第16話:母の言葉、描く意味の再確認
展示会の大成功は、美咲の心に満ち足りた幸福感と、クリエイターとしての確かな自信をもたらした。自分の絵が直接人々の心を動かす喜びを知り、美咲の心には、これまで経験したことのない深い充足感が広がっていた。美咲は、この勢いをさらに加速させようと、新たな創作のアイデアを練り、今後の活動計画を立てていた。頭の中は、次々に生まれるイメージと、それらを形にするための「思考」で満たされていた。疲労はあったが、それは心地よい充実感へと変わっていた。美咲の瞳には、未来への確かな光が力強く宿り、その輝きは以前にも増していた。
しかし、美咲の人生に、再び試練が訪れた。ある日の午後、美咲が会社で休憩していると、実家から一本の電話が入った。受話器から聞こえてきたのは、父の、沈痛な声だった。
「…お母さんが、また入院することになったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の脳内は一瞬にして真っ白になった。まるで、世界から音が消え失せたかのような感覚。心臓が「ドクン」と大きく脈打ち、全身から血の気が引いていく。呼吸が浅くなり、指先が冷たくなる。数ヶ月前の、自分が過労で倒れた時の記憶が、鮮明にフラッシュバックする。あの時、美咲の命の危機を救ってくれたのは、紛れもない母だった。母の優しい声が、美咲を絶望の淵から救い出してくれたのだ。その母が、今度は病床に伏している。美咲の胸に、激しい「感情の膨張」が押し寄せた。それは、恐怖、不安、そして深い罪悪感が入り混じった、言葉にできない感情の渦だった。
美咲は、すぐに会社に事情を話し、実家へと急いだ。新幹線に乗り込み、窓の外を流れる景色を眺めるが、何も頭に入ってこない。ただ、母のことが心配でたまらなかった。「絵を描いている場合ではない」という「思考」が、美咲の頭の中を駆け巡る。これまで追い求めてきた「描く意味」が、一瞬にして揺らぎ、その輪郭が曖昧になっていく。美咲の心の優先順位は、一瞬にして「母の命」へと切り替わった。美咲の内部システムは、最愛の家族の危機という「緊急事態」を認識し、すべてのリソースをそこに集中させていた。
病院の待合室は、消毒液の匂いが充満し、重苦しい空気が漂っていた。美咲は、その匂いを嗅ぐたびに胸が締め付けられるような感覚に陥る。医師からの説明は、美咲をさらに打ちのめした。病状は想像以上に深刻で、予断を許さない状況だという。美咲は、母の病室へと入った。ベッドに横たわる母は、以前よりもずっと痩せ細り、顔色も優れない。その姿を見た瞬間、美咲の目からは、とめどなく涙が溢れた。母の手を握ると、その掌は驚くほど小さく、冷たかった。美咲は、母のそばに寄り添い、必死に看病を続けた。鉛筆を握る手は、母の体を拭き、食事を介助し、夜は眠れない母のそばで静かに寄り添った。描くことを完全に止め、美咲はただ、母の回復だけを願った。絵を描くという自身の「価値観」が、一時的にではあるが、深い霧に覆い隠されてしまったかのようだった。
数日後、母の容態が少しずつ快方に向かい始めた頃、意識がはっきりした母が、美咲に優しく語りかけた。
「美咲…あなたの絵ね、スマホで見てたのよ。個展、大盛況だったって…」
母の声は、まだか細かったが、その表情には微かな笑顔が浮かんでいた。美咲は、驚きと同時に、胸の奥が熱くなるのを感じた。母は、美咲がアニメーターになることを応援してくれていたが、まさか、SNSの活動や個展のことまで知っていたとは。母は美咲の震える手をそっと握り返し、美咲の瞳を真っ直ぐに見つめて、続けた。
「あなたの絵を見るとね、不思議と元気が出るのよ。ここにいても、美咲の絵を見てると、心が軽くなるの。だから、これからも、ずっと描き続けてね…」
その一言が、美咲の心に、まるで乾いた大地に恵みの雨が降ったかのような、圧倒的な衝撃を与えた。美咲の目からは、再び熱い涙が溢れる。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。母の言葉は、美咲の心の奥底に深く沈んでいた「描く意味」を、再び鮮やかに再認識させたのだ。美咲の内部システムは、この母の言葉という「データ」を、自身の「価値観」である「絵で感動を届ける」ことの究極的な「成功ログ」として認識した。全身に、これまでにないほどの幸福感と、満たされた感情が広がった。
美咲は、母の言葉を通して、自分の絵が持つ力を再確認した。それは、単に技術を磨くことでも、会社で認められることでも、SNSで「いいね」をもらうことでもない。自分の描いた絵が、大切な人の心を温かくし、誰かの日常に希望を与え、誰かの生きる力になることだった。病床の母を笑顔にできたという「結果」は、美咲にとって何よりも雄弁に、「描く意味」を語っていた。
美咲は、母の手を握りしめ、力強く頷いた。
「うん、お母さん。私、描き続けるよ。ずっと…」
美咲は、アニメーターとしての仕事と、個人での創作活動、その両方に「描く意味」を見出した。この過酷な業界で、挫折と苦悩を味わいながらも、美咲は「感情の谷を越え、意味のある光へ至る構造」を自らの手で築き上げてきたのだ。美咲の瞳には、未来への確かな光が、力強く宿っていた。それは、困難を乗り越えた者だけが持つ、揺るぎない輝きだった。美咲は、この光を信じて、もう一歩、足を踏み出すことを決意した。たとえそれが、どんなに大きな壁であっても、美咲はもう恐れない。美咲が描く線は、今や彼女自身の魂の輝きを映し出す、真の「命の線」となっていた。美咲は、この物語の新たなチャプターを、自信に満ちた表情で開こうとしていた。
わたしはまだ、描きたい。〜アニメーター美咲、汗と涙の物語〜 五平 @FiveFlat
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