第14話 囁く氷の底で
「……ここが、氷の迷宮か」
ノアは、氷結した木々の合間に佇み、重い息を吐いた。吐き出した白い息がすぐに凍りつきそうな冷気。彼は毛皮の外套に身を包んでいたが、それでも全身の末端から熱が奪われていく感覚を止められなかった。
「視界が……思った以上に悪いわね」
彼の背後で、黒衣の少女が言った。クラリス。長い銀の髪が風に揺れ、周囲の氷の光を反射して幽かに輝いている。
彼女は軽く指を鳴らすと、周囲に淡い魔力の膜を張った。青白い光が三人を包み、冷気がぴたりと遠のく。
「《冷気耐性》を張ったわ。これでしばらくは動けるはず」
「助かる……これがなかったら、指がもう動かなくなってたかも」
ノアは自嘲するように笑って、自分の手を見下ろした。確かに、クラリスの魔法がなければ、氷の迷宮に一歩踏み入れた時点で戦える状態ではなくなっていただろう。
「油断するな」
そう言ったのは、三人目の男――ガイルだ。手には巨大なブロードソードを持つ。その視線は常に周囲を警戒し、わずかな異変も見逃すまいと集中していた。
「この寒さは異常な魔力の仕業。瘴気が混じってる。気を抜けば、思考まで凍りつくぞ」
「……瘴気って、そんなに厄介なのか?」
「魔力に敏感な者ほど侵されやすい。クラリスがいるからって安心しすぎるなよ」
「わかった。……俺にも、やれることがあるならやるさ」
ノアはそう言いながら、腰の剣に手を添えた。だがその表情は、どこか硬い。
自分が本当にこの場所で役に立つのか――そう自問するような、曇った目だった。
けれど、その隣でクラリスがふっと笑った。
「ノア、大丈夫よ。あなたは確かにまだ未熟だけど……心だけは、あの迷宮に侵されていない」
「心が……?」
「ええ。迷宮に囚われない“意志”を持ってる。それがなければ、生きていけるわ」
クラリスの声は静かだったが、どこか確信に満ちていた。
ノアは一瞬だけ目を伏せ、それから再び顔を上げた。
「……必ず、戻ろう」
呟きは、まるで自分自身に向けた誓いのようだった。
「うん。無事に、ね」
クラリスが微笑み、ガイルは短くうなずいた。
そして、三人は迷宮の入り口――崩れかけた石のアーチをくぐった。
中は、まるで別世界だった。
白銀の石で築かれた回廊。天井は高く、そこから氷のつららが垂れ下がっている。壁面には古代文字のようなものが刻まれ、それが淡く青白い光を放っていた。
ノアは一歩ずつ慎重に足を進める。
石畳の床には、何かの引きずった跡のような痕がいくつもあった。だがそれが人間のものなのか、魔物のものなのかすら分からない。
「音を立てるな。ここは、気配で“何か”が反応する」
ガイルの低い声に、ノアも息を殺す。
何かが、この先にいる。
そう確信できるほど、空気が張りつめていた。
ノアは氷の床に足音が響かぬよう細心の注意を払いながら歩を進めた。靴の底がわずかに鳴るたび、背筋がひやりと冷える。気温とは別の、名状しがたい不安が肌を撫でた。
クラリスが指先をわずかに動かし、魔力の糸を前方に張る。目には見えないその結界は、侵入者に対して自動で反応する罠や術式を感知するためのものだ。
「前方、感応あり。術式型の“視認式”……古いけど、まだ機能してる」
彼女が小声で告げると、ガイルが剣を肩に担いだまま足を止めた。
「どうする?」
「解除できる。けど、少し時間をちょうだい」
クラリスは壁際に寄り、刻まれた古代文字をひとつひとつなぞるように指先でなぞりながら、魔力を送り込んでいく。その様子を見守るノアの掌は、知らず汗ばんでいた。
不意に、どこか遠くから音がした。
――コツ、コツ。
氷を叩くような、乾いた音。いや、それだけではない。
「……足音?」
ノアの問いに、ガイルがうなずいた。
「ひとつじゃない。二つ……三つ、いや、それ以上だ」
まるで複数の何かが、回廊をゆっくりと移動してくるような気配。
「クラリス、急げ」
「もう少し……あと三つ、制御印を――」
そのときだった。
空間が、ねじれた。
ノアの視界がわずかに歪み、壁に刻まれていた光が一瞬だけ赤黒く変化した。
「うそッ! 罠が強制的に発動した!」
クラリスが呟いた瞬間、周囲に鳴り響いたのは氷を割るような激しい轟音。そして、床下から噴き上がるようにして現れたのは――骸の群れだった。
全身が氷と瘴気に覆われた、人の形をした異形。それらはかつて人間だったものの成れの果て、瘴気に魂を侵され、迷宮の守り手となった哀れな存在だ。
「来るぞッ!」
ガイルが剣を振り下ろす。その一閃は目にも止まらぬ速さで骸のひとつを叩き斬り、氷の霧を撒き散らした。
ノアも即座に剣を抜く。敵の動きは鈍い。だが油断すれば、瘴気を浴びてこちらの動きが鈍る。そうなる前に、一撃で仕留めねばならない。
「ノア、下がって! 数が多いわ!」
クラリスが叫ぶと同時に、魔法陣が足元に展開された。冷気を逆転させ、魔力の奔流を凍てつく閃光に変える術式。
「《氷縛・十輪》!」
凄まじい冷気が迷宮の通路を埋め尽くし、骸たちの動きを一時的に封じる。その隙にガイルが前線を押し上げ、ノアにも声を飛ばす。
「一体でも多く潰せ!」
ノアは息を吸い込み、足を踏み出した。手にした剣が、異形の身体を正確に貫く。胸を、首を、関節を狙って斬撃を加える。
斬りながらも、彼の中には奇妙な感覚があった。
――身体が、軽い。
確かにこの世界に来てから何度も鍛練を積んだ。だが、それ以上に。
この剣の重さに……慣れてきた?
ノアは一度、深く息を吐いた。冷たく澄んだ空気が肺を満たす。
その瞬間、目の前に骸の一体が迫った。腕のような氷の刃が振り下ろされる。
ノアは、それを見切った。
滑るように横に跳び、地を蹴る。反動を乗せた斬撃を、骸の腰元へ――
「はあっ!」
剣が叩き込まれると同時に、異形は音もなく崩れ落ちた。瘴気が風に散る。
その斬撃は、力任せではなかった。訓練場で何百、何千と繰り返した「踏み込み」。「角度」。「間合い」。地道な鍛錬の集積が、無意識に体を動かしていた。
ああ、そうか……。
剣を握るこの手は、もうただの素人のものじゃない。
迷いの残る心はあっても、体はすでに“剣士”として動いている。
「いい動きだ、ノア!」
ガイルの声が飛ぶ。彼はさらに深部の骸たちをなぎ払いながら、ノアに短く言葉を投げた。
「恐怖に負けるな。お前の刃は“届く”ぞ!」
届く。
その一言が、ノアの胸を突いた。
……俺の剣が、届くんだ。
次の一体が前方から滑るように突進してくる。ノアはそれを受けずに斜めに回り込み、足を払うように剣を低く薙いだ。
骸が氷の床に倒れ、動きを止める。
「っ、はあ……!」
息が乱れる。だが恐怖に喰われる気配はない。
もはや自分は、ただ守られるだけの存在ではない。
「ノア!」
今度はクラリスの声が届く。
彼女の掌には第二の魔法陣が形成されつつあった。だが――完成は間に合わない。
骸の一体が、クラリスの背後から忍び寄っていた。
「危ないッ!」
反射的に、ノアは駆けた。
クラリスに迫る骸との距離は、一瞬ごとに縮まっていく。
間に合え――!
「空斬りッ!!」
空気を裂き、氷を滑り、骸の首を――断ち切った。
骸は一瞬だけ動きを止め、そして塵となって崩れ落ちた。
クラリスが振り返り、目を見開く。
「……届いた」
クラリスの瞳がわずかに揺れ、微笑んだ。
「安心して背中を預けられるわね」
再び魔法陣が完成し、彼女の手から放たれた光が瘴気を一掃する。
「|霊器崩浄《れいきほうじょう――!」
透明な風が迷宮を駆け抜ける。瘴気がみるみるうちに消え、骸たちの姿も完全に失われた。
静寂が戻る。
呼吸だけが響く回廊の中で、ノアはようやく剣を下ろした。
「ふう……」
ガイルが剣を納めながら、肩で息をするノアに声をかける。
「よくやった」
ノアは、少し照れたように頷いた。
「ガイルの教え、クラリスの魔法、二人のおかげで……俺もようやく、一歩踏み出せた気がする」
「ふふ、成長期ね」
クラリスが冗談めかして言う。けれどその声には、明らかに誇らしさが混じっていた。
そのとき――
床が、揺れた。
氷の床が低く唸るように震え、奥の回廊から黒い霧が這い出してくる。
「いるな……!」
ガイルが呟く
その気配は、今までの骸とは次元が違った。圧倒的な瘴気、密度、存在感。
心臓が高鳴る。でも、もう逃げたいとは思わなかった。
「行こう」
ノアが静かに言う。
三人は影の主が待つ最深部へと、歩を進めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます