第3話


古塔の入り口は、長年の風雨に晒され、崩れかけた石のアーチがぽっかりと口を開けていた。


「ここが、古塔……」


新人の彼女が、小さく呟く。その声には、冒険者としての初陣に挑む緊張と、受付係として“現場を見る”覚悟が滲んでいた。


「ここから先は、教本に書いてないことだらけだ。気を抜くなよ」


俺は彼女の背に声を掛け、ゆっくりと塔の中へ足を踏み入れた。


塔の内部は、湿気を帯びた空気が重く、苔むした石床にはところどころ崩れた瓦礫が散らばっている。足を踏み出すたびに、細かな砂埃が舞い上がる。


「この空気、わかるか?」


「……湿っていて、滑りやすそうです」


「そうだ。これだけ湿度が高いと、罠の糸は緩んで感度が鈍くなる。逆に、崩落の危険性は上がる」


「……書類の上じゃ、絶対わからないですね、これ」


彼女が呟く。


「これが“現場”だ。依頼書には“塔内部の罠に注意”って一文しか書かれてないが、その裏にある“空気”を読み取って、受付は補足説明を加える。その積み重ねが、冒険者の命を守る」


「……受付って、もっと大事な仕事だったんですね……」


彼女の目が、少しずつ変わっていくのがわかる。現場を知らなければ見えない世界が、彼女の中に刻まれていっている。


「じゃあ、実践だ」


俺は塔の奥、薄暗がりの先に目を凝らした。


「——三歩先、足元の石畳に“仕掛け”がある」


「えっ、そんなの見えません……!」


「見えなくていい。“気配”で察するんだ。ここで冒険者がどこを見るか、その視点を覚えろ」


俺は彼女の手を取り、わずかに盛り上がった石畳を指差した。


「湿気で罠糸は緩んでるが、石の縁がわずかに歪んでる。これが、“現場のサイン”だ」


「……!」


「受付がこのサインを知らなければ、依頼を受けた冒険者はここで死ぬ。だからこそ、“紙に書いてない情報”を伝えるのが受付の役目なんだ」


彼女の顔に、ハッとした表情が浮かぶ。


「受付係って、“冒険者の味方”じゃなくて、“冒険者の盾”でもあるんですね」


「そうだ。俺たちが受け付ける書類一枚が、誰かの命に直結する。だからこそ、お前も——」


「わかりました!」


彼女は胸を張って言った。


「私も、“紙の向こう側”まで読み取れる受付係になります! 今日、ここでその覚悟を決めます!」


その言葉に、俺はゆっくりと頷いた。


「よし……なら、先を行くぞ。今度はお前が俺に“現場報告”してみろ。俺が“受付に戻った時に納得できる”ようにな」


「はいっ、先輩!」


彼女の顔は、もはや迷いのない冒険者のそれだった。だけど——彼女の立ち位置は“受付係”だ。その上で、現場を知る者として、冒険者たちと向き合う強さを持とうとしている。


これでいい。これが、俺に与えられた“最後の仕事”だったのだから。


……だが、この古塔で待っている“もう一つの試練”を、俺はまだ知らなかった。


塔の最深部で俺を待つ、“俺の過去”が動き出しているとは知らずに——。


古塔の中層に差し掛かった頃、彼女の動きが変わり始めていた。


最初は俺の後ろをただついてくるだけだった彼女が、今では自ら周囲に目を配り、足元を確認し、壁や天井にまで意識を向けている。その視線は鋭く、まるで“次に何があるのか”を予測しようとしているかのようだった。


「……いい目になったじゃないか」


俺は小さく呟いたが、彼女は聞き逃さなかったらしい。


「ル・ブレさん。次は、“落とし穴系”か“天井崩し”の仕掛けが来ると思います」


「理由は?」


「罠の間隔が広くなっています。序盤の簡易罠から徐々に難易度が上がってきていて、ここに来て“間”を作っている。これは“油断させて一撃を狙う”タイプの配置です」


彼女はそう言いながら、天井の石組みに目を向ける。微かなズレ、崩落の予兆……おそらく、受付のカウンターでは一生気づかなかったはずの“現場の勘”が、今の彼女には芽生え始めていた。


「なるほどな……新人とは思えない読みだ」


俺は素直に感心した。


「昔、俺の上司が言ってた。『受付係に必要なのは“目利き”だ。目利きができれば、書類の裏にある現場が見える』ってな」


「そのお言葉、今ならわかります……!」


彼女はそう答え、弓を構えた。


「ル・ブレさん、前方二十メル先、崩落痕あり。石屑の散り方から見て、“人工的に崩された”跡です。ここが罠の作動点です!」


「——お前、もしかして受付より現場の方が向いてるんじゃないか?」


俺が冗談混じりに言うと、彼女は笑った。


「いいえ。“受付だからこそ”ここまで見てみたいんです」


彼女のその言葉に、胸の奥で何かが静かに震えた。


“受付だからこそ”——か。


俺がいつか失いかけていた初心を、彼女は持っている。俺はいつの間にか、受付という立場に慣れて、現場に出る理由を“逃げ”にしていたのかもしれない。


「……そうか。なら、俺もお前に胸を張れる受付でいるために、まだまだ学ばせてもらうとするか」


彼女は誇らしげに微笑んだ。


その瞬間だった。


——ゴウン、と塔全体が低く唸るような音を立てた。


「……来たか」


俺は静かに目を細める。


「この奥に、“お前が受付係になる上で避けて通れないもの”がある」


「……それは?」


「俺の過去だ」


ここから先は、ただの現場研修じゃない。


塔の最深部には、俺がかつて“受付係”として見落とし、守れなかった“誰かの記録”が眠っている。そして、その過去が、今もこの塔で息を潜めているのだ。


「ついて来い。ここからが“本番”だ」


彼女は頷き、弓を握る手に力を込めた。


俺と彼女、受付係二人の“過去と現在”が交差する塔の最奥へと、俺たちは歩を進めた。


——そこには、“俺が受付である理由”が眠っている。



古塔の最深部は静まり返っていた。


そこには祭壇のような台座があり、その前に俺は立っていた。彼女はすぐ後ろに控えている。空気が変わった——そう思った瞬間だった。


闇の中から、一人の男の“亡霊”が姿を現す。


「来たか……あの時のこと、覚えているか?」


低く、静かに、だが確かに俺に問いかける声。


——覚えている。


かつて、俺がまだ受付係として駆け出しだった頃。現場を知らず、紙の数字と文字だけを信じて、予測を怠った結果、この塔で命を落とした冒険者がいた。


目の前の亡霊は、その冒険者だった。


「……あの時、俺は“紙の数字”しか見ていなかった。お前の足音、報告にあった崩落の兆し、全部見落としていた」


俺は静かに答えた。


「けれど、今ならわかる。現場の空気を読み取る大切さを、お前が教えてくれた。その教訓を、次の世代に繋げるために、俺はここに来た」


亡霊はわずかに目を細め、ゆっくりと頷いた。


「ならば、その想い……見せてみろ。今度こそ“現場の力”を示してみせろ」


——霊気が塔全体を満たしていく。


「新人、ここからが本当の実戦だ。魔術の基本から教える。俺の後について来い!」


「はい!」


俺は右手を掲げ、魔術の構えを取った。


「魔術は“想像と意志”で構築する。今、この空間に“風”をイメージしろ。この場の空気を読んで、どう動かすかを“自分で決める”んだ」


「空気を……読む……」


彼女は真剣な表情で集中し、両手を前にかざす。その指先に、微かに風が集まり始めた。


「そうだ、それでいい!」


亡霊が静かに笑った。


「……よいぞ。受付とは、“命の流れを読んで導く者”だ。その覚悟、見せてみよ」


霊気がうねり、亡霊が霧のように姿を変える。攻撃の意志はない。これは試練だ。


「次は、“魔力の流れ”を掴め。魔力は空気よりも気まぐれだ。だけど、受付係ならわかるはずだろう? “数字に隠された動き”を読む力が」


「……はい!」


彼女は必死に目を凝らし、塔内を流れる魔力の筋を追い始めた。


「見えました!——そこです!」


彼女が指差した瞬間、俺はその場に風の魔術を叩き込む。魔力の筋が揺らぎ、亡霊がにこりと笑った。


「見事だ。“受付係の眼”が育ったな」


霊気が静かに収束していく。


「ル・ブレ……お前がかつて落としたものを、今、確かに受け継がせたぞ」


「ありがとう。——これで、ようやく前に進める」


亡霊は微かに頷くと、霧のように消えていった。


彼女は肩で息をしながら、俺を見上げた。


「ル・ブレさん……いえ、“お兄さん”。わかりました。受付の仕事が、“現場の命を預かる”って、こういうことなんですね」


俺は微笑んで頷く。


「その通りだ。受付は、ただのカウンター業務じゃない。“命を導く”現場の最前線だ」


「これから、私はこの目で見て、この手で支える“受付係”になります!」


塔の最深部で、彼女は“受付係”としての覚悟を固めた。


俺の“最後の仕事”は、こうして静かに幕を閉じたのだった。


……だが、俺の役目は終わっても、彼女の“受付としての物語”は、これからが始まりだ。


——そして、俺もまた、もう一度“現場”と“受付”の狭間で新しい道を探すのかもしれない。


古塔探索からギルドに戻ると、彼女の表情はもうすっかり“受付係”のそれだった。


ギルドの裏口からこっそり戻った俺たちは、そのまま報告書の提出に向かう。受付カウンターには、例の古参の受付係ジルトさんが座っていた。


「おかえり、ル・ブレ。任務ご苦労だったな」


ジルトさんは、彼女に目配せをしながら、俺にだけ聞こえる声で呟いた。


「どうやら、いい“受付係”が育ったようだな」


「ああ、現場での目の付け所は一流だった。あとはカウンターで磨くだけです」


彼女は手に持っていた報告書をしっかりと差し出した。


「東の古塔、探索完了。罠の状態と内部の魔力流も含め、現場の状況を報告書にまとめました!」


ジルトさんが目を通し、ニヤリと笑う。


「いい書き方だ。“冒険者に命を預けてもらう受付”の文章になってる。——合格だ」


彼女の顔がぱっと輝いた。


俺は、彼女の隣で静かに頷きながら、ポケットに忍ばせた“俺自身の報告書”をジルトさんに渡す。


「こっちは“裏の報告”だ。俺が“受付係として”まとめた最終報告」


ジルトさんは黙ってそれを受け取り、懐にしまい込んだ。


「これでお前は、本当に“休暇”だな」


「……そうですね。1週間、本当に休ませてもらいます」


俺はギルドの裏通りを抜け、陽の差し込む街道へと出た。


——本当の休暇。


久しぶりに時間に縛られない1週間だった。


朝は市場でのんびり食材を選び、昼は街の外れの湖畔で本を読む。夜は静かな酒場で酒を嗜む。冒険者でも受付係でもない“ただのお兄さん”として過ごす、穏やかな時間。


——だが、それも束の間だ。


「さて、そろそろ“受付のお兄さん”に戻りますか」


俺は1週間後、ギルドのカウンターに立っていた。


「お兄さん、戻ってきたんですね!」


例の新人——いや、もう立派な“受付係”として彼女が隣に立っている。彼女の手さばきはまだ拙いが、目の奥には確かな“現場感覚”が宿っていた。


「おう。ただいま。これからは“受付二人体制”だ。よろしく頼むな」


「はいっ!精一杯頑張ります!」


ギルドのカウンターで、再び書類を受け取る。数字を読み、言葉を整え、現場を想像する。だが、俺の中でそのすべてが、“新しい景色”として息づいている。


そして夜になれば——。


「さて、今夜は“ル・ブレ”としての仕事だな」


俺は魔術で紅のル・ブレに変身し、月明かりの下、静かにギルドを後にした。


受付係として冒険者を支え、冒険者として受付の現場を知る。


二つの顔を持つ俺の生き方は、これからも続いていく。


——“受付のお兄さん”は、今日も忙しい。




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冒険者斡旋所は今日も忙しい〜裏で冒険者やってます〜 みなと劉 @minatoryu

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