人面獣身

二ノ前はじめ@ninomaehajime

人面獣身

 電車の座席で揺られながら夢を見た。赤黒い色をした何かを、自分が一心不乱にむさぼっている。剥き出しの地面に横たわっているのは、長い手足のある死骸に見えた。そのはらわたに食らいついている。夜陰やいんの中で、光を失った瞳が虚空を見上げていた。

 牙が肉の繊維せんいを引き千切る。口の中で、濃厚な血の味がした。

 その風味にえかねて目を覚ました。まだ鼻腔びこうの中を鉄錆てつさびの臭いが突き抜ける気がした。勿論もちろん、口には少しねばついた唾液の味しかしなかった。

 アルバイトの帰り、少し眠ってしまっていたらしい。今日は早番だったから朝が早かった。自分が降りる駅は近いだろうか。目をこすって顔を上げた。

 そこで首の動きがぎこちなく止まった。

 まだ夕暮れを迎える前で、会社や学校から帰宅する乗客で混雑する時間帯ではなかった。だから座席に座ることができたし、リュックサックを背負った大学生らしい乗客が携帯電話をいじっていた。優先席ではどうやら老夫婦らしい二名が肩を寄せて、小さな手荷物を膝の上に乗せている。

 言葉にすれば何ということはない。その頭部が、動物の物に置きわっていなければ。

 携帯電話に顔を寄せる大学生は、マントヒヒだった。長い鼻が特徴的で、小さな目は寄っている。観ている動画でも面白かったのか、口唇こうしんをめくり上げるさまは威嚇いかくにも見えた。老夫婦は、犬と猿だった。もしかしたら仲睦なかむつまじそうで、実は犬猿けんえんの仲なのかもしれない。痺れた思考回路で、くだらないことを考えた。

 眼球だけを巡らす。他の乗客も同様だった。首から下は人間で、別の動物の頭になっていた。コアラ、きじ、イグアナ、猫。法則性はまるでわからない。すぐ傍らで新聞を広げる男性の格好をした乗客はカバで、時折鼻息を吹き出した。その風圧でこちらの頬の形が変わった。

 自分は夢の続きを見ているのだろうか。この車内で目立ちたくないため、手の甲をつねった。痛い。どうやら寝ているわけではないらしい。だとしたら、目か頭の異常だろう。

 車窓から淡黄たんこう色の日差しが差しこみ、獣の頭部をした影を伸ばす。電車の振動に合わせて、垂れた吊り輪が揺れている。誰もこの異変に騒がない。もっとも、車内で通話するイタチの女性は、話し声が甲高い鳴き声にしか聞こえなかった。横に座るカバの男性が憤慨ふんがいして大口を開け、熱をともなった吐息が新聞紙を大きく震わせた。勘弁してほしいと思った。

 バイト帰りで疲れているのだろうか。車内表示機を見上げた。あと二駅ほどで目的の駅だった。今日は急いで睡眠を取るべきだろう。それでもこの幻覚症状が改善されなければ、病院へ直行だ。

 医者も動物の頭部だった場合、会話が成り立つだろうか。せんのない心配をしていると、眼球の片隅に異物感を覚えた。そちらに目をやる。この動物だらけの車内だからこそ、その異様さが際立っていた。

 座席の隅に、人の顔が見えた。どうやら若い男性らしい。妙に顔面が平坦で、仮面じみて見えた。目鼻が細く、口元は薄く笑っていた。前だけを見て、同行者がいるわけでもない。

 あべこべだったのは、頭部だけが人間で、その下は獣のからだだったことだ。濃い体毛に覆われ、黒い山羊やぎに見える。ひづめそなえた四肢を垂らして、大きなお尻を乗せているさまは滑稽こっけいであった。

 凝視ぎょうししているこちらの視線に気づいたのだろう。黒山羊の躰をした男性は笑顔のままこちらを向いた。その視線に背筋を悪寒おかんが駆け上った。次の駅に到着するまで、とても時間が長く感じた。車内アナウンスが聞こえ、電車が停まって開閉扉が開くまで彼は一度も視線を外さなかった。

 ほとんどこけつまろびつ乗降口を降りた。その場で転び、ホームの硬い地面の感触を味わった。四つん這いになったまま、恐る恐る視線を上げる。人の顔をした乗降客が、怪訝けげんそうな一瞥いちべつ寄越よこした。発車メロディーとともに動き出した電車を振り返る。

 仮面じみた笑顔が窓に張りついていた。



 その日、無差別殺傷事件が起きた。

 乗車していた若い男性が、突然刃物を振り回して乗客に襲いかかったという。取り押さえられるまでに、老夫婦が刺殺されたと報道は伝えた。現行犯で逮捕された男の顔写真は、仮面じみていた。

 凶行が起きたのは、自分が降りようとしていた駅だった。



 この出来事をどうとらえて良いかわからない。

 乗客の顔が動物に置き換わり、無差別殺傷事件の犯人が人の顔のまま獣の躰になっていた。何もかもが意味不明だ。

 ただ、ふと考えることがある。

 あのとき、もし自分の顔も動物に変わっていたのなら、一体何の獣になっていたのだろう。

 どうしても気にかかるのだ。あの奇妙な出来事の前に、夢を見た。何かの死骸を貪る自分だ。

 あれは、人ではなかったか。

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