元ネタ
「これは本当の親子丼なんですよ」
私があぶり鮭とイクラの丼をしみじみ味わうと大将はそういった。
妊娠した妻を家に残してやってきた出張先。そこで聞く親子という言葉は私の関心を目の前の美味しさから大将に変えた。大将と言っても彼は兵を率いているわけではなく、小さな海鮮料理屋の主人、だということだ。
「本当の?」
「ええ、そうです。本当の親子は漁港に近いこのあたりくらいですよ」
大将と後ろには1人の兵士もいないのに彼は自慢げに語る。
甲冑ではなく白の調理着を着ている。50代くらいだろうか。表情というのは顔に刻まれてしまう。だとすると彼はこうして客との会話を楽しむ明るい人なのだろう。笑い皺がすっかり固着している。合戦に臨む風貌ではない。
彼を将と呼べそうなところといえば刃物を扱うところくらいだ。それでもたった1人で、率いる者もいないのに、彼は迷いなく本当の親子丼だと嬉しそうに語った。それはひょっとしたら戦で勝つことより確かでいいことなのかもしれないと思い私は黙って聞いた。
「今朝は子持ちの鮭を仕入れましてね。それはその鮭からとったイクラです。もちろん母親の方は炭火で焼いてほぐしてあります」
私はだんだんと変な気持ちになった。そうか、母親と子。私は目の前の3口ほどしか食べていない丼の中に鮮やかな桃色のほぐし鮭とキラキラ輝くイクラを見た。
「サーモンは生食できるんですよ。北海で育つからね。北海っていっても北海道じゃありませんよ。ノルウェーとかその辺りです。海水がずっと冷たいから寄生虫がいないんです。だからこの辺でとれた鮭はしっかり焼いて親子丼でやらせてもらってます。若い人は生ばかり良いっていうけど、焼いた油もイクラによく合うんです」
大将は朗らかで、ますます饒舌になる。私はこの話を聞くとますます手をつけないといけないような心持になり、親子という言葉の違和感を持ったまま一口、二口、親子を口に含む。味はますます旨い。
「都会じゃできませんから。子持ちのまま運ぶと鮮度が落ちちまう。かといって捌かずまるまる冷凍してもダメ。イクラは風味が落ちる。だからこれを味わえるのはこの辺りだけ。当然うちが一番美味しい、そんな心意気でやらせてもらってます」
母親と子。私は今食べている。ぼんやりとした違和感は家にいる身重の妻の記憶と繋がると急速に具体性を帯びてきた。母と子を一緒に喰って喜ぶ生き物がいるんだ。それはこの合戦には似つかわしくない皺を持った朗らかな人と私自身でもある。
「もう30年になります。魚を見て、捌いて、こうして1つの料理にしてお客様にお召しあがりいただいて」
悲惨なことに昼間の営業の終わりがけに訪れたからもう他に客はいない。奥できっと大将の奥さんが洗い物をしている音がする。古いテレビが大相撲を流している。それくらいが邪魔をするのだけど、大将は話続ける。
私はどうしようかと思った。もう目の前の美味しい丼を食べたくない。だけどガラガラと年季の入った戸を開けて「もう終わりですかね?」と無理を言って入店したものがからそういうわけにもいかない。ひとまず三つ葉の香りがアクセントになっているお味噌汁で息を整える。
私は妻と子を頭の中から消し去ることもできず、だけど意を決して掻きこむ。丼を持ち上げて口内に流し込む。プチプチとイクラは潰れて、鮭の豊満な油と混ざる。しっかりした鮭の身を包み込んで一体になって旨味となり、私は関係なく吐きそうになる。
「まさかそんな感動して頂けるなんて。いい冥土の土産になりました」
涙目になった私を見て大将は勘違いをして勝手に喜んでいる。ぼんやりと涙まで浮かべている。私のとはまったく違う。2人で涙を浮かべながら、でもまったく相容れない時間も嫌だから、私は出来る限りの速度で完食した。
「美味しかったです」
出がけに私は嘘をつく。
「また是非いらしてください」
洗い物を終えた奥さんまで見送りに出てくる。角のところまで歩いてから振り返ると、2人はまだ深々私に頭を下げてくれていた。
私はとにかく急いで帰ろうと思った。出張で上機嫌で港町にやってきた。昨日の夜、妻も「たまには1人で美味しいものでも食べてきたら」と気遣いをしてくれた。もうすぐ生まれてくる我が子のために一生懸命働いた息抜きのつもりだったのだけど、私はとにかく急いで帰りたい。
車を運転して会社に戻る道中、海沿いの道を走る。鮭が悪い人間に捕まらないように願う。悪いサメや、悪い熊にも。
私は帰宅して妻に会えたらさっきの話をしたい。だけどどんな風に?あなたの夫は、鮭とイクラの本当の親子丼を吐きそうになりながら食べたんだ。込み上げてきた気持ち悪さの分だけ君たちを愛している。身重の妻に?よし今日は黙っていよう。
でもいつかその時がきたら妻にこの話をしよう。それがいつかはわからないが、いつかこの話をしよう。
親子丼 ぽんぽん丸 @mukuponpon
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