第4話


 食後、二人は積もる話もあると思ったので、食器と囲炉裏周りの掃除は陸議りくぎが引き受けた。

 徐庶じょしょ黄巌こうがんは縁側に行って酒の肴を置きながら、続きの酒を飲んで話していた。

 井戸の方で食器を洗っていると明るい笑い声が聞こえて来て、本当に仲がいいんだなということが分かった。


 陸議はあまり酒は飲まなかったが、時折飲むようになった。

 建業けんぎょうに来てから、飲まないかと声を掛けてくれる人が現れたからだ。


 全てのその日の仕事を終えてその人達と、酒を傾けながら色んな話をした。

 国のこと、国の未来のこと、


 ……お互いのことも。



 空を見上げると、凄まじい星の海が広がっている。


 

 の空とも、

 許都きょとの空とも、

 何かが違う気がした。

 

 もっと力を感じた。

 何故なのかは分からなかったが。


 食器を洗い終えて庵に戻り、囲炉裏の周囲を布で拭いていると、徐庶じょしょ黄巌こうがんが振り返って「ありがとう」と声を掛けて来た。


「いえ。大丈夫です。囲炉裏も綺麗にしておきますので、どうぞお二人はまだそこにいらしてください。あとで湯でも沸かします」

「茶葉が俺の鞄に入ってるよ」

「じゃあ、お茶を淹れます」

 陸議がそう言うと、黄巌が「ありがとう」と礼を言った。

「いい子だね」

「うん」

「俺一瞬、元直げんちょくが結婚して可愛いお嫁さんを見せに来てくれたのかと思ったのになあ」

「違う違う。彼は長安ちょうあんの仕事の同僚だよ」


 二人の男の会話を、陸議りくぎは黙って笑んで聞いていた。


「君も長安で仕事につけたら、お嫁さんでももらったらいいのに」

「まず俺が誰にも相手にされてないよ」

「なんでだろうなあ。元直、顔も人柄もいい奴なのに。俺なんか一晩一緒に飲んだだけで大好きになったのにな! その無造作に伸ばした髪が似合わないんじゃない? 色々結って楽しむなら面白いけど元直げんちょく一つにまとめてるだけだしさ」

「……誰かにも同じ事を言われたなあ」

「短い方が似合うよ。切れば?」

 黄巌こうがんが笑っている。

「いや……放浪時代ずっと髪伸ばしてたから、短くするとなんか落ち着かない……全部顔見られてるみたいで」

「全部見せなよ。君が前は、顔や素性を隠してじゃないと生きれなかったのは分かるけど、もうそういう生活が終わったなら、新しい生活に慣れなきゃいけないし、作っても行かないと。

 君の素顔はすごくいいと思うから、見せてあげなよ。長安の友達とかにも。

 素顔を見せて、こうやって腹を割って話したら、きっとみんな君のことを好きになってくれるよ」


「はは……そうかなあ」


 徐庶が笑っている。

 それから二人は切ってやる、いや今はいい、みたいなやりとりを楽しそうに繰り返していたけれど、このまま別れたら君がちゃんと髪を切ったか気になって夜も寝れなくなると黄巖こうがんが強引に押し切り、徐庶は髪を切られることになったらしい。

 村の子供たちの髪とかよく切ってやるから俺は手慣れてるよ、と安心させるように黄巖は言って、本当に縁側で短刀片手に徐庶の髪を切り始めた。

 まるで料理をしている時のように、他人の髪を切っているという慎重さがないので、陸議は見ててドキドキしたが、徐庶はもう諦めたようだ。

 しかし見ていると、本当に黄巖は迷いなく徐庶の長かった髪を切り、削ぐような短刀の使い方もしつつ手早く仕上げていくのが分かった。

 これは任せても大丈夫そうだなと思ったので、陸議は茶を淹れる続きを再開する。


元直げんちょく。今回長安ちょうあんから涼州りょうしゅうに来たことだけど、観光ってわけじゃないんだよね」


 陸議りくぎ黄巌こうがんの問いを聞いたが、囲炉裏の周囲を拭く手は止めなかった。


「ああ」


 数秒後、徐庶が答える。


「俺は……今回魏軍の軍師として、涼州遠征に従軍してるんだ。

 ここに来たのは、このあたりの村にどのくらいの人がいるか、どういう風潮でいるか、あとは……涼州騎馬隊の状況などを確認しに来たんだ」


 さすがに陸議は拭く手を止める。

 それは徐庶が負ってる責任の、ほぼ全てを曝け出したと言っていいからだ。

 このあたりはまだ魏軍到着の状況が伝わっていない。

 黄巌が下の村にそれを伝えれば、瞬く間に伝わるだろう。


 それでも言った。


 軍はすでに何度も涼州侵攻をしている。

 特に九年前の【潼関とうかんの戦い】は凄絶なものになり、数年前の、司馬懿しばいが指揮を執った天水砦てんすいとりでの戦いも、凄まじい犠牲を涼州は払った。


 憎しみの種は、もう蒔かれている。


 黄巌こうがんはジッと徐庶の顔を見て来たが、数秒後にこ、と笑った。


「やっぱり元直げんちょくは話してくれると思ったよ」

「予想してた?」

「んー。魏軍と関わってるのかなとは思った。

 ……君の空気が、前と違ったからね。

 俺も涼州騎馬隊はよく知ってるから。戦う武人の気配っていうのかな……。

 戦に来た人間の気配ってなんとなく分かるんだ」


「そうか……」


「軍師っていうのは意外だったけど。

 君は確かに知恵者だけど、知恵を戦に使いたがるようには見えなかった。

 だから……志願ではなくて、招集されたのかなとは思うけど。

 そうなった事情を聞いてもいいか?」


長安ちょうあんで役人として働いてるというのは本当なんだ。

 俺自身が、魏軍の軍師となることを望んだわけじゃない。

 ちょっと事情が複雑なんだけど、母親が洛陽らくようにいる……。

 母親が洛陽にいる理由が……俺が、数年前新野しんやに友人を訪ねに行った途中、劉備りゅうび軍に出会って、劉備殿がその時軍師を持っていなかったから……少しだけ戦術の助言を行ったことがあるんだよ。

 それで魏軍を打ち払ったことがある。

 それがどうやら曹操そうそう殿の耳に入り――、魏軍とは全く関係のない事情で魏の牢にいた俺の母親を保釈し、洛陽の都に連れて行って、館を用意し、住む世話をしてくれたんだ。

 母は俺が人を殺して逃げたことで、役人に連れて行かれて牢に入れられ、行方を聞かれ尋問されていたから。……全部俺のせいなんだ」


「この前涼州に来た時、元直げんちょくから家族の話は全く聞かなかったね。

 母親の話も聞かなかったから、君は天涯孤独だったのかと」


 徐庶は小さく笑ったようだ。


「……君のおじいさまの話も初めて聞いたよ。

 君は涼州の至る所に友達がいて、故郷の村の人たちが家族のようだったから気にならなかったけど、確かに君の家族の話も聞かなかったな」


「そうだな。だからなんとなく、お互い気が合った。

 曹操そうそうは君のお母さんを人質に?」


「いや……俺が魏に行かなくても、別に母を殺したりはしなかったと思うよ。

 彼はただ蜀にいた俺に「母親は魏で幸せに暮らしてる」という情報が届けば良かったんだ。

 俺はそれを無視して劉備殿の側にいることも出来たし、

 それならば母に会いに行こうと魏に行くことも出来た。

 魏に会いに行って、蜀に戻ることも、きっと出来たと思うんだ」


「……君はそういう器用なことを出来るたちではないと思うよ」


 徐庶じょしょの髪を短く切り終えて、黄巌こうがんは言った。


風雅ふうが


 徐庶が顔を上げる。縁側で、友に向き合った。


「君に会えて、嬉しかったのは本当だ。

 今日のもてなしにも本当に感謝してる。

 ただ今の俺は魏軍の軍師で、指揮官が命令を下せば、涼州に対して軍事行動を起こさなければならない立場だ。

 ……涼州を愛する、君を必ず傷つける。

 今この場で、俺に去ることを望むなら勿論そうする」


「いいんだ」


 黄巌は首を振る。徐庶の肩に触れた。


「今のご時世みんながみんな、いたいところにいられるわけじゃないのは――俺はよく分かる。

 生きるために仕事はしなきゃならないし、

 何かを守るために戦わなければならないこともある。

 分かってる。

 でもまだ、魏軍は軍事行動は起こしてないんだな?」


「今はね。でも明日には分からない」

「なら、明日の話は明日にしよう」


 黄巌こうがんは友の肩を抱きしめた。


「確かに君が魏軍の軍師として剣を抜くなら、俺は涼州の友達を守るために、涼州の人間として振る舞わなければならない。

 でも今はそうじゃないなら、今夜だけはただの友人として一緒にいて、笑って過ごそう。

 元直げんちょく

 俺はそれでいいから、君もそれでいいなら」


 徐庶は最大限の友情を示してくれた黄巌に感謝をした。

 深く目を閉じ、友の身体を抱きしめ返す。


「ありがとう」


「じゃあ、改めて乾杯だ」

 黄巌が二つの杯に酒を注いだ。

 二人はそれを掲げて、一気に飲み干す。


「でも元直が軍師なんか全然似合わないぞ」


 杯を置くと、黄巌こうがんがまず笑いながら文句を言った。

 

「うーん……自分でもそう思うんだけどね」


 徐庶が苦笑している。

「ということは、陸議君も軍関係者なのかな?」

「あ……はい……」

「へぇ~。元直も見えないけど、君も全然軍人には見えないね」

 黄巌は星空を見上げた。


「魏軍が来てるなんて知ったらこのあたりの皆は驚くよ……。

 この前赤壁で魏が大敗したし、曹操がついに息子に譲位するって聞いたから、

 しばらくは遠征がないと信じ込んでた。

 ……分からないものだなあ。

 成都せいとも普通に賑わっていると聞いたし……。

 乱世は深まってるのかな……」


「……。」


「魏軍が赤壁せきへきで勝ってたら、本当に魏はを制圧していたのかな?」


 仮の話なので、徐庶も腕を組んで考えている。

「分からない……。

 兵を出した以上は、制圧したかな……。

 でも制圧するにも色んな形がある。

 呉は建国けんこく以来孫家という旗頭があるから、彼らをどうするかも議論になると思うし。

 長安に孫家の人間を連れて行って人質にするのか、それとも彼らの一族を処刑して、魏の役人を送り込んで終わりになるのか、江東こうとうは元々豪族達が勢力争いをしていたというし、孫家という重しを失って、また彼らがバラバラになって、江東江南こうなん自体が以前のようにまた混乱状態になったかもしれないし……。

 江南は更に南の山越族さんえつぞくとも幾度も遣り合ってると聞いたことがある。

 呉が建国されることで安定していたから、敢えて孫家を存続させて、その統治を任せる方がもしかしたらいいと考えたかも。何らかの形で魏の支配下には置くだろうけれど」


「へぇ~。なんか今本当に一瞬軍師様に見えた」


 感心したように言われて、徐庶は目を瞬かせた。

「いや……いいことなのかなそれは……」

「だって君が前に来たときは若いのにやけに旅慣れた変な奴だなーって思っただけだったから。元直げんちょくは釣り好きの旅人にしか見えなかったよ」

 徐庶の素性を聞いた後も黄巌こうがんが笑ってくれたから、離れたところで聞いている陸議も、少しだけ救われた気持ちになった。

 徐庶も恐らくそうだっただろう。


「でも、いずれにせよ呉の水軍の指揮権は押さえるだろうね。

 水軍を率いていた武将は転属させて、水軍だけは確実に魏軍に組み込んだはずだ」


「そうか。呉の水軍は名高いもんな」


「うん。呉の水軍を取り上げれば、魏にとっての脅威はなくなる。

 それなら本来混沌としている江東こうとうの支配は孫権そんけんに任せたまま、その地の平定に尽力させた方がいいかもね。

 彼が仮に反乱を起こしても、水軍がなければ北伐はもう行えない。

 水軍が合肥がっぴあたりを固めたら、建業けんぎょうは孫権に任せて魏の統治は長江の北、寿春じゅしゅん廬江ろこうあたりでやるのがいいかも」


「なるほど……そうすると、孫権も魏の支配下の揚州ようしゅうを治める一領主に過ぎなくなるってことか」

「実際どうなっていたかは分からないけど」

「でも大方の予想では魏の大船団が長江を埋め尽くせば、呉は降伏するだろうと思われてたよな」

「涼州ではそうだったんだね。魏も大概はそんな風潮だった。

 大敗したって聞いた時は、長安の宮殿は酷い騒ぎになってたよ」


「呉軍を率いてたのは誰だっけ?

 確か、孫家の人間じゃなくて周……周なんとかって」


周公瑾しゅうこうきんだ。当主の孫堅そんけんが暗殺されたあと、一族を率いて、実質江東こうとう平定を果たした孫伯符そんはくふとは、血は繋がってないが兄弟のように育って来た腹心で、呉軍の最高位の軍師だよ」


「凄いよな。水上で火計かけいを使ったんだろ?」


「うん。そう聞いた。

 実際その大船団はほとんど空で、陽動だったらしい。

 周瑜しゅうゆ将軍は本隊を率いて夏口かこうの陸地に上陸して、長江に布陣した曹操軍を挟撃したんだ。

 水軍の強さというのは、水の上の動きの速さも含まれる。

 上陸作戦に時間が掛かってたら、魏に動きを悟られていたかもしれない。

 でも速やかに上陸し挟撃態勢に入れたことも、呉軍と周公瑾だったから出来たのだと思う」


「水軍を率いていた将軍がいたんだよね?」


黄蓋こうがい将軍だ。孫文台そんぶんだいの代から孫家に仕えてる忠臣で、呉軍の重鎮中の重鎮だと聞いた」

「彼は……立派な最期だったと聞いたけど、自分が戦場で死ぬことを分かってて出撃したのかな」

「どうだろうね。ただ……火計を起こす役を引き受けたのは彼だから、分かっていたかもしれない。一瞬で火が燃え広がるようにしなければならないから、大量の油が甲板に蒔かれていただろうし……逃げ道はなかったはずだ」


周公瑾しゅうこうきんが亡くなったって、しょく方面から涼州りょうしゅうに伝わって来たよ」


「そうか。反応はどうだった?」


「みんな悲しんでた。魏を相手に凄い戦をしてくれた人って印象があったからね。

 不思議なんだ。呉なんて涼州からすると全く関係ないし、全然遠い別の国の人たちって感じなのに。

 周公瑾だけは、ちょっと特別だった」


 陸議は二人に背を向け、湯を沸かす作業をしながら、目を閉じた。


(こんな西涼せいりょうの地でも、あの方をこうやって話す人たちがいる)


 間違いなく、呉軍最高の軍師だった。

 

 そんな人に声を掛けて貰い、側で色々なことを教わって来た。

 その人が龐統ほうとうに会った時、

 決して呉に忠誠心を向けない龐統を見通して、重用しなかった。

 周瑜しゅうゆがそう言うのならと陸議はいつだって思って来たのに、

 そういう自分が何故龐統にだけはそう思えず、周瑜の意に反してまであの男を呉に留めようとしたのか今でも不思議だった。



(周瑜様は……きっと私に失望されたまま、亡くなったんだろうな)



 失望どころか、今は魏軍の一員として、いつかは呉軍と戦うかもしれない。

 今や呉の敵だ。

 何がどうなれば今のようにならなかったのか、

 実りのないその問いを、呉にいたときは時々考えていた。


 今は全く考えない。

 罪悪感で立っていられなくなるからだ。


孫伯符そんはくふとは兄弟じゃないんだね。

 同じ戦場に絶対二人で出陣して来たって聞いたから、血の繋がりがあるのかと思ってた」


「無いみたいだよ。でも、それでも本当に兄弟みたいな二人だったらしい」


「そうなのか。孫策そんさくも赤壁で亡くなったんだよね?」


 徐庶じょしょは頷く。短くなった髪が相当落ち着かないのか、首の後ろのあたりを撫でて確かめるような仕草をしきりにしている。


「周公瑾は病死、孫伯符は戦死らしい。

 詳細は分からないけど、周瑜将軍は重病だったのは間違いない」


 黄巌こうがんはゆっくり、杯に酒を注いだ。

「俺は……黄蓋こうがい将軍は、周瑜の病気を知っていたんじゃないかと思うよ。

 はっきり聞かされていなくとも、察するところはあったんじゃないかな」


「……どうして?」



「だから多分、長江ちょうこうの上で、魏軍の大軍の前にたった一人でも彼は勇敢になれたんだ」



 徐庶は目を瞬かせて友の横顔を見てから、穏やかな表情で頷いた。


「そうかもしれないね」


「年下の子が自分以上に頑張ってると、年上の男は、自分はもっと頑張らなくちゃと思って何故か勇敢になれるんだよ」


 徐庶は以前、黄巌こうがんとは一夏をじっくりと共に過ごして涼州を旅して回ったのだが、彼も家族の話はしなかった。

 ただ故郷があり、ずっとそこで育ってきたと言っていたから、そういう意味では家族がいない感じが彼にはないのだ。

 幼馴染みの話も聞いたし、師の話も聞いた。

 黄巌からは孤独の気配はあまりしない。


(だけど、見かけるといつも一人でいるんだよな)


 初めて黄巌に会った時も、山中で休んでいると山道を一人、大きな荷物を背負って登って来たのだ。

 丁度そこから下って、山の下の村に行くだけだったので、少し荷物を持ちましょうかと声を掛けたら喜んでくれて、一緒に村に行ってご馳走してくれた。


 その村にも黄巌の知り合いはたくさんいた。


 定期的にたった一人で、商隊のように村から村へ荷物を届けたりもしているようなのだ。

 だからどこへ行っても知り合いがいる。

 友人がいて、

 もう行くよと言えば女性達が頬を膨らませていた。


 黄巌こうがんがまだ妻帯せず以前と同じ旅暮らしをしていたのは、徐庶は非常に意外だった。

 

 彼は臨羌りんきょうの故郷に戻り、好きな人と結婚して、とっくに家庭を持っていると思っていたから。


風雅ふうが

 一つだけ、聞いてもいいかな」


「うん。いいよ」


「君が言っていた側にいたい人っていうのは、このあたりに住んでるのかい?」


 黄巌は腕を組み、それから少し考えた。


「君が魏軍に関わってなかったら、何の迷いも無く話したんだけど。

 今は話すのはやめるよ。

 俺がここで何かを言って――そのことで君が何かを躊躇って、魏軍に処罰されたり、命を落とすようなことになるのは嫌だ」


「風雅……」


 黄巌は冷えて来たねと徐庶の肩を叩いた。


「囲炉裏の側に戻ろう」


「湯が丁度沸きました」


 陸議りくぎが言うと、「助かるよ、ありがとう」と黄巌が礼を言った。


 徐庶じょしょは友の様子を振り返ってから、小さく呟く。



「…………ありがとう」



 自分は敵としてここに来たのに、黄巌は最大限の友情を示してくれた。

 それに感謝しても、軍に関わると人を殺さなければなくなる。


 好きに生きなさいと母は言った。


 今まで通りそうしなさいと。

 あれも母親として最大限の愛情だ。

 

 軍に携わって、かつての友人や、その人たちの家族や大切な人を殺して、命を奪うことに魏への忠誠心という天秤が釣り合わない以上、得るものは何も無い。



(いい加減、こんな生き方はやめなければならない)



 星空を見上げる。


 この乱世では、ただ長閑な庵の縁側で胡座を掻いてても、その場所が戦場になることがある。

 戦に巻き込まれる。

 

 徐庶じょしょは星のように輝く才を持った、一人の友人を思い出していた。


孔明こうめい。君はきっと、それが分かったからしょくに仕官したんだな。

 君はずっと、戦や政に関わることを嫌がってた。

 自給自足で生きることが出来れば、あの庵で一生を終えても構わないと本当に思ってた。

 でもこの世で生きる限り――『誰か』が訪ねてくる)


 その誰かは、

 戦や、

 悪しき政を行う者かもしれないし、

 人の世の関わらない天災が起きて、そこにいられなくなるようなことだってある。


 その全てに関わらないようにするなら、本当に独りきりで他者や外界に無関心でいなければならない。


 諸葛孔明しょかつこうめいは戦や政に関わることは嫌っていたが、

 人里の側で暮らすことは望んでいたし、村人が病気の人間がいるから薬草を調合してほしいなどと訪ねて来た時に助けてやるようなことは、見返りなど求めず喜んでやっていた。


 ……世界を見捨てるには、諸葛亮しょかつりょうは心が優しすぎたのだと思う。


 優柔不断で何も選べない自分と違い――彼は選んだ。

 あの庵での穏やかな暮らしはきっと捨てたくは無かったと思うが、それでも心を決めて選んだのだろう。


 優しいだけではなく、芯の強さや、道理を深い所まで理解し判断する、

 そういう聡明さを持った友だった。


(俺も、もっと早く、

 君のように強く、自分の生き方をきちんと決めて何かを選んでいたら……)


 そう考えて、小さく笑みを落とす。


(いや。それすら、都合のいい想像に過ぎないな。

 そうしなかった自分が今の自分なんだから)



徐庶じょしょさん」



 声に振り返ると、鍋に入れた湯に酒を浮かべて温めている黄巌こうがんの側で、陸議りくぎがこちらを見ていた。


「お茶が入りました」


 少しだけ気遣うような表情が不安げに見えて、徐庶は立ち上がる。


(過去は変えられなくても、目の前で自分を心配してくれてる人を、安心させてあげられるようにくらいはなりたいな)


 近づいていくと、ホッとしたような顔を陸議が見せた。


孫伯符そんはくふ周公瑾しゅうこうきんはどっちが年上だったんだろう?」


 ふと思い出したように黄巌が囲炉裏の灰をつつきながら首を傾げた。


「あの二人は……近い年齢だったとは思うけどどうだったか……」


「お二人は同い年です」


 黄巌こうがんと徐庶が、同時に陸議を見たので、あっ、と慌てて首を振った。


「同い年だと、聞きました……前に……」


 危ない。あまり呉の事情に詳しいような発言をしてはいけないのだった。

 陸議は強く反省する。

 しかし幸い黄巌も徐庶も、さして気にしないでいてくれたらしい。


「同い年かあ。

 支え合ってる感じがしたからどっちかが上なのかなと思ってたけど、

 同い年となるとまたちょっと違うね。

 そうか。あの二人は年齢のそういうしがらみもなく、

 嫉妬も、気負いもなく、ただお互いの側が気に入ってて、一緒にいたんだね。きっと。

 兄弟みたいだけど、親友でもあるんだ。きっと競い合う間柄でもあったんだろう。 

 そういう存在がずっと側にいた。

 だから周公瑾は強くなれたんだ」


「そういえば、君の歳を聞いてなかった」

「何歳に見える?」


 にっ、と黄巌が笑った。

元直げんちょくよりは俺の方が絶対年上だな!」

「分からないよ。年齢より老けて見えるって俺よく言われるし」

「俺は年齢より若く見られるけどでも絶対君よりは年上の自信があるね」

「うーん。どういう自信かはよく分からないけど……」

「俺の方がお兄さんに見えるよね?」

「そうとも限らないんじゃないかな?」


 いきなり二人に尋ねられて、陸議はお茶を飲もうと思っていた手を止め、目を瞬かせた。


「えと……あの……」


「ほら。困ってる。元直から言ってよ。絶対俺の方が上だし」

「いや、君の方からどうぞ」

「そんなこと言って俺が言った年齢に二足すつもりじゃないだろうな」

「そんなズルはさすがにしない」


「そうだ。じゃあ囲炉裏の灰に自分の年齢を書いて一斉に見せ合おう。

 嘘書いたら絶交だぞ元直。本当の年齢書くんだぞ」


「俺が魏軍の軍師でも絶交しなかったのに年齢を偽ったら絶交なのか……」


「そうだよ。俺こっちに書くから元直はそっちに書いて。

 盗み見るんじゃないぞ。陸議君が見て確かめて」


「は、はい。分かりました」

「言えばいいことだと思うんだけどなあ……」


 徐庶じょしょが不本意そうだが、灰に木の枝で『二十五』と書いた。


(徐庶さん二十五歳なのか。もう少し上かと思ってた)


 陸議は少し意外だったので、数字を見て目を瞬かせる。

 

「陸議殿?」


 じっと数字を見ていた陸議に徐庶が声を掛ける。

 顔を上げると、徐庶と目が合った。

 囲炉裏の火が映り込んでいて、徐庶の瞳の色がいつもより鮮やかに見える。

 ずっと黒い瞳だと思ってたけど、違った。

 もっと茶色がかっているのだ。


 徐庶の本当の瞳の色を、初めて見た気がした。


「陸議君?」


 思わずまじまじと見てしまって、後ろからの声に陸議は肩を跳ね上げる。


「はい!」


「俺の年齢も見て。

 絶対元直より上だと思うけど。

 元直げんちょくはあんな人生を達観してるみたいな雰囲気してるけど、俺の予想だと無理に渋さを出そうとしてるんだと思うんだよ。

 きっとまだ若いから、あんまり若すぎると役人として信頼されないからわざとああいう似合わない感じに髪とかも伸ばして仙人感を出そうとして実際の年齢誤魔化してるんだと思う。

 だって俺より年上ならもっとしっかりしてるはずだしね。

 元直全然しっかりしてないもん」


「その……風雅ふうが……なんとなくで、なんとなく俺を傷つけるのやめてくれるかな……」


 見て見て、と少年のように陸議は促されて、黄巌こうがんの手元の灰を見た。


「お揃いだ」

「えっ⁉」


 大きな声を出したのは黄巌だ。

 徐庶は屈託なく笑った。

「なんだ……結局同い年か」

「絶対俺の方が年上だと思ってたのに! なんでだ⁉」

「なんでだと言われても……」

「嘘を書いてないだろうね元直」

「書いてません。」

「本当に書いてないだろうね」

「書いてないってば」


 二人の遣り取りを交互に見ていた陸議が、不意に笑ってしまう。

 彼が笑うと、詰め寄っていた男二人は互いに頭を掻いて、この下らない問答をやめることにしたらしい。


「まあ同い年も悪くないか。気兼ねなく付き合えるし」


「俺は……昔から兄弟がいなかったから、気兼ねなく言い合える男友達はいてくれるだけで嬉しいよ」

 徐庶が小さく笑んでそう言うと、黄巌こうがんが徐庶の頭をくしゃくしゃと弟みたいに撫でた。


「俺も兄弟のように育ってきた幼馴染みはいるけど。兄弟はいなかったから、元直げんちょくみたいに頭が良くて優しい男友達はいてくれるだけで嬉しいよ」


 もう一度乾杯しようかと二人は笑いながら酒を注いだ。


「陸議君も一緒に飲もう。お茶でいいから」




【終】

 

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花天月地【第46話 星許の庵】 七海ポルカ @reeeeeen13

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