宇宙の地平で踊りましょう

藤原くう

宇宙の地平で踊りましょう

 事象の地平線イベント・ホライズンへ下りると、倉平くらひらリイさんが待ち構えたように立ち上がる。


 その拍子に着ている白衣が空気もないのにふわりとはためく。それがなんとも綺麗だった。


「待った?」


「そんなに。一日も経ってないんじゃない」


 そんなに短かったかな――という言葉を僕はすんでのところで飲みこむ。ブラックホールの中と外で時間の流れは違う。ブラックホール近くのコロニーで療養していた僕の1年が、倉平さんにとっては1日に感じられたというわけだ。


 科学者から教えられてはいたけれど、つい忘れてしまう。


 目の前に立った倉平さんは、十年前と変わらない。彼女にとっては十年という月日でさえも、あっという間の出来事だ。


 ブラックホールの実験中に落ちてから、まだほんの数週間のことのように感じている。


 もしかしたら、まだ落ち続けているかもしれない、と言う科学者もいた。そうでもしなければ、事象の地平線上に立つ倉平さんをある種の集団幻覚と決めつけることができないから。


 僕は倉平さんの手を掴む。その手の細さと白さは、エキゾチックな粒子でできているとは思えないほど、彼女のものと同じで。


 思わず、にぎにぎしてしまう。


「なにかな、佐藤くん」


 そう言われて、僕は倉平さんの手を放す。滅茶苦茶恥ずかしかった。宇宙服を脱ぎ捨てて、真空の冷たさに身を任せたくなってしまうくらいには。


 くすりと笑い声がブラックホールの中にこだまする。きっと、これを観測する1週間後の研究者たちは頭を抱えていることだろう――なんで宇宙に声が響いてるんだ、と。


 それを言ったら、倉平さんは宇宙服を身にまとっていない。ネイキッドと呼ばれてはいるけれど、マンガや映画で描かれているみたいに裸の女神様って感じじゃないから誤解しないでほしい。


 女神様とは対極的なほどありふれた格好をしている。このまま渋谷を歩いたって違和感はなかった。


 でも、酸素のない宇宙空間においてはなによりも異常なのだった。


「甘えたいならそう言ってよ」


「別にそういうわけじゃない」


「じゃあ何さ、おねえさんに言ってみな?」


「もう僕の方が年上だけどね」


 言ってから、しまったと後悔する。年齢の話はしないことにしていた。時間のことを思い出させてしまうから。


 僕と倉平さんの間にある、時間という溝をどうしても強調させてしまうから。


「そういうなら、私の出した宿題は解けたのよね?」


「ちっとも全然まったく」


「じゃあ私の方がお姉さんということで」


 ふんすと胸を張る倉平さんは、やっぱり前と変わっていない。


 ブラックホールに飲みこまれてしまった彼女は、倉平リイであって倉平リイではない――そんな意見が哲学の方から出てきているけれど、僕はそうは思わない。


 ここにいる倉平さんは正真正銘、倉平さんだ。


 十年前と変わらない彼女は、逃げた僕の手を掴んでくる。その乱暴さだってちっとも変わってなかった。


「ずいぶんごつくなっちゃってまあ」


「特注の宇宙服だからね」


 ブラックホールという、深海よりも深く、強い圧力にも耐えられるように設計された宇宙服は、服というよりよろいに近い。遠くから見たら、昔あったっていうブリキのおもちゃに見えるらしい。


「ハニワみたい。似合ってないよ」


「よく言われます」


「ま、いいや。折角来てくれたんだから踊ろうよ」


「今回もですか」


「今回もですよ、佐藤くん」


 前回も前々回も――というか事象の地平線上に裸の特異点ネイキッドが現れたと聞いてやってきたときから、ずっと僕はこうして踊らされている。


 倉平さんは踊るのが好きで、付き合っていたときも何度か踊らされたっけ。


 ズンズン鳴りひびくEDMと降りそそぐ極彩色のライト。その中で、踊ったのはちょっぴり苦い思い出。


「吐きましたもんね。いきなりだったからビックリしましたよ」


「無重力だからってあんなに飛び回ってたら誰だって――思い出しただけで吐き気が」


 三次元ダンスなんて考案した人のことは永久に呪うつもりだ。それと同様に、そんな意味の分からないダンスを倉平さんに教えた人も、バナナの皮でも踏んで地面とキスしていただきたい。


「ひ弱なんだよ、佐藤くんがさ。タキオンじゃないの?」


「僕の名前はタキオであって、未発見の素粒子じゃないです」


 いつものやりとりに倉平さんがニヤリと笑った。グイっと引力を感じて、踏みとどまろうとしたけれど、全然かなわない。


 倉平さんは倉平さんなんだけど、倉平さんではないところもある。


 いくらなんでもここまで力強くはなかった。このハニワめいたパワードスーツは、超重力にも耐えられるように、力だってかなり強い。


 人なんて指先ひとつで吹き飛ばすことができる。石ころの1つ押し出すことだってやろうと思えばできるらしい。それでも吹き飛びもしないし、むしろ引っ張れるだなんて、技術者はため息を漏らすに違いない。


 ヒトのかたちをしているけれど、ヒトではない。


 そんな倉平さんのなすがまま、踊る。


 僕は手も足も出ないし、そもそも動かす必要もなかった。倉平さんがリードしてくれる。それどころか、まわりに渦巻く重力子グラビトンさえもが、僕のことを動かしてくれているような気がした。


 息のできない真空の中で倉平さんは、どこかの遊園地で聞いたようなメロディを口ずさむ。


「佐藤くんが下手で安心するね」


「……どうしてです」


「もしかしたら別人なんじゃないかってさ、思うわけですよ」


 倉平さんを見れば、ニコッと笑みが飛んでくる。彼女から見れば、僕の顔は分厚いヘルメットにおおわれていて、表情は見えないはずだ。その何もかもを見透かしたような目に、背中に冷たい汗が走る。その不快な汗は、瞬く間に宇宙服によって吸収された。


「別人だったら?」


「こうっ」


 スッと伸びてきた手が、ヘルメットをパチンとはじく。デコピンってやつだ。


「でも、佐藤くんみたいで安心」


「なんで僕なんかがいいのやら」


「だって彼氏じゃん」


「……何もできませんよ」


「何もできないでもいてもらうだけでうれしいんだってば」


 倉平さんが掴んだ僕の手を上にあげ、くるくる回すものだから、僕はくるくる回転する。


 空を見上げると、井の中のかわずになったような気分がする。


 光さえも吸い込む黒に切り取られた円形の宇宙には、星が七色に瞬いている。


 その輝きは、手を伸ばせば届きそうでいて、絶対に届かない。


 絶対に――。


「何かわかりました?」


「全然。どうしてこうなっちゃったのかさえ分かりません」


「いつもどおり、と」


「そんなこと言わないでよ。こうやってブラックホールの中から声をお届けできてるのは、私がいるからなんだよ?」


「研究者の皆さんにはそう言っておきますよ」


「お願いします」


 などと言ってる間も、倉平さんは踊りつづけている。僕なんか、何もしてない。


 彼女がここから出る方法を見つけることだってできてない。


「そんな顔しちゃうと、食べちゃいたくなるからやめてね」


 顔を上げると、倉平さんの笑顔が、暗い心へ降りそそいでくる。


「……生まれつきです」


「佐藤くんは心配せずとも、こうしてお見舞いにやってきてくれたらそれでいいの。この天才物理学者にお任せあれ、」


 それとも、私のことが信用できない?


 なんて言われたから、僕は首がねじ切れるほどブンブン振る。そしたら、笑い声が返ってきた。


「それに、喋る裸の特異点だなんてレア中のレアだからね。楽しいんだよ」


「……ならずっとここに――」


「佐藤くんと一緒に暮らせないというのは、さみしいからさ」


「――――」


 キュウと、胸の中の袋を握りつぶされたような気がした。目の前の女性が今にもブラックホールの奥底へと消えていくような気がして、抱きつけば、よしよしと頭を撫でられる。


 宇宙服越しだというのに、温かい。


 しばらく、そうしていたけれども、ぷーっと宇宙服が鳴りはじめた。


 警報。


 超重力下で、耐えられる限界がやってきたことを伝える機械的なビープ音。


「もう時間が来たんだ。早いねえ」


「ええ」


「まあ、しょうがない。こんな重力下に人間は長くはいられない、かあ」


「また来ますよ」


「うん。来てくれないと、こっちから行っちゃうからね?」


「それは……大変なことになっちゃうらしいですから、やめてくださいね」


「はあい」


 じゃ、と僕は倉平さんに言う。


 僕が手を上げると、からだが上へ上へと浮かんでいく。ブラックホールの外から引っ張りあげられていく僕は、事象の地平線の上に立ち、こっちへ手を振る倉平さんを見下ろす。


 来年も、ここで踊れることを祈りながら。


 また別のダンスホールでも踊れる日を夢に見ながら。

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