心の傷跡は消せなくても、その傷の痛みは取り除いてあげたい

春風秋雄

田舎はいいなぁ

やっぱり田舎はのどかだなぁ。東京の殺伐とした生活から、この田舎に逃げてきて、まだ3日しか経っていないが、ここにいれば嫌なこともすべて忘れられそうな気がした。島根県の片田舎にあるこの家は、母方の実家だ。祖父はすでに他界しており、子供たちは皆県外へ出てしまったので、いまは祖母が一人で住んでいる。子供の頃は夏休みや冬休みに母親に連れられてよく来ていたが、大人になってからはほとんど来ることはなく、祖母に会うのも祖父の葬式以来なので、本当に久しぶりだった。

祖母は今年84歳だというのに、見た目は若々しく凛としている。中学校の教師をしていたというだけあって、姿勢もよく、話し方も知性にあふれている。そんな祖母を頼って、近所の人たちはよく相談にくるようだ。家庭の問題や、夫婦間の問題。お子さんの進学の相談、まるでよろず相談所だった。今日も一人の女性が相談に来たのだろう、奥の部屋でずっと話している。話している内容はわからないが、時々笑い声も聞こえ、あまり深刻な話ではないようだ。

1時間ほどして、部屋から二人が出てきた。

女性が俺に向かって「お邪魔しました」と挨拶をするので、俺は小さく頭を下げた。来たときはチラッとしか顔が見えなかったが、こうやって見るとまだ若そうだし、とても綺麗な人だった。

「澄子おばさん、また寄らせてもらっていいですか?」

「遠慮なんかしなくていいよ。私はいつでも暇なんだから、いつでもおいで」

「今日は本当にありがとうございました」

女性はそう言って帰っていった。

「お婆ちゃん、今の人は?」

「ああ、若松さんとこの千里さん。ちょっと色々あってね。私が何か言ってあげてどうにかなることではないけど、私と話すことで気が休まるならと思って相手をしてあげているんだよ」

「色々って何?」

「この村の人はみんな知っていることだけど、まあ、そのうち話してあげるよ」

祖母はそう言うと、裏の畑に野菜をとりに行った。


俺の名前は高杉英明。32歳の独身だ。最近まで東京にある高桑デザイン事務所でWEBデザインのクリエイターとして働いていた。事務所の代表の高桑さんはまだ30代なのだが、なかなかのやり手で、個人事務所から始めて数年前に株式会社までにした人だった。まだ独身で、事務所の独身女性の憧れのような存在だった。俺には結婚を考えていた女性がいた。もう4年も付き合っていた彼女だった。事務所の懇親会の花見が開かれた際、みんな家族同伴で参加するので、俺は彼女を連れて行った。彼女はちょっとした美人だったので、事務所の連中に自慢したい気持ちもあった。高桑さんに紹介すると、「高杉君の彼女ですか。綺麗な方ですね」といってほめてくれた。それから3人で色々話していると、彼女と高桑さんは出身が同じだということがわかった。二人とも大学進学で東京へ出てきて、そのまま東京で就職したということだった。その時はそれで終わったと思っていた。もう4か月前のことだった。ところが先週になって突然彼女から別れを切り出された。どうやら、あの花見のときに高桑さんと連絡先を交換して、俺に内緒でたびたび会っていたらしい。そして、正式に結婚を前提として付き合ってほしいと高桑さんに言われたということだった。俺は彼女を引き留めようと必死に説得したが、彼女の気持ちはすでに高桑さんへ向いていて、どうすることもできなかった。彼女を花見に連れて行かなければ良かったと、俺は後悔した。そんな状況で会社に居続けるのは辛すぎるので、俺は会社を辞めた。彼女と仕事の両方をいっぺんになくしたということだ。事情を知ったお袋が、しばらく田舎でのんびり過ごしなさいといって、祖母に連絡してくれて、逃げるようにこっちにきたというわけだ。俺はしばらくはこっちにいるつもりで、住民票も移し、失業保険に関してもこちらのハローワークに通うようにした。

お袋の旧姓は永島で、祖母は永島澄子という。祖母は戦時中に生まれ、子供の頃は貧しい生活をしていたということだった。それでも曾祖父は、これからは女性も社会に出て強く生きなければならないと言って、教師になることを勧めてくれたということだ。祖母は厳しい教師だったと自分で言っているが、お袋に聞くと家には卒業生がよく遊びに来てくれていたというので、生徒からは慕われていたのだろう。祖母は華道のお免状も茶道の許状も持っており、教員を退職してからは近所の人に教えていたらしい。今の若い人はお花もお茶も習おうという人はほとんどいないらしく、現在は裏庭に畑を作り、もっぱら野菜を育てるのを楽しみにしているようだ。


若松千里さんは、週に3回はうちに来て祖母と1時間か1時間半くらい話して帰っていく。その表情からすると、何か悩みがあるといった感じではない。この前祖母が言っていたように、ここに来て祖母と話すことによって気が休まるということなのだろう。

どうしても気になった俺は、祖母に若松さんはどういう事情があるのか聞いてみた。すると、俺なんかの事情より、はるかにつらい事情を抱えていた。

千里さんは大阪の大学に進学し、大阪で就職したそうだ。そこで知り合ったのが遠藤学さんという人だった。学さんと結婚した千里さんは仕事をやめ、専業主婦になった。すぐに一人娘の楓ちゃんという子供ができた。楓ちゃんが4歳のとき、千里さんは高校の同級生の結婚式に出席するため帰省することになった。学さんが楓ちゃんの面倒はみるというので、楓ちゃんはおいて一人で帰ったということだ。結婚式が終わって、その夜は実家で過ごしていたら、警察から電話があった。大阪の家が火事になったということだった。学さんには連絡がとれないという。あわてて学さんに電話したが、やはり電話はつながらない。夜も遅いので電車で帰るのは無理ということで、千里さんのお父さんが車を運転し、夜通し走って明け方に着いたときには、すでにすべては終わっていた。家は半焼だったが、学さんと楓ちゃんは一酸化炭素中毒で亡くなったということだ。学さんは楓ちゃんを腕に抱いたまま、玄関に向かう廊下で倒れていたらしい。火元は隣家で、隣家は全焼していた。

独り残された千里さんは、茫然自失で何もできる状態ではなく、その後の処理はすべて学さんのご両親が行った。葬儀の喪主も学さんのお父さんがつとめ、片付けが終わってから両家の親が相談し、千里さんは実家で引き取るということになったそうだ。実家に戻った千里さんは、一日中ボーと過ごし、何もしない日々が続いた。実家にはお兄さんの家族も住んでいたが、事情が事情だけに、お兄さん夫婦は何もしない千里さんに何か言うこともなかった。半年ほど経った頃に、千里さんのお母さんが祖母のところに相談にきて、祖母が何回か家に出向いて千里さんと話をしているうちに、少しずつ千里さんは生気を取り戻してきたらしい。実家に戻って1年ほど経つと、外出もできるようになり、お母さんと一緒に買い物にも行くようになった。その頃から祖母が若松家へ出向くのではなく、千里さんがうちに来て祖母と話すようになったということだ。千里さんは旦那さんが亡くなったあとも遠藤という苗字を名乗り続けていたそうだが、祖母が「これから新しい人生を歩むのだから、学さんと楓ちゃんのことは心の中に仕舞って、苗字を若松に戻しなさい」とアドバイスをして、千里さんは役所に復氏届を出して、若松姓に戻した。夫婦の一方が亡くなった場合は、残された配偶者は何年後であろうが、いつでも婚姻前の氏に復することができるということだった。千里さんは今年33歳だという。家族を亡くしたのは5年前のことだ。現在は近所のお惣菜屋で、パートで働いているということだった。


「お婆ちゃん、千里さんに比べたら、俺が落ち込んでいた事情なんて、大した事ではないなと思えてきたよ」

「そうかい?お前がそう思えるのなら、それでいいけどね。ただ、心の傷の痛さの度合いは、本人しかわからないからね。指の先に小さな棘が刺さっただけでも、本人からすれば本当に痛いものさ。それを他人様が、そんなの痛くないよと言ったって、本人からすれば痛いものは痛いんだ。どんなに大きな心の傷だって、すぐに治る人もいる。小さな小さな、他の人から見れば、取るに足らない小さな心の傷も、ずっと治らない人もいる。英明は、他人様の心の傷と比べなくていいから、自分の心の傷がもう痛まないようにゆっくり治せばいいからね」

お婆ちゃんの言葉は心に沁みる。千里さんもそうやって少しずつ立ち直ってきたのだろうなと思った。


千里さんは仕事帰りに、自分が働いている総菜屋の料理を持ってきてくれることが度々あった。その日も総菜を持ってきてくれた千里さんに、なぜかお婆ちゃんが夕飯の支度を頼んだ。

「千里さん、申し訳ないけど、今日は私調子が良くないから、夕飯の支度を頼んでいいかい?材料はすべて冷蔵庫に入っているから」

お婆ちゃんが指示した料理は鶏のから揚げと野菜炒めだった。どちらも火を使う料理だ。千里さんの顔が一瞬ひきつった。千里さんは火事の現場を見たわけではないが、あの事故以来、火を見ると息苦しくなると言っていた。そのため若松の実家ではすべてIHコンロに替えたということだった。パート先でも店頭で接客だけをし、厨房には一切入らないようにしているということだった。しかし、うちのコンロはガスコンロだ。

「うちはガスコンロだけど、大丈夫かい?」

お婆ちゃんが優しく聞いた。

「大丈夫です」

千里さんが気丈に返事をした。

「英明、そばについて手伝ってあげな」

俺はお婆ちゃんの意図がわかったので、立ち上がった。

台所へ行き、冷蔵庫から材料を取り出す。鶏肉はすでに下味をつけ、あとは油で揚げるだけにしてある。さきに野菜を刻む。キャベツと人参、ピーマンと次々に刻んでボールに入れる。そしてから揚げの付け合わせ用にキャベツを千切りにする。

先にから揚げを作ることにしたが、お婆ちゃんと二人で食べるには量が多いような気がする。そう思っていると、奥からお婆ちゃんが「千里さんも一緒に食べていきなさい」と声がした。お婆ちゃんは今日千里さんが来ることを知って、最初から3人分用意していたのだ。

コンロに油を注いだ天ぷら鍋を乗せたが、千里さんはまだ火がついていないコンロの前でジッとしている。

「大丈夫ですか?」

俺が声をかけると、かすかに頷く。

「僕が火をつけますね」

俺はそう言ってコンロに火をつけた。千里さんが一瞬ビクッとする。俺は優しく両手を千里さんの肩に置いた。千里さんが深呼吸をするように、フーと息を吐いた。油の温度が上がったところで、鶏肉を入れようと、菜箸で鶏肉をつまもうとするが、なかなかつまめない。

「大丈夫ですよ。僕がここについていますから」

千里さんがもう一度大きく息を吐いてやっと鶏肉をつまんで鍋に入れる。ジューと音がする。続けて2つ目、3つ目と鶏肉を入れていく。もう大丈夫だろう。俺は揚がった鶏肉を3つの皿に分けていく。から揚げが終わったので、俺は天ぷら鍋をどかして今度はフライパンをコンロに乗せた。俺が野菜炒めの皿を準備していると、千里さんがこちらを見た。

「英明さん、そばにいてもらえますか?」

心細そうな目で俺を見ていた。

「いいですよ。そばにいますから、今度は千里さんが火をつけてみましょうか」

俺はそう言って、もう一度両手を千里さんの肩に置いた。千里さんがガチャっとコンロをつけた。また大きく息をはく。

「もう大丈夫ですかね?」

「ええ、もう大丈夫です」

千里さんが野菜を炒める軽快な音を聞きながら、俺は皿の準備をした。

3人で食卓を囲んで食べていると、お婆ちゃんが優しい声で千里さんに言った。

「おいしいね。ちゃんと料理できたね」

その言葉に千里さんはニコッと笑った。

「英明さんがそばにいてくれたから大丈夫でした」

「そうかい。こんな男でも役に立ったかい」

「こんな男で悪かったな」

「でも、今日のことで、私、また一歩前に進めたような気がします」

「一歩ずつ、ゆっくりでいいからね」

お婆ちゃんが優しい目でそう言って、から揚げを頬張った。


食後、お婆ちゃんが千里さんを送ってあげなさいというので、俺は千里さんを家まで送ることにした。千里さんの家は徒歩で15分くらいのところだ。田舎なので街灯も少なく、夜道は暗い。

「澄子おばさんって、素敵な女性ですよね」

「そうですか?」

「英明さんは自分のお婆ちゃんだからわからないのだと思いますけど、本当に素敵な人です。私、年をとったらあんなお婆ちゃんになりたい」

「そう言ってもらえると、孫としてうれしいです」

「英明さんは、いつまでこちらにいらっしゃるのですか?」

「まだ決めていません。失業保険も終わったので、多少の蓄えはあるといっても、そろそろ仕事をしなければならないと思っているのですけど、もう一度東京に戻る勇気がなかなかなくて」

「こっちで働けばいいじゃないですか」

「そうですね。そういう選択肢もありますね。お婆ちゃんのことも心配ですし、僕がこっちに住めばお袋も安心するとは思いますけど」

「澄子おばさんのことは心配ないですよ。英明さんがいなくても私が面倒をみますから。英明さんが東京へ戻るなら、私が澄子おばさんと一緒に住んでもいいと思っていますから」

「そうなんですか?」

「私もいつまでも実家にいるわけにはいきませんからね。あそこは、いずれは兄の家になりますから」

そうか、実家といっても、お兄さんの家族がいる以上は、居候のような立場なんだ。


その日以来、千里さんは夕飯をうちで食べることが多くなった。その時は必ず千里さんが料理を作った。もうガスコンロの前に立っても大丈夫だとは思うが、千里さんは俺にそばについていてほしいと頼んでくる。俺は一緒に料理をすることが楽しくて喜んでつきあった。

最初のうちは食事をしたらすぐに帰っていたのが、食後に一緒にお茶を飲みながら話をするようになり、帰るのがどんどん遅くなっていった。するとお婆ちゃんが「今日はもうここに泊まりなさい」と言って、うちに泊めるようになった。千里さんはお婆ちゃんと同じ家で寝られるのがうれしいようで、遠慮なく泊まるようになった。何回かそういうことが続くと、それからは夕食を一緒に食べるとうちに泊まるのが当たり前になった。


ある日、俺の携帯電話に1本の電話があった。高桑デザイン事務所で働いていた時に俺が担当していた取引先の社長の三上さんだった。俺にデザインを頼みたいという。俺が退職したあと、他の社員が担当したが要望通りのデザインがあがってこないということだった。俺は退職した身だからと断ったが、どうしてもという三上社長に押し切られ引き受けることにした。東京の家からパソコンを取り寄せ、早速作業に取り掛かった。1週間で納品したら、デザイン事務所に支払っていた金額と同額を払うと言って、俺の口座に振り込みがあった。以前もらっていた給与の半分以上の金額だった。その社長から再び電話があり、他の案件の依頼があった。俺は喜んで引き受けた。助かる。これでもう少しのんびりできると思った。


千里さんはうちに泊まるときは、お婆ちゃんと一緒に風呂に入るようになった。昔ながらの田舎の風呂なので、風呂場は広い。浴室の前を通ると二人で楽しそうな声が聞こえる。お婆ちゃんも喜んでいるようだ。

お婆ちゃんは冗談交じりに「お前ら二人が結婚して、一緒にここに住めばいいじゃないか」と笑いながら言う。俺はまんざらでもなかったが、千里さんはどう思っているのだろう。ただ俺の場合、ここに住むとして、仕事をどうするのかという問題はあった。

その日も千里さんはお婆ちゃんと一緒に風呂に入っていた。俺はさっきまで3人で飲んでいた麦茶のグラスを洗っていた。すると、突然風呂場でゴンっという音がして、千里さんの悲鳴が聞こえた。

「英明さん、英明さん、助けて、早く!」

俺は風呂場のドアの前で千里さんに声をかけた。

「どうしました?」

「澄子おばさんが、早く助けて」

「じゃあ、今バスタオルを渡しますから、巻いてもらえますか?」

「そんなのはいいから、早く入ってきて助けて!」

そんなのはいいと言われても、お婆ちゃんはともかく、千里さんも裸なのだから、俺が入って大丈夫か?と思いながらも千里さんの切羽詰まった声に押されるようにドアを開けた。すると、浴槽の外から浴槽に浸かっている婆ちゃんの体を支えている千里さんの真っ白い姿が目に入った。中に入っていくと、お婆ちゃんは気を失っているようだ。

「どうしたんですか?」

「浴槽に入ろうとして、足を滑らせたのか、よろめいたのか、縁に頭をぶつけて気を失ったの」

これは大変だ。俺は迷わず浴槽の中に入って、お婆ちゃんを抱き起した。意外に重い。一人で運ぶ自信がなかった。

「僕が頭の方を持ちますので、千里さんは足を持ってもらえますか?」

そうやって二人でお婆ちゃんを浴槽からあげ、居間まで運ぶ。千里さんは素っ裸のままだ。居間の畳に寝かせ、俺は119番に電話して救急車を呼ぶ。俺が電話している間、千里さんは泣きながらお婆ちゃんの体をバスタオルで拭いていた。119番の電話が終わって千里さんを見ると、お婆ちゃんに下着をつけているところだった。

「千里さん、あとは僕がやりますから、千里さんはとりあえず何か着てください」

俺がそう言って、千里さんは自分がまだ裸のままだったことに気づいたようで、慌てて風呂場へ走って行った。


お婆ちゃんは病院で検査をしてもらったが、後頭部にタンコブが出来た程度で、脳に異常はなかった。俺たちはホッと胸を撫でおろした。念のためお婆ちゃんは一晩入院することにし、俺たちは家に帰った。

「澄子おばさんに何かあったらどうしようかと思った」

千里さんが疲れ切った声で言った。

「以前言っていた、千里さんがここに住むという話、ちょっと真剣に考えてもいいかなと思ってきました」

「英明さんは、東京に戻るのですか?」

「僕はデザインしかできないので、その道で食べていこうと思うと、そういう会社は東京じゃないと難しいかなと思うんです」

「こっちにはそういう会社はないのですか?」

「ないこともないでしょうけど、僕のデザインが受け入れられるかどうか」

「できたら、英明さんも含めた3人で暮らす方がいいなと思ったのですが」

「それはお婆ちゃんがよく言っている俺たちが結婚してということですか?」

「結婚まではまだ考えていませんけど、今日のようなことがあると、やっぱり家の中に男の人がいた方がいいなと思うし、何より、英明さんがそばにいると、私落ち着くんです。ガスコンロの前に立ったときもそうですけど、英明さんがそばにいてくれるというだけで、とても気持ちが穏やかなんです」

「仮に僕がこっちで仕事をみつけたとして、3人で住むようになったら、僕も男ですから、千里さんのことを女として見るようになりますけど、千里さんはそれを受け入れられますか?」

「それは、私が英明さんに抱かれることができるのかと聞いているのですか?」

「そうです」

「わからないです。まだ亡くなった夫のことを愛していることに変わりはありません。でも、亡くなった夫はもう私を抱きしめてくれません。私も女としての欲求はあります。実際に英明さんに触れられたときに、私がどういうふうに反応するのか、その時になってみないとわからないです」

確かにそうだろう。かといって、俺自身がここで仕事を見つけるという決心がまだついていない段階で、今試してみようとは、さすがに言えなかった。


それから1週間くらいしてからのことだった。俺の携帯に電話が入った。高桑さんからだった。

「もしもし?」

「高杉、お前、三上さんところの仕事を請け負ったらしいな。三上さんの会社はうちのトップクラスのお得意さんだということはお前が一番よく知っているだろ?どういうつもりなんだ?辞めた会社の顧客を横取りするなんて、仁義にかけているんじゃないか?」

「あれは三上さんの方から僕に依頼してきたんです。別に僕は顧客を取ろうとは思っていませんでしたよ」

「いくら三上さんが言ってきても、それを断るのが道理だろ?違うか?」

「じゃあ、部下の彼女を奪うのはいいんですか?それこそ道理に外れているんじゃないですか?仮に彼女の方から言い寄ってきたとしても、それを断るのが道理というものじゃないですか?その件と、三上さんの件と、何が違うんですか?恋愛は自由だというなら、ビジネス社会における競争の方が、もっと自由でしょう?」

俺がそこまで言うと、高桑さんは電話を切った。

そうか、もう高桑さんに遠慮する必要はないんだ。高桑さんが社用携帯を支給してくれなかったおかげで、この携帯電話には今まで俺が担当した取引先の電話番号がギッシリ詰まっている。三上社長と同じように俺のデザインを気に入ってくれている顧客がたくさんいるはずだ。俺はここにいても、パソコンさえあれば、十分仕事ができるかもしれない。俺は、早速携帯に入っている電話番号に片っ端から電話をかけまくった。


千里さんが泊まりに来た日、千里さんが与えられた寝室に入ったのを見届けて、襖の外から声をかけた。

「千里さん、ちょっと入っていいですか?」

「どうしたのですか?いいですよ」

俺はこの数日のことを話し、この地で個人事業主としてやっていこうと思うと告げた。千里さんが驚いた眼で俺を見る。

「そこで、この前言っていたことですが・・・」

「3人で住むとしたら、私が英明さんを受け入れられるかということですね?」

「ええ、千里さんはその時になってみないと、どう反応するかわからないと言っていました。だから、一度試してみませんか?それでどうしてもダメだったら、僕は東京に戻ることにします」

千里さんが真剣な目で俺を見た。そして、黙って頷いた。

俺は、ゆっくり千里さんを抱きしめ布団に寝かせると、「大丈夫ですか?」とその都度確認しながら進めていった。そして、最後は千里さんの方から進んでひとつになった。

「私、英明さんを受け入れられて、本当によかった。ずっと前からこうなりたいと思っていた。でもガスコンロの時のように体が拒絶したらどうしようと不安だった」

「そうだったのですね。亡くなった旦那さんのことを、これからも忘れる必要はないです。でも、こうしている間だけは、僕のことだけを思ってください」

俺がそう言うと、千里さんは俺にしがみついてきた。


俺は、亡くなった旦那さんには一生勝てないだろう。それでもいい。千里さんの心の傷跡は一生消えなくても、俺がそばにいることで、その痛みだけでも取り除いてあげられるなら、俺は一生千里さんを優しく抱いてあげたい。何よりも、千里さんのおかげで、俺の心の傷は痛みも消え、傷跡すら残っていない。そんな千里さんを大切にしないわけにはいかない。

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