第五章 名前は、まだない



語り手:林(書店員・業務日誌)



2025年4月27日(日)/晴れ、午後から風強め。


昼過ぎ、レジ当番の三好さんが「交換日記のことで、女子高生が来てたよ」と言った。

制服は例の高校。ひとり。名乗らず、買い物もせず、すぐに出ていったらしい。


「たぶん白っぽいハンカチを持ってた。青が入ってたかも」とのこと。

三好さんは細かいところをふわっと記憶するタイプで、本人は「たぶん」と言ったが、たぶん、当たっている。


それを聞いて、“あの子かもしれない”と思った。

思ったが、確かめようがない。

自分は、その子の姿を見ていない。声も、聞いていない。


それでも、店の空気が一枚、めくられたような感覚だけが、残った。


夕方、岡田さんが「今日の豆、昨日より香りがすぐ抜ける感じです」と言った。

自分には違いはわからない。でも、そういう微差に気づく人が隣にいるのは、悪くない。


閉店前、文具棚を見に行った。

交換日記のコーナーで、ひとつだけ背表紙がずれていた。

手に取ると、表紙の角がほんのわずかに折れていて、ページの間に紙片が挟まっていた。


メモ用紙の切れ端。商品には含まれないもの。

文字があった。


 名前は、まだない。


どこかで見たような、見ていないような言葉だった。

買われていないはずのノートに、誰かが書きつけて、戻したのか。

あるいは、そうであってほしいだけかもしれない。


棚に戻す指先が少しだけ汗ばんでいた。

誰のものでもないはずの記録に、ふいに、自分が触れてしまった気がした。

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吾輩は交換日記 みちくささん @cafemitikusa

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