繋がる電話線
乃間倉凧
繋がる電話線
遥か下の方から音が響いてくる。波が何度も打ち寄せては、岩肌にぶつかり砕け散る。まもなく俺もそうなるのだ。俺は崖の上の、少し開けたこの草地に座りこんでいた。十数歩先には切り立った崖がある。その先には、海が一面に横たわっている。そして遠く手の届かないところで、海と空は彩度を失い、お互いを蝕んでいる。それが見えた。
俺は携帯電話を開いて、そこへ視線を落とした。履歴を全てのこらず削除するためだ。通話履歴には、二度と繋がらなくなってしまった番号も沢山ある。通話の内容さえ思い出せてしまうものがある。そしてあの日以来、どの番号からも新しい着信はない。それらの履歴を全て削除する。
削除した。携帯電話は随分と軽くなった。同時に自分の記憶も削除して、自分もまた軽くなったようだ。半刻前まで、胃に冷たく沈んでいた何かは、もうどこかへ消えてなくなった。全身が熱を帯びて、空気の動きを普段よりはっきりと感じる。鋭く、冬の風が吹いている。海の方向に向かって、背中を押すように風が吹いている。俺はこれから起こることをイメージする。よろよろと立ち上がった。片足で体を支えて、もう片足を前に出す。それを何回か繰り返す。そうして崖の上から海に向かって落ちる。死ぬ。ここでようやくイメージが出来た。
こうして全ての準備が整った。俺は静かに立ち上がる、一歩踏み出す。思っていたよりもずっと簡単な動きだった。また一歩踏み出す、二歩、三歩踏み出す。そして更にまた一歩踏み出す。いや、踏み出そうとした。後方から声がしたのだ。
「プールルル、ルルルル……!!すーはー……。プールルル、ルルルル……!」
突然わけの分からない奇声が耳に飛び込んできた。思わず音のする方を振り返り、見上げる。すると、少し遠くにますます変なものが立っていた。そこには背の低い女子がいた。髪が長いぐらいで、見かけこそごく普通だが、立ち方が全くおかしい。両腕は丁字形から肘で直角に上へ曲げていて、手は握りながら、親指と小指は空へまっすぐ立てている。右足も横に45度ぐいと上げていて、ぐらぐらと不安定にしている。そのような格好で、プールプルルルと何かを呼ぶように、声を張り上げていた。
次の瞬間、相手と目が合ってしまった。奇声を上げるのを止めて、神妙にこちらを見ている。仕方なく俺は相手に質問した。
「あんたは一体、ここで何をやっているんだ?」
相手は奇怪なポーズを解きながら返事をする。
「電話、えっと、両親に電話を繋げようとしていたんです。」
電話だと?どうやって?相手はそんな俺をよそに、何故か愛想よさげに喋りだす。
「わたし、人と電話を繋げるのが得意なんです。だから、電話を繋げていたんです。おじさんも、今、電話を繋げたいと思っていませんでしたか?」
「いいや、全く。」
相手は訝しげに俺の目をじっと見つめている。全くわけが分からない。第一そんな話はあり得ない、電話を繋げられるはずがない。しかし相手はあくまでも話を続ける。
「私、ずっと前に駅で、おばあさん達に話しかけられたことがあったんです。『貴女は、今、本当に幸せですか?幸せでなければ、貴女は善いことをしなければなりません。神様はいつでも貴女のことを見守っています。神様は貴女の行いを見て、罰や祝福を与えるのです。だから善いことをしなさい。困っている人々を助けるのです。そうすれば絶対に、貴女は救われることでしょう。』って。最近、電話が繋がらなくて、みんな困っていたじゃないですか。だからこうして、電話を繋げるサービスをしているんです。いつでも、どこにいても、誰とでも、電話ができちゃうんですよ!」
相手は手をぶんぶん振り回し、真剣に説明している。あんな事があっても未だに神を信じているなんて、お気楽だな、と思った。呆れてものも言えない。そんな俺を見たからか、相手はわざとらしく咳ばらいをしてから、再び必死に語りだす。
「本当に、どこにでも繋げられるんですよ!!ほら、例えば、中学校に電話を繋げられます!中華料理屋の『竜宮亭』にラーメンを届けてもらうのもできます!きっと商店の末松山さんにも繋げられると思います!あと、あとは、他にも、もっと遠い場所でも繋がれますから!」
俺は、呆気にとられた。今度は閉口したわけではない。俺には、相手の口から飛び出した単語に驚くほど馴染みがあった。俺は無意識のうちに呟いていた。
「……弟橘町?」
相手も驚いた様子で反応した。
「ご存じなんですか?えへへ、私のお家があったところなんですよ。弟橘町の3丁目の、右かどっこにあったお家です。おじさんも、弟橘町に来たことがある、んですね!」
弟橘町の名前を聞いて、思いがけず、視界が滲んだ。放課後に同級生と商店に入っては安いアイスを買った、地図が書かれた看板を町に不慣れな「あの人」に見せた、仕事帰りに相変わらず喧しい海鳥の声を聞いた、町の「景色」。さっき削除したはずの「あの人」の記憶と一緒に、町の景色が蘇ってくる。弟橘町の景色たちには、いつだって海があったから、俺は必死にそれを忘れようとしていた。海が何もかも攫っていったあの日以来、もう誰とも共有出来ないと思っていた景色。それを、彼女は知っている。しかも俺は、どうやら彼女の、ほんの近所に住んでいたらしかった。
彼女は、また独りごとみたいに話しだす。
「本当に誰とでも、繋がれるんです、きっと。さっきは、私の両親と繋がりましたから。なんて言っているのか、私には聞こえなかったけれど、本当に、繋げられるんです。絶対に、きっと繋がれますから。私も誰かを助けたいんです……。」
彼女はここで初めて顔をそらした。何度も鼻をすすっている彼女はとても小さく見えた。それを見てとうとう、俺は決心した。彼女の話を信じることにしたのだ。俺は彼女に話しかける。
「本当に誰かに電話を掛けられるのか?」
彼女は向き直って、表情を明るくする。
「はい!誰とも繋げられますよ!」
「それなら、『あの人』に、繋げてもらえないかな?」
「もちろんです。やった、ようやく初めてのお客さんです!」
彼女はそう言って、さっそく準備を始めた。
彼女は海を背にして、俺の目の前に立って向き合った。そして例のポーズを構える。両腕は丁字型から肘で直角に上へ曲げていて、手は握りながら、親指と小指は空へまっすぐ立てている。右足も横に45度ぐいと上げていて、ぐらぐらと不安定にしている。そのような格好で、プールプルルルと何かを呼ぶように、声を張り上げる。暫くそれを続けていた。
永遠の様な時間が過ぎ去っていった。刹那、彼女の背後から強い風が吹き始める。風は彼女の長い髪を巻き上げて、日の光と一緒に滅茶苦茶にまき散らした。ごうごうとただ風の音が聞こえる。しかし電話は繋がらない。彼女はこちらをぼんやり見つめている。ますます風の音は強くなる。まだ電話は繋がらない。彼女の背後から、髪と光は溢れ出し、離れて交差して、重ね合わせて、目まぐるしく様相を変えていく。光が飛び散り、世界が何巡も回るような気持ちに襲われる。酔った心地で、少し後ずさりをした瞬間に、俺は知らない場所にいた。そして目の前には「あの人」がいたのだ。
驚きやら感動やらが喉に詰まって話せない俺の前に、あの人は後ろ手を組んで立っている。あの頃のように笑っているのかさえも定かじゃないが、確かに「あの人」はこちらを見つめている。何かを伝えようとしているように見えた。だが耳は詰まったようにこもって、何も言葉を受けつけない。手を伸ばせば届きそうなところに、「あの人」は確かにそこにいる。思わず俺は「あの人」に触れようとした。きっと、それがまずかった。
俺は禁忌に触れたようだった。あちこちに飛ぶ光は、俺の体にいつのまにか大きな穴を無数に空けていた。穴を光が突き抜ける度に、内臓を何度も触られるような寒気がする。両膝がひとりでに震え始める。何度も何度も光は穴を突き抜ける。震えはどんどん大きくなって、終いには体中が痙攣し始めた。それでも尚、立ったまま少しも体を動かせないから、全身で光を受け続ける他ない。拷問の如く光を浴び続けて、自分が生きているのかさえ分からない。ずっと脳を掻き混ぜられるような震えに冒される。その時だった。突如、前から激しく強風が吹いた。強風にあおられて、俺はあっという間に体勢を崩されて、その場にしりもちをついた。
ふっと、意識が戻る。風は止んでいて、体には何の変哲もなく、俺は元の草地にいた。目の前には相変わらず、変なポーズの彼女が立っている。何もかもが元通りになっていた。俺は助かったらしかった。彼女は座り込んだ俺に気がついて、ポーズを解きながら心配そうに話しかける。
「繋がりましたか?」
息が整うのを待って、俺は答えた。
「繋がったよ。なんて言ってたのか全然聞こえなかったけど、繋がれた気はする。また、今度、君に会いに来てもいいかな?」
「もちろんです!」
上手く仕事が出来て、嬉しそうに笑う彼女の姿は、少しも「あの人」には似ていなかった。
俺が電話番号を教えようとすると、彼女は制止してこう言った。
「大丈夫です、また会えますよ。私たちはいつでも、どこにいても繋がっていますから!」
彼女はまた、わけの分からないことを言っている。それでも何故だかまた会えるような気がする。きっと電話をしていない間も、「あの人」や彼女とはいつでも、どこにいても繋がっているのだろう。俺は踵を返して草地を立ち去る。彼女もその後を追ってくる。海を背にして、来た道を引き返していく。
その時は海の方向から、背中を押すように風が吹いていた。蕾をほころばせるような、春を告げる柔らかな風だった。
繋がる電話線 乃間倉凧 @satogetori
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