剣を捨てた朝に
楡音えるにれ・-・
「おはよう」
1
空はどこまでも灰色だ。
鉛色の分厚い雲が地平線まで広がり、その下を冷たい風が吹き抜ける。雨も風も、つい先日まで吹き荒れていた戦の名残を運び去るかのように音を立てて過ぎていく。
大地にはまだ、焦げ付いたような土の底から染み出るような戦の匂いが染みついていた。鉄錆と血、硝煙の刺すような匂い。そして、まとわりつくような死臭。
それらは鼻腔に深く焼き付き、どれほど雨に洗われようとも消えることはなかった。
ひとりの少女が歩いている。足元は泥にまみれ、破れた布きれのようなものを身に纏っていた。
それは兵装と呼ぶにはあまりに粗末で、寒さを凌ぐだけのものだった。幾度となく切り裂かれ血と土に塗れたそれは、もはや本来の色を失いただの灰色の塊と化している。
腰には使い古された剣。磨かれることもなく、柄には幾度となく握りしめられた跡が生々しく残り、刃こぼれが痛々しく光を反射していた。
少女には、名がなかった。
ただ「No.4」と呼ばれるだけだった。あるいは「実験体」「兵器」「道具」――彼女をそう呼ぶ声はいつも感情のない、冷たい響きを帯びていた。
少女にとって戦うことだけが役目だった。生まれた時から与えられた、唯一の使命。
命令は絶対であり、そこに感情は不要。痛みも恐怖も、喜びも悲しみも許されなかった。それらはすべて効率的に敵を排除するための障害であり、排除すべきものだ。
だから彼女は感情を持たない。
感情の代わりに、ただ命令を遂行するための思考だけがあった。正確に剣を振り、敵の急所を突き、自身を守る。それ以外のあらゆる要素はノイズでしかなかった。
仲間と呼べる存在もいなかった。いたのは、同じように数字で呼ばれる「道具」たちだけだ。
彼らと交わす言葉は作戦の確認か、状況報告のみ。
夜闇の中で耳を
血と硝煙が混じり合う空気の中で彼女の五感はただ、敵の存在と自身の生存に必要な情報だけを貪欲に吸収していた。
戦が終わった日、「もう不要だ」と彼女は告げられた。
役目を終えた機械のように何の労いもなく、何の惜しみもなくあっさりと捨てられた。
どこへ行けとも言われず何をするべきかも示されないまま、彼女は荒廃した大地に置き去りにされた。まるで、最初からそこにいなかったかのように。
彼女の人生は何のためにあったのだろうか。
そんな疑問すら浮かばないほど、少女の心は空っぽだった。
ただ目の前の荒野を目的もなく歩き続けることだけが、彼女に残された行動だった。
何日、いや何週間だっただろうか。
明確な日数の感覚はなかった。ただ空腹と疲労、そして絶え間なく続く虚無感だけが彼女を支配していた。食料を探し、身を隠せる場所を見つけ、ただ生き永らえるためだけに歩き続けた。
雨が降れば泥水をすすり、夜は倒木の下で身を丸めた。冷たい雨が容赦なく降り注ぎ飢えが胃を掴んで締め付ける。身体は限界を訴えていたが、彼女の足は止まることを知らなかった。
止まれば、死。それだけは命令されずとも、彼女の身体に深く刻み込まれた本能だったから。
やがて意識が朦朧としてくる頃、少女は深い森を抜けて小さな村の入り口にたどり着いた。
森の木々は穏やかな緑を湛え、遠くから子供たちの笑い声が聞こえる。これまで見てきた荒廃した風景とはあまりに異なるその光景は、少女の意識をさらに混濁させた。
最後に足を乗せたのは、舗装されていないが歩き慣らされた柔らかな土の道。
そこからは土と草、そしてかすかに甘い花の香りがした。
最後の力を振り絞って農道の脇まで進んだところで、彼女の身体は限界を迎えた。
泥にまみれ飢えと疲労で意識が遠のく中、少女は地面に倒れ込む。土の匂いは戦場のそれとは異なり、どこか懐かしいような温かい匂いがした。
2
次に目を開けた時、視界に映ったのは見慣れない藁葺きの天井だった。
微かに揺れる天井の影が、ぼんやりとした意識の中でゆっくりと形をなしていく。身体には乾いた布がかけられ、柔らかな毛布の触れる感触があった。汚れはある程度拭かれたようで、随分とすっきりしていた。
どこからか聞こえてくる薪のはぜる優しい音と鼻腔をくすぐる温かいスープの香りが、記憶のどこにもない「安らぎ」を訴えかけてくる。
──知らない匂いだった。
戦場の鉄と血の匂いでもなく、廃墟の埃と腐敗の匂いでもない。
泥と絶望の匂いでもない。温かく、そしてほんのりと甘い、初めての香りだった。
これまで閉じ込められていた五感が、ゆっくりと目覚めていくかのように。
「おや、目が覚めたかい?」
不意に、優しく低い声がした。
少女はゆっくりと顔を声のする方へと向ける。そこにいたのは、節くれだった大きな手を持つ男だった。
彼は髭をたくわえ、目元には優しい皺が刻まれている。その目は警戒の色も嫌悪の色もなく、ただ純粋な心配と慈愛を湛えていた。
男は湯気の立つ木製の碗を少女の目の前にそっと差し出した。
その背後には同じように優しい笑みを浮かべた女性が立っている。ふっくらとした頬は温かく、柔らかな笑みを浮かべていた。
少し離れた場所からは兄と弟のような歳の近い男の子たちが、心配そうに、しかし興味津々といった様子でこちらを見ている。
「……ここは?」
掠れた声で問いかけると、男は優しく答えた。
「うちだよ。おまえさん、ひどい顔して倒れてたからね。よかったらしばらくここにいなさい」
拒否する理由も、選択する余地も少女にはなかった。
差し出された碗の温かさと漂うスープの香りに、抗えないほど惹かれた。
男は碗を彼女の口元に運び、熱くないか確認しながら、ゆっくりとスープを飲ませてくれる。
温かい液体が喉を通り胃に流れ込むと、少女は身体の芯から力が湧いてくるのを感じていた。
それはこれまでの生で経験したことのない、満たされる感覚だった。
3
少女はしばらくの間、その家で過ごすことになった。
両親と二人の息子。裕福ではないが愛と優しさで満ちた、絵本に出てくるような温かい家族。
剣は女性が、怪我をしないよう真新しい布でくるんで家の棚の隅に置いてくれた。触れることは許されたが、少女はそれをじっと見つめているだけ。
そこにあったのはもはや自身の一部ではなく、ただの「物」だ。しかし完全に手放すこともできず、漠然とした不安感だけが心の片隅に張り付いている。
最初の三日間、少女は床に就いていても眠ることができなかった。
夜が来ると身体は警戒態勢に入り、わずかな物音にも反応してしまう。暖炉の薪がはぜる音さえ、遠い爆音の記憶を呼び起こした。
四日目の夜。ようやく浅い眠りについた時、少女は初めて夢を見た。戦場ではない、緑の草原を歩く夢だった。目覚めた時に頬が濡れていることに気づいた。
涙というものを、彼女は初めて知ることになる。
一週間が過ぎる頃、少女の耳は家の音に慣れ始めていた。
朝、台所から聞こえてくる食器の音。それは母が朝食の準備をしている証拠だった。規則正しく響く包丁の音は、野菜を刻んでいる音。香ばしい匂いが漂ってくればパンが焼けた合図。
日中は洗濯物をたたむパタパタという音や、薪を割る乾いた音が響く。庭で遊ぶ子供たちの声は最初騒音のように感じられたが、今では安心できる音になっていた。
夜、家族が食卓を囲む時間。父の低い笑い声、母の優しい相槌、兄弟の楽しそうな話し声。
それらひとつひとつが、少女の中で「家の音」として位置づけられていく。
しかし食事の時間が少女にとって最も困難な時間だった。
家族は皆、自然に言葉を交わす。
「今日のスープも美味しいね」
「ねぇ聞いてよ、今日村でね……」
「父さん、今日の畑仕事は大変だったかい?」
彼らは互いの存在を確かめ合うようにその日の出来事を共有し、感謝や労いを口にする。
少女は黙ったまま食事を続けた。言葉が見つからなかった。何を言えばいいのか、どんな表情をすればいいのか、それらはすべて未知のものだったから。
しかし家族は彼女を急かすことはなかった。ただ微笑みかけ、時折「美味しい?」と優しく声をかけるだけ。少女はただ、問いかけに頷くことしか出来ない。
二週間目のある午後、少女は初めて家の手伝いを申し出た。
母が洗濯物を干している姿を見て、なぜかじっとしていられなくなったのだ。
「何か、手伝えることは」
掠れた声で言うと、母は驚いたような、それでいて嬉しそうな表情を浮かべた。
「ありがとう、ちょうど良かったわ。洗濯物を一緒に干してもらえる?」
最初はぎこちなかった。洗濯物の干し方ひとつとっても、戦術的優位性を考えてしまう。少女にはそれが家事にとって何の役にも立たないことしかわからない。
しかし母は丁寧に教えてくれた。
「こうして挟むと風で飛ばされないのよ」
「お日様の方に向けて干すと、よく乾くの」
そんな何でもない会話が、少女には新鮮だった。
薪を運んだ時、父が「ありがとう」と言った。
洗濯物を畳んだ時、母が「助かるわ」と声をかけた。
そのたび、少女の胸の奥で何かが動いた。小さな泡のようなもの。それは命令を遂行した時の達成感とは全く違う、ほわっとした温かい感覚だった。
三週間目のある夜、少女は初めて家族の会話に参加した。
兄が学校での出来事を話している時、弟が「僕も同じことがあった」と言った。
少女は、なぜか口を開いていた。
「私は、……」
言いかけて、しかし続く言葉が見つからない。彼女の過去に、学校での出来事のような平和な記憶はなかった。
家族は黙って待っていてくれた。そして父が優しく言った。
「今度、何かあったら聞かせておくれ。どんなことでもいいから」
4
ある日の昼下がり、母が庭でハーブを摘んでいた。その指先から清々しい香りが風に乗って運ばれてくる。
少女が手伝っている傍ら、母は唐突に言った。
「ねぇ、あなたに名前をつけてもいいかしら?」
少女は、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「名前……?」
「ええ。No.4なんて、あまりに味気ないもの。あなたはもっと、あなたらしい名前を持つべきよ。この村で新しい人生を始めるのなら、新しい名が必要だわ」
少女は答えることができなかった。
名なんて必要なかった。戦場でただ数字で呼ばれていた彼女にとって、「名前」という概念はあまりにも遠い、未知のもので。
自分が何者なのか、どこから来てどこへ行くのか。
その問いに対する答えが名前というものに集約されている気がして、少女は戸惑う。しかし母の目は決して彼女を急かすことなく、ただ静かにその返事を待っていた。
母は、少女の困惑した表情を見て優しく微笑んだ。
その眼差しは底なしの優しさに満ちている。
「あなたと出会ってから考えていたのだけど、"リュナ"はどう? 月のように静かで、それでいて朝の光のようにあたたかい。あなたは、そんな光を秘めていると思うの。きっとこの村の人々も名前を呼んでくれるわ」
「……リュナ」
少女は掠れた声で、その名を紡ぐ。
ほんの僅か、常に「無」だった表情が和らいだ。
誰かに自分のための名前を与えられる。それは初めて誰かの言葉を受け入れた瞬間だった。
命令でもなく、義務でもなく、ただ差し出された優しさをそのまま受け取る。
その祝福──リュナという響きは彼女の心に小さな、しかし確かな光を灯す。彼女自身の存在を肯定してくれるようにさえ感じられた。
少女はその日から、リュナになった。
5
それから幾日後かの朝。
陽の光が窓から差し込み、部屋の隅々まで明るく照らしていた。
昨日までの曇天が嘘のように晴れ渡り、空には清々しい青色が広がっている。鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。
リュナはゆっくりと目を開けた。
身体が温かい毛布に包まれている感触が心地よい。窓の外では、朝露に濡れた草がキラキラと輝いている。
棚の隅には相変わらず剣が置かれている。
布にくるまれたその形は以前と何も変わらない。しかし今日のリュナはこの家に来て初めて、それに手を伸ばさなかった。
ただ一瞥をくれただけで、彼女の意識は別の場所へと向かう。
もうその剣は彼女の一部ではなかった。過去の残骸であり、もう二度と触れる必要のない遠い記憶の象徴。
台所から漂ってくる香ばしいパンの匂い。温かいスープの香り。食卓の向こうに見える家族の姿。
父が新聞を読みながら時折笑い声を上げている。母が忙しなく朝食の準備をしながら、楽しそうに鼻歌を歌っている。兄はもうすでに席について、空腹に負けて焼きたてのパンをちぎって口に運んでいた。弟はまだ眠そうにうつらうつら。
そんな家族の様子を、リュナはただ見つめている。そこには何の偽りもない、穏やかな日常があった。
絵本の中に迷い込んだかのような、温かい光景。
兄がリュナに気づいて、満面の笑顔でこちらを見る。
「リュナ、おはよう!」
その声は真っ直ぐにリュナの心に届いた。
温かく、そして力強い響きだった。リュナは少しためらった後、ゆっくりと唇を動かした。
これまで誰かに向けたことのない、ぎこちないけれど、確かにそうとわかる笑顔が浮かぶ。
「……おはよう」
初めて自分の意思で、その言葉を口にした。
命令でもなく、報告でもなく。誰かの真似でもないリュナ自身の言葉だった。
口にした瞬間、彼女の過去を覆っていた灰色の空が一気に晴れ渡っていくような気がした。
それは、生きていいと許された少女が自分の名を持ち、剣ではなく言葉で一日を始めた本当の朝だった。
剣を捨てたその朝、少女はようやくおはようと言える人間になった。
そしてその言葉の先に、無限に広がる新しい世界があることを知ったのだ。
剣を捨てた朝に 楡音えるにれ・-・ @unknown_1232
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