なかよしルームへようこそ!

『余白の庭』で橘さんに全てを告白したあの夜から数日が過ぎた。私の心は嵐が過ぎ去った後の空のように静かでそしてどこまでも澄み渡っていた。長い間私を縛り付けていた呪いは確かに解けたのだ。彼とそして大切な仲間たちの愛によって。


そんなある週末の夜、私は再び橘さんの部屋を訪れていた。以前のような気負いや不安はない。ただ愛する人の隣にいられるという穏やかで温かい幸福感が私の心を満たしていた。私たちは他愛もない話をしながら彼が作ってくれた美味しいパスタを食べ、少しだけ良いワインを飲んだ。その何気ない全ての時間がかけがえのない宝物のようにキラキラと輝いて見えた。


食事が終わりソファで寄り添っていた時、橘さんはおもむろに立ち上がると寝室から一つの小さな箱を持ってきた。その形を見た瞬間私の心臓が一瞬だけ小さく跳ねたが、それは恐怖の動悸ではなかった。


彼がテーブルの上にそっと置いたのは私が知っているあの無機質な箱ではなかった。それは彼自身がデザインしたという美しいオリジナルのパッケージだった。淡い水彩画のようなタッチで描かれているのは、固いアスファルトの隙間を突き破って可憐な花を咲かせている一輪のタンポポの絵。そしてその傍らには小さな文字でこう記されていた。

『For our precious garden(私たちの、大切な庭のために)』


「……これは」

「君を傷つけるものじゃない」

橘さんは私の手を優しく握りしめながら言った。

「僕たちのたいせつな時間を、未来を、優しく守ってくれるお守りだよ。君が教えてくれたんだ。どんな場所にも花は咲くって。このタンポポみたいにね」


彼の言葉が温かい光となって私の心の一番深い場所に降り注ぐ。呪いの象徴は今この瞬間、祝福のお守りへとその意味を変えたのだ。私は涙が溢れそうになるのをこらえながらこくりと頷いた。そして自らの手でその美しい箱をそっと開けた。もう何も怖くはなかった。


その夜私たちは初めて一つになった。

寝室の間接照明が彼の肌を私の肌を柔らかく照らし出す。彼の腕の中で私は生まれて初めて本当の安心感というものを知った。そこには羞恥も罪悪感も何一つなかった。ただ二つの魂が裸のまま寄り添い互いの温もりを確かめ合う至福の時間だけが存在していた。


彼の指が私の髪を、頬を、そして唇を、慈しむように辿っていく。その優しい手つきの一つ一つが私の心の傷跡をゆっくりと癒していくのがわかった。

「綺麗だよ、眠夢」

彼が掠れた声で囁く。

その言葉はどんな甘い愛の言葉よりも私の心を震わせた。中学時代の教室で下卑た好奇の目に晒されていた私。笑いものだった私。そんな私を彼は世界で一番美しいもののように見つめてくれる。


彼の唇が私の唇に触れる。最初は羽のように優しく、そして次第に深く熱を帯びていく。彼の匂いが私を包み込む。それは彼がいつも使っている柑橘系の爽やかなコロンの香りと、彼自身の温かい肌の匂いが混じり合った、世界で一つだけの安心する香りだった。


肌と肌が触れ合うたびに私の心の庭に優しい春の雨が降り注ぐようだった。乾ききっていた大地が潤いを取り戻し、固く閉ざされていた蕾がゆっくりとほころび始める。彼の温もりが私の内側から冷たい氷を溶かしていく。それはただの肉体的な快感ではなかった。魂が魂と触れ合い共鳴しそして一つに溶け合っていくような神聖な感覚。私がなかよしルームで見守ってきたどんな愛の形よりも深くそして尊い奇跡が今ここで起きている。


彼が私の中に入ってきた時、私は痛みではなく満たされる感覚に包まれた。空っぽだった私の心が彼の大きな愛情で満たされていく。彼の吐息が私の耳元で熱く響く。「……ん……眠夢……」私の名前を何度も何度も呼ぶその声。それはかつて私を傷つけたあの忌まわしいあだ名とは似ても似つかない、甘く優しい響きを持っていた。近藤眠夢。これが私の本当の名前。彼が呼んでくれる愛しい名前。


私たちは一つになり深く深く繋がった。その温かい繋がりの中で私は全てを受け入れることができた。傷ついた過去も弱くて不器用な自分も全て。これでいいんだ。これが私なんだ。そう心から思えた。それは私の魂の再生の瞬間だった。



季節は夏から秋へと移り変わっていた。私と橘さんの関係は穏やかにそして深く続いていた。あの夜以来私のトラウマが顔を出すことは二度となかった。それどころか私は自分の過去を受け入れそれを自分の一部として愛せるようにさえなっていた。


そんなある夜のこと。彼の部屋でいつものように寄り添いながら映画を見ていた時、彼がふと私の耳元で囁いた。

「……眠夢。今日はどうする?」

その問いの意味を理解した私は少しだけはにかみながらも、彼の目をまっすぐに見つめ返してはっきりと答えた。


「……今日は、いらない」


その一言は私にとって完全な解放の宣言だった。コンドームが「不要な時もある」。それは二人の間に絶対的な信頼関係が築かれた証。守られる安心感を知ったからこそ守られなくても大丈夫だと心から思える。私はもう過去の亡霊に怯える弱い少女ではない。愛する人と直に触れ合うことの悦びを全身で受け止められる一人の女性になったのだ。

橘さんは一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて全てを理解したように深くそして優しく微笑むと私を強く抱きしめた。


その夜の愛は以前とはまた違う次元の違うものだった。

私たちの間にはもう何もなかった。物理的な隔たりも心理的な壁も。彼の肌が私の肌に直接触れる。そのありのままの温もりが私の全身の細胞の一つ一つに染み渡っていく。それは薄い膜一枚を隔てていただけなのに、まるで全く違う世界のようだった。彼の鼓動が私の胸に直接響く。私の吐息が彼の肌に溶けていく。私たちは完全に一つだった。


彼がゆっくりと私の中に入ってくる。その感覚はあまりにも鮮烈でそして温かかった。彼の生命の熱が私の奥深くに直接注ぎ込まれる。それはただの熱じゃない。温かい生命の息吹そのものだった。私の腹の底で小さな柔らかな光が灯るような不思議な感覚。それは新しい命の予感というより、私自身の死んでいた心が再び息を吹き返した証のようだった。

守られるのではなく受け入れる悦び。与えられるのではなく分かち合う幸福。私は彼の中で何度も生まれ変わっていく。


「……あっ……蒼太、さん……」

吐息と共に彼の名前が漏れる。私の声に応えるように彼の動きが深くなる。

「……眠夢……好きだ……」

彼の掠れた声が私の魂に直接響いた。私たちは汗と涙とそして言い尽くせないほどの愛情の中でただお互いを抱きしめ続けた。クライマックスが訪れた時、私の視界は真っ白な光に包まれた。それは快感の絶頂であると同時に魂の完全な救済だった。



なかよしルームは大きな変革の時を迎えていた。私が室長を務める『心の庭』部門はそのユニークなコンサルティング手法が口コミで評判を呼び予約が殺到していた。私が立ち上げた『アフターケア・プログラム』も多くの元顧客たちの心の支えとなり、なかよしルームの社会的信用を大きく高めることに貢献していた。


そんなある日の午後、ママが珍しく全スタッフをコントロールームに召集した。その顔はいつになく晴れやかだった。


「あんたたち」

ママは全員の顔をゆっくりと見回すと満足そうに言った。

「随分と立派になったじゃないの。もう私がガミガミ言わなくても自分の頭で考えて動けるプロの集団になったわね」

彼女は宮野さんの肩を叩いた。

「結。あんたは自分の弱さを乗り越えて本当の強さを手に入れたわ。最高の交渉人よ」

次に蛇田さんを見た。

「蛇田。あんたはその沈黙の中に誰よりも熱い正義を宿している。この場所の最高の守護者よ」

そして最後に私の前に立った。

「そして眠夢。……あんたは最高の庭師になったわね」


ママはそこで一度言葉を切ると高らかに宣言した。

「だから私も卒業するわ。本日付でこのなかよしルームの現場責任者を引退し経営に専念します」


突然の宣言に私たちは息を呑んだ。

「ママ……!」


「そして」

ママは私の両肩をがっしりと掴んだ。

「私の後任としてこの現場の総責任者に近藤眠夢、あんたを任命するわ」

「……ええっ!?」

「室長じゃ物足りないでしょ。あんたにはこの奇妙で愛おしい庭の全てを任せる。宮野はその右腕としてあんたを支えなさい。蛇田はこれからも変わらずこの場所を守り続けること。……いいわね?」


それはあまりにも大きな抜擢だった。でも私の心に不安はなかった。この仲間たちがいてくれるならきっと大丈夫だ。私は涙をこらえながら深く深く頭を下げた。

「……はい。謹んでお受けいたします」



――それから一年後。


コントロールームの空気は相変わらず賑やかでそして活気に満ちていた。総責任者という肩書きにもすっかり慣れた私は、モニターの前で新人のスタッフに指示を出していた。

「大丈夫。焦らなくていいわ。見るんじゃなくて『感じる』の。あなたの心の庭で、お客様の声を聞いてあげて」


その私の傍らには新しいルームのデザインの打ち合わせに来ていた橘さんが立っていた。彼は私の仕事ぶりを優しい目で見守っている。私たちの関係は順調だ。来年の春には二人だけの小さな庭を持つ約束をしている。


「なかよしルームへようこそ!」

私は不安そうな顔をしている新人に微笑みかけた。

「ここはちょっと変わった職場だけど……」


――人生でいちばん人間を好きになれる場所よ。


私の就職先は“変な部屋”でした。でもそこで私は最高の仲間と生涯のパートナー、そして自分自身の本当の居場所を見つけました。私の心の庭には今日もたくさんの愛と希望の花が咲き誇っている。


(了)

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「なかよし」〜コンドームちゃんと奇妙な職場〜 片山アツシ @b04032

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