではないかと心配なほど冷たく、強ばっていた。女は俺の目を優しく見つめたあと、静かに腰巻きを取った。


消えかけた火に左半身を炙られながら、胸にしがみついて何度も腰を打ちつけた。女は赤子のような声を出しながら俺に抱きついてきた。



朝になって、黒ずんだ枝切れの横で抱き合っている俺達を、女の家族が見つけた。家の名前は教えてくれなかった。

2人の兄は俺を笑った。こんな鈍臭いバカの何がいいんだ。こいつの股には子を入れるような価値も無いぞと。そして、火を守れなかった女を散々に打ち据えた。血塗れで余計に不細工になった女は完全にのびてしまった。


この日は隣の部族の移動の日だったから、会議の結果女は置いていかれることになるらしかった。


俺はこの女と生きていくことに決めた。





つぎは挫折だった。


俺は狩りがどうにも下手だった。


昔から自分で弓矢を引いても、獲物に当たらない。みんなが見えると言うものがよく見えない。挙句、何回目かの狩りの時、ウスデンの家の兄貴に矢を当ててしまったこともある。


だが、いつかの狩りの日、長が俺の弓矢を気に入って、俺は弓矢作りに専念することになったのだ。

しばらくはそれでうまくいっていた。


でも、最近上手くいかない。


特にここ何回かの狩りではシカがとれない。女たちが果実とドングリを沢山持ってきてくれたからそれで持ちこたえていたが、会議の結果どうもこのままでは冬を越せないかもしれないことがわかった。


少しずつ、みんなが俺を見る目が冷たくなっていく。


テントには作ったっきり、誰の役にも経っていない弓が無数にある。俺が食える肉もどんどん減っていった。




そして、冬になった。


長だったナクナクの家の主が、病で死んでしまった。俺は女と二人、新しいグィクという家を貰って過ごすようになっていた。分け前は家主の頑張り次第というルールがあるから、俺たちは貧しくなった。俺は頑張っていないことになったのだ。


女はいつも一番良い木の実を俺のために残しておいてくれたから、腹は減っていたがひもじくは無かった。狩りではみんな俺の弓矢を使っているし、この冬さえ乗り越えればまた上手くいくに違いなかった。



だがある風が強い夜、男たちが家に乗り込んできた。曰く、俺の女が部族のシカを奪ったのだという。

男たちの言い分はよく覚えていない。とにかくふたりで散々打ち据えられた末、女は村八分になった。


俺はこの女と生きていくことに決めた。




最後は洞窟の中。


凍りついた草の根は歯が削れるほど硬い。


一心不乱に守り抜いた火は、12回夜を過ぎた後で消えてしまった。


霜に覆われた薪の横。岩と岩の隙間でひたすら女と抱き合っていた。女は赤子のような声で俺に優しく呼びかける。ふと、俺は結局この女の元々の名前をずっと知らないことに気がついた。


もうグィクの妻と呼ぶわけにはいかないから、

いつも持ってきてくれた「りんご」を新しい名前にしてあげることにした。



毛皮の下、何度も呼びかけた。指で女の胸を指し、「りんご」という。はじめ女は理解できなかったようで、女は外を指さしてひたすら首を横に振った。りんごはとってこれない、という意味なのか。ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。


つぎに、自分を指さして「グィク」といった。その後で、同じように女を指さして「りんご」という。何度か繰り返して、女、「りんご」は理解したようだ。


初めて村に来て歓迎の祭りをしたような、空のような、そんな突き抜けた笑顔を見せた。



その夜が終わって、俺は病にかかった。腹に魔物がいる。黒い水が尻から滴り落ちる。女は俺に何度も水を運んでくれた。色んな草を集めてきては、魔物を退治しようと手を尽くしてくれた。


3度太陽がまわって、魔物はようやくいなくなった。だが、俺はもう寝たきりでほとんど動けなかった。


3度目の次の夜、「りんご」は俺の陰茎を指さした。いつもの交わりの合図だ。「りんご」は俺の腰巻きを外し、腰も動かない俺と交じりあった。

ひとしきり済んで、「りんご」は俺に覆い被さるように強く抱き締めてきた。熊のような強さだった。だが、そのからだは兎のように震えている。


「りんご」は俺と目を合わせてしばらくした後、徐に自分の枝のような腕を噛みちぎった。黒く冷たい洞窟に白い煙が湧いた。「りんご」は俺の口元に「それ」を突きつけた。



そんなのは嫌だった。


必死で首を振った。



だけど、「りんご」はひたすら自分を指さして赤子のような声で繰り返す。


「いんお」「いんお」「いんお」



必死で首を振った。


女は泣き出してしまった。女が泣いたのを見るのはこれが初めてだった。




俺は「それ」を食べた。硬く、甘い味がした。



「りんご」は、まだ「女」だった頃、俺が初めて焚き火のそばで襲った時のような、優しい目をした。

そして、枝のような腕をそのまま俺の口に無理やり突っ込んだ。



心臓がりんごを欲したのが分かった。



もう抱きしめるだけの力も残っていない体で、俺はりんごを食べた。



はじめは腕の肉。つぎにりんごは胸を顔の上に差し出したから、ふたつとも噛みちぎった。りんごは不格好な叫び声を1度上げただけだった。

りんごは石で自分の腹を切り裂いた。黄色い薄皮の奥が開いて、臭く、暖かい果実が顔中にのしかかった。

噛みきれない果実を、りんごは一緒にかじって柔らかくしてくれた。



そうして果実の半分を食べ終わった頃、りんごは動かなくなった。



赤く染まった俺の顔は醜く汚れていたのだろうか。




りんごを食べた俺は少しだけ動けるようになった。

俺は3回の夜を使ってりんごを食べ尽くした。食べきれなかったりんごの顔は黒ずんで、どんどん不細工になっていった。



だから、りんごの芯で矢を作った。


俺も、りんごになにか食べさせてやらないといけない。



震える手で首に矢を突き立てた。

矢じりを何度も動かして、俺の命を掘り起こす。


真っ赤な星が弾け飛んで、りんごの皮のなかにくずおれた。

真っ黒な食べ残しは俺の命と溶け合っていく。



俺はりんごの不細工な顔を抱きしめて、最後まで続くような、蜜のような、キスをした。









これが私が初めに見た人間の記憶だった。

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