可哀そうじゃありません
@meat_misopaste
可哀そうじゃありません
時刻は定時の十七時半。多くの人はPCをシャットダウンし、机の上を片付けだしている。だが河合草子の隣に座る太田花代は丁寧ながらも強い口調で電話口に念押ししていた。
「わかりました。ではお戻りになられましたら今日中に連絡くださるようお伝えください。今日中に、です。明日では間に合いませんので」
花代は失礼しますといちおう静かに受話器を置いたが、置いた途端、頭をガリガリ掻いてウガーッと吠えた。その様子に草子は小声でこそっと話しかけた。
「花代先輩、あの担当さんと連絡つかなかったんですか?」
「そうよ、今日中に発注を送らなきゃ間に合わないのに。これ、十万台って入力あるけど絶対に十台の間違いだから。草刈り機十万台って世界中を刈りつくす気かっちゅうの」
「あー、発注ミスは向こうの責任ですし、十万台も買ってくれるならうちも儲かりますし、しれっとこのまま工場に発注してもいいんじゃないですか?」
草子が冗談で提案すると、花代は存外真面目に怒鳴りつけた。
「このバカ草子! 販売店さんや工場に迷惑がかかるのをわざと見過ごすなんて! いい!? おかしいと思ったら面倒でもちゃんと確認すること! 私たちの仕事は適正な受発注管理! ミスは上流工程でストップすること! わかった!?」
「わ、わかりました、すみません」
「よし」
タジタジになった草子が素直に謝ると、花代は重々しく頷きケロッと話題を変えた。
「あー、早く連絡ちょうだいよー。こっちは昨日からずーっと待っているのに」
「花代先輩、なにか予定があるんですか?」
いつもなら残業をいとわない花代が焦っている様子に、草子は不思議そうに尋ねた。花代は指を広げてキラキラとスパンコールが輝く爪を見つめた。
「ネイルの予約してんのよ。無理言って夜の七時に入れてもらったのに」
「え、まだ全然綺麗ですよ。もう塗り替えるんですか?」
「週末はデート。ナチュラルカラーに変えときゃなきゃ」
「先輩、彼氏さんの前ではナチュラル女子なんですね。大丈夫ですか?」
「なんの心配してんのよ。大丈夫、私、女優だから」
花代がニヤッと笑ってみせたので、草子もニッと笑い返した。花代は巻き髪バッチリ化粧もバッチリの猫系長身美人だが、仕事は真面目だし後輩指導も真面目にこなす。そんな花代に入社以来お世話になりっぱなしの草子は、花代に代打を申し出た。
「花代先輩、私が代わりに電話を待ちますよ」
「え、でも草子、あんたの担当じゃないし」
「いいですよ、あとはこの受発注システムの数字を訂正するだけでしょう?」
「そうだけど、マジでいいの?」
「いいです、いいです。私だってテンキーくらい押せます」
「じゃあ任せるわ。送信ボタンを押す前に小宮山に確認してもらって」
「え?」
花代の指示に、草子はあからさまに怯んだ様子をみせた。それに花代は呆れたように顔をしかめた。
「あんた、まだ男が怖いの?」
「い、いや、怖いって訳じゃ」
「じゃあ小宮山に確認お願いするくらいいいでしょ。小宮山、バカみたいに優しいし」
「バ、バカみたいって、し、失礼ですよ」
「残念、強調の副詞ですう~。草子、入社からもう半年でしょ? いい加減、職場の男くらい慣れな」
「そ、そうですけど」
「あんた、背も低いし、顔も童顔だし、男に舐められっぱなしだもんね。怖がる気持ちもわるけどさ、話すたびにオドオドしてちゃいつまで経っても子供扱いされるよ?」
「だ、だから怖がっている訳では」
草子はボソボソ反論をした。身長149㎝、いや本当は148.㎝。体重43㎏、いや本当は42㎏。青白い肌にタヌキ顔、タレ目にタレ眉。おまけに体の弱かった草子は、幼い頃から可哀そう可哀そうと慰められてきた。
だが草子は自分を可哀そうだったことなど一度もない。
たしかに入院がちだったし体育は見学が多かったけど、それは単に草子の体が弱いという個体の特性でしかない。授業や学級会で発言できなかったのも草子の声が小さかったせいだし、友達がいなかったのも草子の存在が薄すぎたせいだ。決して周りから無視されたり虐められたりしていた訳ではない。
成長して体が丈夫になっても、草子は周りから可哀そう可哀そうと言われることがあった。草子の不注意で物を落としても、重かったね可哀そうにと慰められる。草子が道でこけると、大変大丈夫?可哀そうにと慰められる。特に体の大きな男性からは、草子は弱弱しい草食動物に見えるらしい。だが草子は可哀そうじゃない。単に運動神経と頭が悪いだけだ。こけたら思いっきり笑い飛ばしてくれていい。
そんな草子にとって、教育担当である花代は光り輝く女神に見えた。いや、女神というには口が悪いし、慈愛というにはエネルギッシュな圧が強いが、草子を等身大の人間として雑に扱ってくれる花代はまさしく女神様だった。
だが他の課員たちから草子はいまだに草食動物扱いだった。パチパチ数字を入力しているだけで大丈夫か?顔色が悪いぞと労われる。別に病気でもなんでもないのにコホッと咳をしただけで有休取得を勧められる。普通に社食でAランチを食べていたら残してもいいんだぞ無理をするなと胃腸の心配をされる。そんな庇護者ぶる男性課員にお願いごとをするのは、草子にとっては気の重いミッションだった。どうせまた大丈夫か残業を替わろうかとか気遣われ、いえいえ大丈夫です自分でできますと返すやり取りが十回は繰り返される。
うつむく草子の背中を花代はバンバンと叩いた。
「ウジウジすんな、鬱陶しい」
「は、花代先輩、ひどい」
「私にしているみたいにパパッと話しかけるだけじゃん」
「だって私、ひ弱な草食動物ですもん」
「キモッ、そんな自虐をする奴はたいていそうじゃないんだよ、相変わらずバカだねえ。じゃあ今日はお言葉に甘えるわ、おつかれさん!」
「あ、花代先輩!」
草子の追いすがるように伸ばされた手を無視して、花代はヒラヒラ手を振り颯爽とオフィスから出て行った。草子はハアとため息をつくと、ななめ後ろの席に座る小宮山をチラッと見た。自分の名前が聞こえていたのか、小宮山の方も草子をジッと見ている。
それに草子はビクッとしたが、心の中で気合を入れると、小宮山の前に立った。
「こ、こ、こみ、やま、さん」
「なに?」
小宮山はなんだか厳しい表情をしている。返事も短くぶっきらぼう。あ、もしかしたら花代先輩のバカみたい発言が聞こえたのかも。草子は焦って謝った。
「す、すみません、あ、あの、こ、小宮山さんはバカじゃありません」
「は?」
「す、すす、すみません、違います、こ、小宮山さんは、バ、バカじゃありません」
「え、もしかして俺、バカだと言われている?」
「ち、ちち、違います、こ、小宮山さんは、バカじゃありません」
「ええと、よくわからないけどありがとう、俺はバカじゃないんだな」
小宮山は訳のわからぬ弁解にお礼を言った。草子はそれに笑顔のつもりの情けない顔を返し、本題を切り出した。
「こ、小宮山、さん」
「うん?」
「その、今晩の、ご予定、は」
「あ、夕飯の誘い?」
「ち、違います!」
「あー、ごめん、こういう返しもセクハラになるんだっけ。で、なに?」
「そ、その、受発注システムの確認を」
草子はつっかえつつも花代の代打で引き受けた仕事の説明をした。小宮山はフーンと話を聞き終えると草子に尋ねた。
「で、先方からの電話っていつかかってくるの?」
「わ、わかりません、すみません」
「俺はそのいつともわからない電話のために残業しなきゃならないんだ」
「す、すみません、あの、私からも先方に確認の電話を入れます」
「ああ、ごめん、冗談だよ。やることならあるから気にしないで。あんまりせっつくと先方も気分が悪いだろうし」
「す、すみません、も、申し訳ありません」
小宮山の机の上は書類ひとつなく、システムもすべて閉じられている。つまりもう帰るつもりではいたのだ。草子は申し訳なさに頭を下げると、小宮山は困ったように手を振った。
「いいよ、河合さんが謝ることはない。これってもともと太田さんの仕事だろう?」
「は、はい、そうです」
「あのさ、ちょっと聞いていい?」
「は、はい」
「河合さん、もしかして太田さんに仕事を押し付けられている?」
「え?」
探るような小宮山の視線に、草子は一瞬意味がわからずキョトンとしたが、慌てて否定した。
「い、いえいえ、そんなことはないです。花代先輩はそんな人じゃありません。これも私が申し出たことです」
だが草子の否定が聞こえなかったのか、小宮山は重々しく尋ねた。
「河合さん、正直に言ってくれ。太田さんに虐められている?」
「いっ、いえいえ!? 花代先輩はそんな人じゃありません!」
「河合さん、この前もコピー機のトナー交換を押し付けられていたよね?」
「あれは花代先輩がやり方を教えてくれていただけです!」
「さっきもえらい剣幕で怒鳴られていたし」
「あれは私がしょうもない冗談を言ったせいです!」
「背中もバンバン叩かれていたし」
「あれは闘魂注入です!」
「河合さん、太田さんを庇う必要は無いよ。俺、河合さんの味方だから」
「いえいえ!? 味方じゃなくて結構ですから!」
なんだ!? 花代先輩が私を虐めている!? そりゃ花代先輩はキツイ感じの美人だし自分はいかにもいじめられっ子風の弱弱しい風貌だが、まさか課内の人にそんなふうに思われていたとは!
草子がどう誤解を解こうと思っていると、後ろから声がかかった。
「河合さん、小宮山くん」
「あ、課長」
「課長、いいところに」
課長の登場に小宮山は現状を説明した。
「課長、やっぱり河合さんは太田さんに虐められているようです」
「やっぱりか、河合さん、可哀そうに」
「課長、私は虐められていません!」
「課長、河合さんは太田さんを庇っているんですよ。裏で脅されているのかも」
「ああ、太田さんならやりかねんな」
「違います! 花代先輩はそんなことしません!」
「河合さん、安心して。明日にでも太田さんには僕から話すよ。とりあえずきみの教育係からは外れてもらおうかな」
「そっ、そんな! 課長、お願いです! 花代先輩は」
「大丈夫だ、安心しなさい。きみのような人には配慮するから」
きみのような人。課長の言葉に草子はピクッと反応した。
「あ、あの、課長」
「なにかな?」
「き、きみのような人って、どういう意味ですか?」
「ああ、ごめん、気に障ったなら謝るよ、申し訳ない」
「い、いえ、謝ってくださる必要は。それよりきみのような人って」
「うーん、非難しているつもりも迷惑している訳でもないんだ。そういう人も受け入れてこそ多様性だからね」
「だからどういう」
「大丈夫、体や心が弱い人にはちゃんとフォローを」
「わっ、私は弱くありません!」
課長の言葉を遮り、草子は大声で怒鳴った。しまった、目上の人になんてことをと心の隅で思ったが、そんなことよりこれまでの積もり積もった不満が爆発して、草子はポカンとする課長と小宮山二人に対してぶちまけた。
「私は心身ともに健康です! そ、そりゃ背も低いし顔色も悪いしAランチでお腹いっぱいになるくらいには小食ですけど、それでも昔に比べてずいぶん頑丈になりました! 可哀そう可哀そうって気遣ってくださるのはありがたいけど迷惑なんです! 雑に扱ってくださって構いません! コピー用紙くらい自分で持てます! パソコン打っているくらいで体調が悪くなったりしません!」
「え、おい」
「あ、あの」
「だっ、だから花代先輩を悪く言うのは止めてください! 花代先輩は優しい人です! そりゃ花代先輩は口は悪いし態度もデカいし肉体的コミュニケーションとかほざいてバンバン叩いてきますけど、花代先輩は良い人なんです! 花代先輩は私を可哀そうなんて微塵も思っていません! 花代先輩は私のことをただのバカだと思っています!」
「……」
「……」
「だっ、だから花代先輩を、私の教育係からはずすのは止めてください。すみません、私、バカなんです。どうかこれからも花代先輩と一緒に仕事をさせてください、お願いします」
「……」
「……」
途中から自分がなにを言っているのかわからなくなっていたが、草子はそうお願いすると頭を下げた。課長と小宮山は言葉の奔流に呆気に取られていたようだが、やがて小宮山が小さく笑った。
「はは、太田さんの言っていた通りだな」
「……え?」
「いや、河合さん、男に話しかけるの、すごい嫌そうだったからさ」
「え、あ、嫌って訳じゃ」
「河合さん、男に話しかける時、すごく嫌そうな顔をしているのに気付いている? 目線も合わないし、かなりどもるし、俺たち、河合さんに嫌われているのかなって思っていた」
「……す、すみません」
そういえばそうだったかもしれない。草子としては男性が怖いというよりいちいち可哀そう扱いされるのが面倒で話しかけるのが嫌だなあと思っていただけだが、それが思いっきり態度に出て小宮山たちを不快にさせていたとは。
体を縮こませて俯く草子を、小宮山が下から覗き込んだ。
「いや、謝ってくれなくていいよ。だからこっちも話しかけるのを極力減らしていたんだけど、太田さんが妙な配慮をするなって怒ってさ」
「え、花代先輩が?」
草子が顔を上げると、小宮山は安心させるように頷いた。
「そう、太田さんが。河合さんは弱者扱いされるのにウンザリしているだけだ、見た目は弱そうだけど負けん気は強いから俺たちも普通にすればいいって」
「花代先輩が」
「うん、だからちょっとカマをかけてみたけど、太田さんが言っていた通りだな。ですよね、課長?」
「そうだな。我々としては配慮していたつもりだったが、それが余計に河合さんを不快にさせていたとは。河合さん、申し訳なかった」
「い、いえ、私こそ課長に失礼なことを。申し訳ありません」
「どうもお互いに色々誤解していたようだね。でもせっかく同じ職場になれたんだ、すぐに態度を変えるのは難しくても徐々に理解を深めていこう。これでどうかな?」
「は、はい、課長、それでお願いします」
優しい提案に草子がホッとして顔を緩めると、それに課長も頬をゆるめた。
「はは、はじめて河合さんの笑顔を見た気がするね」
「あの、私、そんなに嫌そうな顔をしていました?」
さすがにこれだけ言われると心配になって草子が尋ねると、課長は過去の悲しい思い出を悲しそうに語った。
「そうだね、生理的に無理っていう顔だったね。私のような中年オヤジは見るのも嫌って顔だった」
「も、申し訳ありません」
「そうそう、俺も回覧を回してほんのちょっと指先が触れただけで、すごい勢いでバッと手を離されたことがあった」
「も、申し訳ありません」
「一対一のミーティングでもずっと顔を下に向けているし」
「も、申し訳ありません」
「俺が話しかけた三秒後にようやく振り返るし」
「も、申し訳ありません」
「社食ですれ違いそうになったら急に方向転換するし」
「も、申し訳ありません」
「俺が横を通ると鼻をつまんでウゲーッて顔をしかめるし」
「……あの、そこまでした記憶はありませんが」
過去の失礼をあげつらわれてひたすらペコペコ謝っていた草子だったが、さすがに小宮山の最後のエピソードは盛られすぎで異議を唱えた。それに小宮山はニヤッと笑った。
「うん、言いがかりをちゃんと否定できる。えらいね、河合さん」
「……この程度で褒めてくれるって、やっぱり子供扱いされています?」
「いやいや、河合さんは大人だなと感心しただけだよ」
「……だからそれって子供扱いしていることじゃ」
草子が胡乱な目つきで小宮山を詰問していると、後ろでプルルッと外線電話が鳴った。
「お、例の担当さんからじゃないかな。河合さん、電話はとれる?」
「……だからそれが子供扱いだと」
草子はハアとため息をつきつつ電話をとった。だがその口元はほんの少しだけ上がっていた。
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