第15話 白の回廊
氷の迷宮を進むたび、空気が凍てついていくのをノアは肌で感じていた。
白く霞んだ視界。足元は滑りやすい氷で、歩くだけでも神経をすり減らす。だが、それ以上にノアの胸を圧迫していたのは、目に見えない“何か”の気配だった。
「クラリス、前方、何か来る」
低く鋭い声でガイルが告げた。剣を抜いたその動きは無駄がなく、すでに戦闘態勢に入っている。
「……三体。瘴気の獣ね」
クラリスの目が細められると同時に、彼女の足元から氷の結晶がきらめき、魔法陣が展開される。
霧の中から現れたのは、黒煙をまとった獣のような存在だった。牙が露出し、目は紅く光っている。氷の迷宮が生み出した、瘴気の化身。
「来るぞッ!」
ガイルが地を蹴り、一気に一体の影獣に肉薄する。剣閃が走る。だが――
「硬いッ!?」
鉄のような毛皮に阻まれ、刃は浅くしか入らない。その隙を突くように、影獣の爪が反撃する。
「下がってガイル!」
クラリスの叫びと同時に、炎の奔流が走った。彼女が放った炎が影獣の背を焼き、煙とともに苦悶の咆哮が響く。
「ノア、援護して!」
「わかった!」
ノアは腰の剣を抜き、仲間の背を追った。
もう一体の影獣がこちらに気づく。四肢を広げ、跳躍――ノアに一直線に襲いかかる。
「来いッ!」
ノアは身を屈め、斬撃を横に振る。しかし勢いが足りない。爪が肩を掠め、外套が裂けた。
「ぐッ!」
転がるように距離を取る。呼吸が荒くなる。動悸が速まる。
「ノア! 冷静に! あいつの動きを見て!」
クラリスの叫びが飛ぶ。直後、彼女は氷柱の魔法を放ち、ノアを襲っていた影獣の動きを止めた。
更に氷の杭が地面から突き出し、影獣の脚を貫く。
「今よ、ノア!」
クラリスの声に応じ、ノアは再び走り出す。
「はあああッ!!」
渾身の一太刀。氷柱によって体勢を崩した影獣の喉元に、剣が深々と食い込む。
断末魔とともに、それは霧散した。
「やった……!」
瞬間、背後から轟音。ガイルの剣が最後の一体の影獣を真っ二つにしていた。
「ふう……終わったな」
霧の中に静寂が戻る。
ノアは剣を地面に突き立て、荒い息を整える。傷からにじむ血が外套を染める。
「ノア、傷を見せて。すぐに凍傷になるわよ」
クラリスが駆け寄り、傷口を包帯で巻く。
「……助かる」
「気にしないで。でも、これからもっと厳しくなるだろうから油断はしないで」
少し厳しい言葉に、ノアは小さくうなずいた。悔しさと、それ以上に――生き延びた安堵。
「だが、さっきの動き……悪くなかったぞ」
横からガイルが言った。抜いた剣を布で拭いながら、ノアの目を見据える。
「敵の爪を見て、咄嗟に避けた。体がちゃんと動いていた。臆病風に吹かれたまま固まってたら、今ごろ腕はなかったぞ」
「……それ、褒めてるのか?」
「まあな。お前なりに“殺し合い”に足を踏み入れたってことだ」
ガイルの言葉は冷淡にも聞こえたが、そこに嘲りの色はなかった。むしろ、ほんのわずかに、認めるような響きがあった。
「でも、氷の杭がなければ、俺、やられてた……。本当にありがとう」
「そうやって、一つずつ、命をつないでいくのよ。ここでは特にね」
氷の魔力が充満した回廊には、再び薄い霧が満ち始めていた。敵を倒しても、それは瘴気の根を断たない限り、再び現れるという証。
「ここからが本番だ。ここまでは所詮は瘴気の小手先だ。もっと奥に、いる。瘴気を生む魔石か、あるいは――」
言葉の先を濁したのは、何か確信があったからだろう。それでも、まだ言葉にはできない何かがそこにある。
「ノア。お前はまだ未熟だ。でも、足を止めないこと。それだけは忘れるな」
「……うん。わかってる」
ノアは剣を鞘に収め、ひとつ息を吐いた。
「俺はまだ弱い。けど……逃げるつもりはない」
クラリスとガイルが、ほんのわずかに口元を緩めた。
そう。ノアは確かに未熟で、非力で、魔法すら使えない。だが、それでも前に進む“意志”だけは、誰よりも確かなものを持っていた。
「行きましょう。次に現れるのは、“本物”かもしれないから」
クラリスが手を掲げ、再び《冷気耐性》の魔力を仲間に付与する。淡い魔法の膜が三人を包み込み、肌を刺す寒気を遠ざけた。
そのとき、突如として――迷宮の奥から、地響きが鳴った。
「……聞こえたか?」
ガイルが剣に手をかけ、じり、と前へにじり出る。
その足音がやけに重く感じるほど、辺りは静まり返っていた。だがその静寂は、まるで息を潜めた獣が跳びかかる直前の一瞬のように――不気味な静寂だった。
「……今の、何?」
ノアが低く問いかける。喉の奥がひりつくような緊張。鼓動の音だけが、やけに大きく耳に響いている。
「瘴気の流れが変わったわ。……奥で“何か”が動いたの」
クラリスが呟いた瞬間、氷の回廊が微かに震えた。
その振動は足元から這い上がり、次第に大きく、明確な揺れとなって全身に伝わってくる。
――ドン……ドン……。
明らかに規則的な音。誰か、いや、“何か”が歩いてくる音だった。
「下がれ、ノア。これは――」
ガイルの言葉が終わるよりも早く、霧の向こうから現れた“それ”に、三人の呼吸が止まった。
黒い装甲をまとった巨躯。背中から伸びる禍々しい瘴気の翼。片腕は鉤爪のように変形し、片方の手には氷と闇の魔力が混ざり合う巨大な戦斧を携えていた。
「影騎将……!?」
クラリスが言葉を呑む。
それは、瘴気により堕ちたかつての英雄の成れの果て。高度な戦闘技能と異常な魔力を併せ持つ、“瘴気の番人”。
「来るぞッ!」
ガイルが駆け出した。まっすぐ影騎将へと向かっていく。だがその巨躯は、まるで待ち構えていたように斧を振り上げ――
ドォン!!
振り下ろされた一撃で、氷の床が砕けた。飛び散った破片が鋭い刃となり、周囲に降り注ぐ。
「クラリス、援護を!」
「わかってるッ!
瞬時に氷の壁が張られ、破片の嵐を防ぐ。しかし、その間にも影騎将は無言のまま斧を振るい、ガイルへと詰め寄る。
「速い――ッ!」
ガイルが飛び退き、かわす。だがその足元を、突如として闇の杭が突き上げた。
「ぐッ……!」
脇腹を掠めた杭が、血を吸うように赤黒く染まる。
「ガイルッ!」
ノアが思わず叫んだ。
「ノア、下がって! 今のあなたじゃ止められない!」
クラリスが叫ぶ。だが、その声にノアの足は止まらなかった。
気づけば、手が勝手に動いていた。
剣を抜き、走り出していた。
「バカッ、ノア! 待て!」
だが、ノアは聞こえていなかった。いや、聞こえていたけれど――自分を止められなかった。
怖い……でも……!
ガイルが血を流している。クラリスが魔力を削っている。その中で、自分だけが立ちすくんでいられるはずがなかった。
「うおおおおおおおッ!!」
ノアは斬りかかる。影騎将は一瞬だけ顔を――その禍々しい仮面の下の、空洞のような目をノアに向けた。
重く、禍々しく、全身が押し潰されそうな“圧”を感じた。
次の瞬間、巨斧が振り下ろされる。
ノアは咄嗟に横へ跳んだ。斧が床を割る。衝撃波が体を吹き飛ばす。
背中を打ち、視界が歪む。それでも、手は剣を離していなかった。
くそっ……俺は……!
「ノア! 下がれッ!」
ガイルが叫ぶ。返すように、クラリスが詠唱を終える。
「
氷の鎖が地面から跳ねるように飛び出し、影騎将の片足を縛った。
続けてクラリスが叫ぶ。
「今! ガイル、右腕を落として!」
「任せろッ!」
ガイルが斧を振り上げる影騎将の背後に回り込み、全力の一撃を叩き込む。金属音が鳴り響き、鋼のような腕に亀裂が走る。
さらにクラリスが魔法を畳みかけた。
「氷撃!」
幾重もの氷槍が空から降り注ぎ、影騎将の動きを封じるように突き刺さる。
「ノア、今しかない! 胸を狙って!」
ノアは立ち上がる。足が震えていた。だが、剣を構える腕は、震えていなかった。
ここで、やらなきゃ――!
走る。仲間が作った一瞬の隙。そのすべてが、ノアに向けられていた。
「おおおおおおッ!!」
振り上げた剣が、影騎将の胸を貫く。
衝撃と共に、黒煙が噴き出した。
ノアは吹き飛ばされ、再び氷の床に転がる。
――しかし、影騎将の動きが止まった。
大きな咆哮とともに、黒き巨躯が崩れ、砕け、氷の霧の中に沈んでいく。
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クロノトリップ 〜最低レア度の村人が世界を救うために剣士にされた件〜 @hoshikitune1101
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