夜の片隅で息する魚
文鳥
夜の片隅で息する魚
だんだん夜が溶けていく。廃ビルの屋上に二人並んでフェンスに体重を預ける。自分の腕を枕にして眠らない町が寝息を立てるのを見下ろしていた。私と彼の脱色の繰り返しで痛みきった金髪が揺れる。涼しい風が怠さの残る身体に心地いい。カチカチと聞こえた音に視線を向けると彼が煙草に火をつけていた。整った顔がライターの火で照らされて暗がりに赤く浮き彫りになってはまた闇に沈む。一瞬見えたのは緑色をしたKOOLの箱。 甘そうな顔とは裏腹に辛いミントが好みらしい。
「火、頂戴」
着慣れた青いパーカーのポケットから煙草を取り出して咥える。銘柄はいつものマルボロ。
「ん」
彼は煙草を持つと灰を落として、私が咥えている煙草にくっつけた。じわじわと赤い熱が移るのを待って、息を吸い、薄暗い空に細く白い煙を吐く。銘柄は同じはずなのにいつもと少し味が違うような気がして眉をひそめた。
「なにこれまっず」
「あ、やっぱり?」
へらりと笑うそいつをジトリと睨む。頼んだのはこっちだけど、わかってやりやがったなこのクズ。まあ私もたいがいだけど。
「んーなんでか知らんけどシガーキスすると不味くなるんだよね」
くっつけるだけでもダメか。そう言って彼は煙草をコンクリートの床に落とすと靴裏で踏みにじった。
「生きづらい世の中になったよなあ。屋上に灰皿の一つもありゃしない」
「そんなのもう今更じゃん。じゃなきゃ私らみたいなので溢れかえっちゃう」
「ははっそれなんて地獄?」
「まあ灰皿を撤去してポイ捨てされてちゃわけないけどね」
「それはそう」
「ていうかこっちはあんたが灰皿持ってると思ったから吸ったんですけど」
「仕方ないじゃん。吸いたくなったんだから」
その気持ちは少しわかる。私たちみたいな生き物は夜が薄れていくにつれて息がしづらくなっていく。薄闇の代わりに紫煙を纏って、酸素の代わりに毒を吸って静かに息をしている。
「火ぃつけたくせに消させてくれないんだ?」
「ねだったのはそっちでしょ」
私の顔は見えているはずなのに、煙草を捨てたそいつの表情は暗がりにぼやけて窺えない。しばらくそのままぼんやりしていると、白みだした空の方を眺めていた彼の瞳に光が差し込んだ。
「夜明けだ」
雑踏の中をポケットに手を突っ込んだまま歩く。それなりに目立つ自覚のある髪色も人と色の氾濫の中ではただの一部分でしかない。信号が変わるのを待ちながら、そろそろ染め直さなきゃなと髪を一房指に巻く。そんな時、横断歩道の先に見慣れた金髪を見つけた。その男の隣には痛み一つない黒髪の女がいて、隣に立つ男に屈託のない笑みを向けていた。
ああでも。
「・・・・・・人違いだな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。だってあの男はあんな風に笑わない。私たちみたいな生き物は陽だまりの中では息ができない。最初に声をかけたのはどちらだったか。ただ同族なのだと同じ色の髪を見て漠然と思ったことだけは覚えている。見掛け倒しの天蓋付きベッドがわざとらしく軋む音と、全部吹き飛ばして馬鹿になるくらいの快感と酩酊だけが関係の全て。恋とか愛とかそんな可愛いものではないと二人とも最初から知っていた。夜の底みたいな目をした獣が二匹、舌の代わりに熱と水音で傷を舐めあっていただけだった。甘い言葉なんてものとは無縁だったけれど、毛繕いするように時折互いに髪を手櫛で梳くのは嫌いではなかった。あいつの冷たい手は心地よかった。信号が青に変わり、人の群れが横断歩道に踏み出していく。振り返ることはしなかった。
人波に紛れながら思う。人と同じテンポで生きていけない生き物の中でも私は獣ではなく魚だったのかもしれない。獣であれば、息がしにくくてもいずれは人と歩むことも出来るだろうに、私はいつまでたっても夜の片隅でしか息ができない。宵闇色の水溜まりから抜け出せない。道路を渡ってすぐのコンビニに入り、レジの店員に声をかける。
「××番で」
「はい、こちらでよろしいですか?」
店員が手に取ったのはいつものマルボロとは似ても似つかない緑の箱。
「はい」
「五百八十円になります」
「これで」
パーカーのポケットから小銭を出してジャラジャラと受け皿に置いた。
テープだけ貼ってもらった煙草を持って店を出る。ぶらぶらと少し歩いて細い路地に入り、小銭が入っているのとは反対のポケットからいつも入れっぱなしのライターを取り出す。箱から一本取り出して咥え、火をつけた。煙を深く吸い込んで瞼を閉じる。
「ねえ、煙草って一本吸うごとに寿命が五分縮まるんだって」
「マジ?」
「さあ」
「それが本当だとしたら、俺らは自殺志願者ってことになるな」
「どっちも吸っててよかったね。副流煙のがやばいんでしょ。殺人になっちゃう」
「たしかに」
「一人なら自殺。片方なら殺人。両方なら何だろ」
「・・・・・・あれじゃない」
「何?」
「心中」
「あー」
「する?」
「は、何、心中を?」
「うん。いーよ、俺はお前と心中しても」
踏みつぶされた吸い殻を覚えている。最期まで共にと謳ったその口で、いつもなら「またね」とほざくその声で、ひっそりと差し出された最後を覚えている。
「バイバイ」
目を開いて建物の狭間でぷかりと白い煙を吐き出すとまるで水面を見上げているみたいだった。酒に煙草、それから自分。いつだって救いようのないものばかりを愛してしまう。携帯の中に入っていたはずの番号はいつのまにか繋がらなくなっていた。いつもと同じあっけない終わり方。まあ後腐れないのが利点の関係としてはきっと最適解に近いのだろう。
「……辛」
初めて吸うKOOLは私には辛すぎる。目の奥がツンとして視界がジワリとにじむのは、繰り返してきた出会いと別れのなかで交わされた刹那の戯言が脳裏をよぎったのは、いつもと違うミントのせいだ。咥えるのはやめて、指先で弄ぶ。ああやっぱり私には、マルボロくらいが丁度いい。
夜の片隅で息する魚 文鳥 @ayatori5101
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