彼の退職

白川津 中々

 会社の同僚が起業をすると言って会社を辞めた。

 彼とは馬が合いよく飲みにいったりしていたのだが、その際しきりに「自分で会社を作ると」と語っていた。酒の席の話だと話半分に聞いていたのに、彼は本音だったのだ。


「長い間お世話になりました」


 最後の出社日、深々とお辞儀をする彼を見て俺は寂しさの他、焦燥感に駆られた。お互いによく話をして、立場もそれほど変わらなかったのに彼は、別の人生を歩もうとしている。その事実に、心臓がざわつくのだ。「また飲みに行こう」と声を掛けられても、言葉に詰まり、軽く手を振るだけしかできなかった。

 空虚な心に、「失敗してしまえ」という邪が入り込み、唇を結ぶ。

 職場の人間以上の付き合いだと思っていたのに、俺はどうしても、彼の転落を願ってしまった。自身と同じ位置に戻ってきてほしいという願いが呪いを生んだのだ。心からの祝福を贈れず、恨みさえしてしまう自分のなんと浅ましい事だろう。分かっているのに、暗い炎のような感情を消す事はできず、奥歯を噛み締め、呪詛を呑み込む事しかできなかった。


 翌日、彼のいない会社に出社する。

 彼がいなくとも仕事は回っていた。引継ぎもつつがなく行われ、誰も彼がいない事で困った様子など見せていなかったのだが、俺は終始暗い気持ちだった。

オフィスを見渡すと、働いている社員全てがつまらない人間のように思えた。そして、その中にいる俺も漏れなく、つまらないのである。


 能力があれば、やりたい事があったら、彼のように、優秀だったら。


 自虐と悲嘆の中、飛び出したい気持ちを抑えながらキーボードを叩き、合間に転職サイトを眺める。しかし、どこに行っても同じだ。俺には能力がなく、ここにしがみつくしかない。周りにいる、つまらない人間と同じように。


 とどのつまり、何もできない俺は彼の隣にいる資格がなかったのだ。悲しみも憎しみも全部自身の薄弱のためである。つまらないとは、そういう事だ。


 サイトを閉じて、仕事を再開する。

 つまらない人間として、退屈な毎日を過ごすために。

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