粗大ユメ
神守夕
粗大ユメ
【2018年1月20日】
「あ、明後日粗大ゴミの日じゃん…」
パソコンの右下にひっそりと佇む「2015年1月20日(水)17:58」の文字と目が合った岡嶋夕介は、そう小さな声でつぶやいた。
(タンスゴミ捨て場に出さないと…)
めんどくさすぎる。朝早くから出勤し夜遅くに帰るこの生活で、タンスに構っている時間なんてあるものか。
「17:59」
気だるげに数字が1つ上がった。定時の18時まで残り1分となったわけだが、夕介の心は平常運転だ。
「はぁ…」
パソコンの画面にやけに大きく広がるExcel。今日中にこの企画書を完成させないと、帰宅は許してもらえないというわけだ。
「はぁ…」
何度目のため息だろうか。せっかく割と綺麗な二重でかっこいいとよく褒められる瞳も、今はその役割を放棄し今にも閉じてしまいそうだ。別にこの会社が特別ブラック企業というわけではない。残業はせいぜい長くても2時間程度だし、繁忙期でなければ定時で帰られることも多い。土日は休みだし、福利厚生だってしっかりしている。夕介のため息の原因は、「つまらなさ」だった。
(一生続くのかな、この生活)
社会人3年目、25歳。夕介は早くも人生に飽き飽きしていた。朝9時に出勤し、19時頃に退社する。手取りは月25万円。確かに悪くはない。でも、良くもないではないか。安定とは、時にメリットにもデメリットにもなりうる。「この生活が65歳くらいまで続く」という事実は、夕介にとってデメリットにしか感じられなかった。
「はぁ…」
もはやパフォーマンスとしてため息をついている節もある。周りに対してではない、自分自身にだ。「夕介、お前はこのままでいいのか?」と自らに問いかけるように。
(いや、今はそんなこと言ってる場合じゃない)
夕介は頭を軽くぶるぶると振り、パソコンに向き直った。今はこの資料を完成させないと、いつまでもオフィスで人生を考え続ける羽目になってしまう。上司だって自分を信頼してこの仕事を任せてくれているのだろうし、それに応えたい気持ちはちゃんとあった。
「18:58」
時計を見ないと時間経つのが早い、とはよく言ったもので、気がつくと19時前になっていた。夕介は勢いよくEnterキーを叩いた。パチンという心地よい音がオフィス内に静かにこだまする。
「よし」
今日は20時コースかと覚悟していたが、集中すると意外とすぐ終わるものだ。この時間になると社員も5割くらいは帰宅していて、薄暗くなってきたオフィスにはスーツ姿がまばらに位置しており、よく言えば残業の象徴と言った感じだ。
(さ、帰るか)
夕介は荷物をまとめ立ち上がった。この時間になると流石に心は少し軽くなっている。
「岡嶋、仕事終わった?」
声の聞こえる方を振り返ると、進藤圭也が右足に体重を傾け、いかにも「疲れました」という立ち方で真後ろにいた。進藤は同期入社で、部署もずっと同じなので仲が良い。身長は小柄でおそらく165cmもないだろう。178cmの夕介からすると、毎回視線が少し下になる。
「おぉ、終わったよ」
「俺もちょうど終わったんだよ。飲みに行かねぇ?」
夕介は腕時計をちらっと見る。19時02分。家に帰ってもすることないし、良いだろう。
「いいよ。行こうぜ」
「雪大陸でいいよな?」
「雪大陸」というのは、会社の近くにある居酒屋の名前である。種類が豊富な割に値段が安めで、仕事帰りのサラリーマンの溜まり場となっている。
「うん」
そう頷いてリュックを担いだ夕介の顔を、進藤が覗き込むように見つめてきた。
「え、なに」
「なんかお前顔色悪くね?ちゃんと寝てる?」
「人生について考えてんだよ」
「なんだよそれ」
進藤は茶化しと心配が半々ずつくらいの表情で笑いながら言う。
「まぁそういう話も向こうで聞いてくれよ」
そう言って、夕介たちは薄暗いオフィスを後にした。
「だからさ、たぶんお前はストイック過ぎるんだよ」
「ストイックぅ?」
雪大陸のガヤガヤとした店内に、一際大きい夕介の声が響く。そんな酒に強くないくせにビールジョッキを一気に3分の1も飲み干してしまったので、早くも酔いが回ってきている。
「そう。全部完璧にやろうとしすぎなんだって。だから楽しくなくなるんだろ。適当にやりゃいいんだよ、適当に」
進藤はそう言いながら白菜キムチを箸でつまむ。辛いものが大の苦手の夕介には良さが全く分からないが、ここの白菜キムチは絶品らしい。若干薄汚れているクリーム色の壁にも、「店長おすすめ!」というポップと共に白菜キムチの写真が貼られている。夕介はメニューの中でだし巻き玉子が1番好きなので、もう少しそちらもプッシュしてあげてほしいと思っている。
「適当って言ったってなぁ。面白みを感じられないというか」
「それなりの大企業に入ったのにそれは贅沢だって。この世には生活苦しい人とかもいっぱいいるんだぜ?」
「分かってるけどさ…」
進藤が美味しそうに白菜キムチを頬張っている。そのシャキシャキという音をBGMに、夕介は残りのビールを飲み干した。
「このまま65歳までこの生活が続くのはなぁ」
「じゃあ何か他にやりたいことでもあるわけ?」
正直この言葉を言ってもらえるのを待っていた。そう、夕介には小さい頃から一つの夢があったのだ。
「俺、昔から芸人やってみたくてさ」
「芸人!?」
シャキシャキ音が止まった。
「なんでまた」
「ずっとお笑いは好きだし。自分が作ったもので人を笑わせられるって、良い仕事じゃねぇ?」
「まぁ確かにそうだろうけど」
高校生のとき、今と同じように人生に飽き飽きして、やりたいこともなかった。そんなときに支えてくれたのがお笑いだったのだ。劇場に毎週のように足を運び、何も考えずに笑う。当時の夕介にとって、それはとても大きな時間だった。
「俺もそういう仕事をしたい」
「なるほどねぇ…」
何と言ったら分からないというような戸惑ったシャキシャキ音が再開した。
「お笑いやったことあんの?」
進藤の質問に、思い出すように右斜め上を見る。
「高2のときに、高校生の漫才コンクールに出たことある」
「へー。それはどうだったわけ?」
「準決勝までいった」
若干の誇らしげな表情を浮かべて、夕介はぼそっとつぶやく。
「え、すげぇじゃん」
「でもエントリー数少ないから。予選通ったらすぐ次準決勝だし」
「褒めてほしいのか褒めてほしくないのかどっちなんだよ」
進藤は呆れたようにビールを一口飲む。
「ツッコミ上手いなお前。俺と一緒にコンビ組まねぇ?」
「組まねぇよ」
こうやって笑い合っていると、少し気持ちが整理されてきた。今なら、何だか新しいこともできる気がする。
「進藤はさ、なんか本当はやりたかったこととかないの?」
「本当はやりたかったこと?」
眉をひそめて一瞬考えたような素振りを見せたが、進藤はすぐに首を横に振った。
「ねぇよ別に」
「昔からギターやってるって言ってたじゃん。音楽で食って行きたいとかは?」
「あー」
進藤は少し思い出したような表情をしたが、すぐに「いやいや」というように手をひらひらと動かす。
「音楽は趣味だからさ。それを仕事にしたいとは思わねぇな」
「ふーん。合うと思うけどなぁ」
うちの会社は派手すぎる髪色はNGなのだが、進藤はそのギリギリを攻めているような何とも言えない色の茶髪をしている。偏見だが、とてもバンドによく似合いそうだ。
「てか、本当に芸人になんの?」
そう改めて聞かれると難しいが、夕介の心はだいぶYESに傾いていた。
「やっぱり、このまま人生終わりたくない。だって会社員なんか、上司はもちろん、下手したら後輩にだって気を遣わないといけない。嫌われないようにってさ」
「そういうもんだと思うけどな」
「でも芸人は、そんな余計な気も遣わなくていい。面白いやつが正義なんだからさ」
やっぱり憧れるよ、と夕介はごくりと音を立てて水を飲んだ。酒はこれ以上飲まない方が良さそうだ。
「まぁ確かにな」
進藤のその言葉は、自分の背中を押してくれているように感じた。
【2025年5月4日】
「岡嶋さんって、面白いんですけどなんか尊敬できないというかー」
「一緒にご飯とかあんま行きたくないっすねー」
ひな壇の2列目に座る後輩芸人たちが、若干の遠慮を織り交ぜながら夕介に言葉を向ける。周りの同期や先輩芸人たちは、期待のこもった瞳をこちらに向けてくる。夕介はここぞというタイミングを見計らって立ち上がった。
「おい、俺先輩だぞ!?」
わっと笑い声が広がった。先輩芸人たちも笑ってくれているし、カメラの向こうにいるディレクターが頷いているのも見えた。
(よかった。ウケた)
表面上は不満げな表情を保っているが、夕介の内心は安堵でいっぱいだった。これ以上何も起きないように今すぐ家に帰りたいくらいだ。
「岡嶋ってすぐ調子乗るんですよー」
隣に座っている相方の倉木涼太が便乗して立ち上がる。夕介はその相方の肩を思い切り掴んでやりたい気分だった。せっかく全て上手くいったのに、なぜ失敗するかもしれないリスクを新たに持ってくるんだ。
「この前もね、同期数人で飯行ったんですよ。そのときこいつ、全員同期なのに「ここは俺が出す」とか言い出して」
再び笑い声があちこちから湧き上がる。「かっこつけすぎ」「ダサいわお前ー」のような、進行の邪魔をし過ぎない、流石プロのなせる技といったガヤだ。自分のことを笑われているのに、夕介はそんな分析を冷静にしていた。盛り上がっている現場で、たまになぜかその輪の外側にいる気分になることがあった。「めっちゃ盛り上がってるな」と、少し離れた場所から冷めた目で見つめている自分がいるような、そんな感じ。
「別にいいでしょー!奢ってあげてるんだから!」
はっと我に返り、すぐにいつも通りカメラに向かって言い返す。照明がチカチカと目に刺さり、スタジオの派手な装飾に反射している。
(まぁ、ウケてるからいいか)
周りの芸人のやけに大きな笑い声を聞きながら、夕介はそっと席に座った。
スタジオを出ると、どっと疲れが湧いてきた。これがテレビマジックだろうか。こんなに疲れていたのかと毎回ここで気がつく。時刻は22時を回っており、楽屋へ戻る通路はどんよりとした薄暗さを身にまとっている。ここから夜になっていくのが夕介は嫌だった。せめてこれから朝なら、まだもう少し頑張ろうという気になれるのに。
「お前さー、もっと上手い言い回しできたんじゃねぇの?」
少し前を歩く倉木が、こちらに背を向けたまま不満げな声を漏らしてくる。
「もっと上手い言い回しって…」
「あんな馬鹿の一つ覚えみたいに立ち上がって怒鳴るだけじゃさ、飽きられるぞ?」
そこでようやく倉木は振り返った。短く整えられた黒髪に、黒縁のメガネ。いかにもツッコミというような落ち着いた風貌。そんな見た目で睨まれるとかなり身が引き締まる感じがする。
「今は割と上手くいき始めてるけど、ちょっと油断すればすぐに飽きられて違うやつに取られるぞ。分かってんのか?」
言い方はきついが言っていることはごもっともだ。夕介と倉木のコンビ「太陽定数」は結成7年目で、中堅に差し掛かったあたりと言えるだろう。昨年、多くの漫才師が人生をかけている「TOKYO MANZAI」という漫才コンクールで準決勝に進出したことがきっかけで、少しずつ仕事が増えてきていた。決勝こそ逃したものの準決勝もテレビで全国放送されるので、知名度が一気に上がったというわけだ。こうやってバラエティ番組に呼ばれることもあった。
「分かってるよ。飽きられないように俺だっていろいろ工夫してるし」
「工夫するだけじゃなくて実践しろよ」
ピシャリと言い放たれ、思わず口をつぐむ。何か言い返そうと頭の中でセリフを練っていると、
「お疲れ様です!」
そんな大声で言わなくても、と思うくらいの声量が耳に飛び込んできた。先ほどの収録を一緒にやっていた「モモカステラ」というコンビだ。夕介たちと同じ事務所で4年後輩だが、YouTubeで人気になり今ではテレビ番組にも多く出演している。しかし夕介をいじる流れのときも何も発言していなかったし、テレビの方では苦戦しているのかもしれない。
「おつかれー」
夕介はできるだけ爽やかな笑顔をつくった。モモカステラのボケである畑中宙と目が合い、向こうは若干気まずそうにして通り過ぎていった。
「せっかく挨拶してくれたんだから、お前も返せよ」
さっさと楽屋に入ろうとドアノブに手をかけている倉木の背中を強めに叩く。
「いいだろ別に。後輩なんだから」
「信頼が大事な業界だぞ。後輩に好かれて損することはないだろ?」
倉木は納得できないというように首を傾げると、きーっという音を立てて楽屋の扉を開けた。6畳のほどの大きさにローテーブルとソファが所狭しと置かれており、飲みかけのペットボトルやら何やらが散乱している。夕介も後に続いて中に入った。倉木は悪いやつではないが、少々尖っている。売れるためにはお前だってやるべきことがあるだろう。その言葉を夕介はぐっと堪えた。今は喧嘩している場合ではない。
「はぁ…」
夕介は小さくため息をついてソファに腰掛ける。
(俺の考え方、間違ってないよな?)
さっさと帰る支度をしている倉木の背中を見ながら、心の中でつぶやいた。
【2018年1月20日】
ガラガラという音を立てて、雪大陸の引き戸を開けた。時刻は22時を回っており、すっかり暗くなっている。
「じゃあまた明日な」
進藤と分かれ、夕介は駅の方に向かって歩き始めた。雪大陸から駅まで徒歩5分ほどで、飲みすぎた人間にはちょうど良い距離だ。
(めっちゃ語っちゃったな…)
風に吹かれて若干酔いが冷めてきたのか、無性に恥ずかしくなってきた。しかし、芸人になりたいという思いは本気だった。このままで終わりなくないなら、今何か行動するしかないだろう。
「俺は自由に生きたいんだ」
あえてそう声に出してみた。もちろん、周りの人には聞こえないくらいの声量だが。
駅まであと2分というところで、夕介の足が止まった。右手に望遠鏡専門店が見えたからである。その「スピカ望遠鏡専門店」は、その名の通り天体観測に使う望遠鏡を扱っている店だ。営業は20時までなので当然閉店しているが、外にあるショーウィンドウを眺めることはできる。電気が消えて暗くなったショーウィンドウにひっそりと佇む望遠鏡たちが、いつもより綺麗に見えた。夕介は天体観測が趣味だ。社会人になって初めての誕生日に友達からスマート望遠鏡という小さな望遠鏡をもらい、天体観測の世界にハマった。地球はもちろん、太陽、そして天の川銀河でさえも、莫大な宇宙を構成する1つに過ぎないだなんて、何とロマンのある話だろうか。
(芸人になれば、もっと自由に星も見れるはず)
今は会社が休みの日に家の前で星を眺めるか、お盆休みに望遠鏡片手に山を登ってみるくらいしかできていない。機材はもちろん、星が美しく見える場所に行くのにもお金がかかるし、時間もかかる。芸人になって頑張って売れたら、そのお金でもっと良い望遠鏡を買って、もっと良い場所に行けるではないか。
「ふっ」
笑い声が漏れた。自分でも理想論すぎるのは分かる。芸人として売れる可能性なんて、それこそ宇宙から見た地球くらいちっぽけだろう。だけど会社員だと、そんなちっぽけな夢を見ることすらできないのだ。長い人生、一度くらい夢を見てみたい。
再び歩き出すと、次に気がついたときにはもう駅だった。徒歩5分という距離は、何かを考えたい人間にとっては短すぎたらしい。車内に入るまで待ちきれず、夕介は券売機の端に身を寄せ、スマホを取り出した。
「芸人 養成所」
1番上に出てきたホームページは、キラサギエンターテインメントのコメディスクールだった。キサラギエンターテインメントは大手のお笑い事務所で、TOKYO MANZAIの優勝者も多く輩出している。それが他人事ではなくなる可能性に、夕介は賭けてみることにした。
「エントリーはこちら」
22時09分。運命を変えるボタンを押す音がした。
【2025年5月9日】
赤信号がパッと黄色に変わった。夕介は思わず舌打ちしそうになる。
(急いでんのに…)
ハンドルを握る手がイライラしたように少し揺れる。信号というものはなぜこんなに長いのだろうか。
(何かネタにできないかな)
青、黄色、赤と綺麗に整列している信号機。少し禿げかけている横断歩道の白線。そこを容赦なく踏んでいく歩行者。あの人はなぜあんなに急いでいるんだろう。
「んー…」
余計にイライラしてきた。せっかく待ち時間ができたから、何か漫才のボケを作りたいのに。
パッ。
青に変わった。夕介は仕方なくアクセルを踏みつける。約束の時間まであと10分。こんなところでいつまでも足踏みしているわけにはいかないのだ。
ピロン。
LINEの通知がリュックの中から聞こえてきた。おそらく進藤からのだろう。今日は仕事が珍しく丸々オフの日で、久しぶりに進藤と飲みに行く約束をしているのだ。進藤と会うのは1年ぶりくらい。当たり前だが、会社員時代より会う機会はめっきり減っていた。
「まぁ、間に合いそうだな」
だからこそ夕介は楽しみにしていた。そしてその楽しみを思う存分味わうためにも、到着するまでにネタを作り終えておきたい。それは人間として、芸人として当たり前の感情だろう。
「…」
そういうときに限って何も思いつかないのも、人間として、芸人としてよくあることである。来月には初めての単独ライブがあるので、「1人何本かずつ作るぞ。ちゃんと作ってこいよ」と倉木に言われたばかりだというのに。
結局何も思いつかないまま到着してしまった。夕介はイライラとモヤモヤの中間といったよく分からない感情を抱えたまま車を降りた。急いだせいで駐車が若干斜めになったがもういいだろう。
「久しぶりだな…」
夕介は小さい声でつぶやいた。ビルが立ち並ぶ一角に小さくかけられている「雪大陸」の看板。この看板は毎年薄汚れていっている気がするが、買い換えないのだろうか。そんなことを考えながら、スーッと引き戸を開けた。小さな入口に比して中は意外と広いため、夕介はキョロキョロと店内を見渡す。
「岡嶋、こっちー」
懐かしい声が聞こえる方を見ると、1番奥の4人がけの席に進藤が座っていた。
「おぉ、久しぶり」
夕介は安心したような表情を見せ、ガヤガヤと盛り上がっている大学生のテーブルを横切りながらその場へ向かった。
「髪色明るくなったな」
濃いめの茶髪だったはずの進藤の髪は、黄色を少し混ぜたような明るい色になっていた。
「うちの会社ちょっと規則ゆるくなったんだよ。髪色は何色でもいいんだってさ」
「へー。前はけっこうそういうの厳しかったのにな」
キーッと音を立てて椅子を引く。
「売り手市場って言うし、そういうこともしていかないと新人が来ないんじゃね?」
「なるほどな」
そんなことより、と進藤はニヤニヤした。
「お前めっちゃ売れたな」
「いやー、まだまだだよ」
夕介はタッチパネルとポチポチと操作しながら首を振る。
「テレビもいつも見てるぞ?お前あんないじられキャラになるとはな。意外」
「俺だって意外だよ」
Enterキーでも押すかのように力強く注文ボタンを押す。パネルと指が当たってパチンという音が響いた。
「そうなんだ?狙ってやってるんじゃないのか?」
「生き残るためにやってたら、ああなってたって感じだな」
「ふーん」
進藤はビールを一口飲み、ふむふむと頷いている。
「街中で声掛けられたりする?」
「いやー、ほぼないよ。テレビ出てるって言ってもほぼ深夜のだしな」
何かほかの話題はないかと、夕介は頭をフル回転させていた。こんな芸人の話ばっかりされると、ネタを書けていない罪悪感がせっかくのビールの中にまとわりついてきてしまう。
「てかお前は最近どうなんだよ?」
考えた末に出てきた言葉はこんなありきたりなものだった。
「俺はさ、最近人生考えてるんだよ」
「どういうこと?」
お待たせしました、と20代前半くらいの若い店員が白菜キムチを持ってきた。コトンと心地よい音が鳴る。
「俺、バンドマンになろうと思って」
「え?」
思わずシャキシャキ音を止めてしまった。
「お前が芸人やってるのを見るとさ、俺も好きに生きたくなったんだよな。やっぱり楽しいもんなんだろ?好きなことやるってさ」
「まぁ…そうだな」
自分でも歯切れが悪すぎた自覚はあったが、進藤は気にせず話している。
「趣味でずっとバンドやってたんだけど、メジャーデビュー目指して本格的にやりたい」
進藤の瞳はキラキラしている。見たことがないくらい。俺も7年前に芸人なると宣言したとき、こんな感じだったのだろうか。
「でも、俺らもう今年32だぞ?結婚するとか子ども産むとか考えたら、今からそんなことやって大丈夫なのか?」
夕介の言葉に、進藤は意外そうに目を丸くした。
「お前なら、いいじゃんって言ってくれるかと思ってたよ。だって昔「65歳までこの生活は嫌だ」とか言ってなかったか?65歳に比べたら32歳なんてまだまだじゃねぇか」
「そうだけどさ…」
あのときとは状況は違うんだよ。そう言いたかったがやめておいた。進藤はもう未来に向かって全力疾走してるように感じたからだ。
「というか、今日雪大陸指定してきたのも意外だったなぁ。もっと高いとこ教えてくれるかと思ったのにー」
冗談っぽく肩をすくめる進藤に、なるべく自然な笑みを心がえけながら目を合わせる。そんなに意外意外言わないでほしい。
(まるで俺がすっかり変わってしまったみたいじゃないか)
「懐かしい気分に浸りたかったんだよ。雪大陸全然来てなかったし」
白菜キムチがさっきより辛く感じるのは気のせいだろうか。
「まぁ、やりたいことやるのがいいんじゃない?人生長いんだしさ」
「そうだろ?」
進藤は満足そうにうなずいた。きっとこう言ってほしかったんだろう。経験者なのでよく分かる。
「これ残りいらない?」
半分ほど残った白菜キムチを進藤の方に差し出す。
「お、いいの?じゃあもらうわ」
シャキシャキという音が、いつもより弾んでいる気がした。
【2018年2月5日】
「どんな芸人なりたいですか?」
キラサギエンターテインメント・コメディスクール東京校2階B室。学校の教室くらいの大きさの部屋に、パイプ椅子が10脚ほど置かれている。入った順番的に1列目のど真ん中になってしまったが、やる気に満ち溢れすぎているやつみたいで何だか恥ずかしい。
「どんな芸人…ですか?」
目の前に座っている30代くらいの男性、このコメディスクールの事務長らしいが、妙に威圧感がある。眼鏡の奥の瞳がこちらをじっと見つめていて怖い。そんな事務長に聞かれた質問がこれだった。
「えっと、ライブや劇場で活躍して、みんなを笑顔にできる芸人になりたいです」
ありきたり過ぎただろうか。お笑いの養成所の面接なんてもっと軽い感じの雰囲気かと思っていたが、意外ときっちりとした面接だった。
「なるほど、分かりました」
事務長はメモをとるでもなく、ふむふむという風に頷くと夕介の隣に座っている男性に目を向けた。
「では、町田さんはどうですか?」
町田と呼ばれた男性。年齢は同い年くらいだろうか。面接なのでとりあえず着てきましたと言わんばかりのヨレヨレのシャツに、黒いパンツ。何だか親近感が湧いた。
「僕は、大金持ちになりたいです!ライブでガンガン客沸かして、賞レース獲って、バラエティでも活躍しまくります!」
一瞬で親近感が吹き飛んでしまった。面接でこんなに思い切ったこと言えるなんて。いや、これが芸人というものなのか?夕介は関心すると同時に感銘も受けた。
(そうだ。俺もこれくらい強い気持ちでいないと)
スっと背筋が伸びる。不自然でない程度にそっと周りを見渡してみた。ここにいる10人は、合格すれば同期になるというわけだ。見た感じ夕介と同じ年が少し上くらいの人が多く、みんな思いきって会社をやめる決断をしてきたのだろう。「このままでは嫌だ」という感情は自分だけではなかったのだと夕介は安心した。
「はい、では面接は以上になります。2週間以内に結果通知を郵送いたします」
気がつけば10人の面接はあっという間に終わった。やはり体は緊張していたのか、すっと呼吸が楽になった感覚があった。
「頑張ろうな」
町田が握手を求めてきた。こうやって向き合うと、意外と整った顔をしている。キリッとした眉と目がかっこいい。
「あ、うん。頑張ろう」
まだ合格してもいないのに何を頑張るのだろうとは思ったが、こうして話しかけてくれるのは嬉しい。夢に向かって一歩踏み出せている感じがする。
「まぁこの面接はほとんど受かるらしいし、俺らもいけるだろ」
町田の言う通り、ネット情報によればこの面接の合格率は99%らしい。よほど会話が成り立たない場合以外合格するのだろう。
「そうだな」
ほとんど入学できるということは、つまりライバルも多いということ。
「楽しみだな」
心の底から夕介はそう思った。
「マジか。ほんとに受けてきたんだ?」
翌日の社内。昼休みに食堂から戻ってきた進藤に突撃し、昨日のことを少し得意げに話している。
「おぉ。意外と普通の面接って感じだったわ」
「そうなんだな。一発ギャグ見せろとかは言われねぇんだ」
「うん。マジでそういうのなかった。なんか拍子抜け」
物足りなさそうな素振りを見せているが、正直一発ギャグを見せろなんて言われなくて良かった。初対面だらけの空間で一発ギャグをやるほどのメンタルは、夕介はまだ持ち合わせていなかったからだ。
「受かったら仕事やめんの?」
進藤は声を少し落とす。
「もちろん」
少し離れたところで、昼休みにも関わらずパソコンとにらめっこしている部長をちらっと見ながら夕介は頷く。
「そのために芸人になるんだからな」
「そうだよな。でもすげぇなお前」
進藤は心底尊敬する、と言った表情を見せた。
「進藤も好きなことやったら?」
「いやー、俺はいいって。俺は安定した収入ほしいし」
「そう?」
いつもは無機質に見えていたExcelの表が、今日は心なしか優しく見える。
パチッ。
Enterキーを静かに叩くのはいつぶりだろうか。
【2025年5月9日】
ここ数年、全く星を見ていない。最後にしっかり見たのなんて、社会人時代ではないだろうか。ネタ作りや、最近ではテレビ収録やライブで忙しいというのももちろんだが、
(天体観測なんて俺のキャラらしくないしな)
これが1番の理由だった。天体観測なんて面白みのない趣味、話のネタにもならないし、周りの芸人だっていじりにくいだろう。それなら「パチンコで10万負けました!」なんて元気よく言った方が、まだ撮れ高になるというもんだ。
「ここ新しくカフェできたんだな」
雪大陸から駅に向かってる最中、右手に「NEW OPEN」と書かれたカフェを見つけた。駅チカで競争率が高いからなのか、この辺りの店は頻繁に入れ替わっている。
(昔ここ、望遠鏡専門店あったよな…)
何ていう名前だっけ。もう何年の前も話なので思い出せない。
(まぁいいや)
夕介はそのカフェの扉を開けた。ガチャっという澄んだ音が鳴り、真新しい店内が顔を覗かせる。23時まで営業しているらしく、今は21時半くらい。オープン直後とは言え流石にこの時間にはお客さんが少ないようで、奥の席でサラリーマン風の男性がパソコンを触っているだけだった。
「いらっしゃいませ。1名様ですか?」
厨房の奥から男性の店員が出てきた。40代くらいだろうか。決してイケメンではないものの清潔感があって雰囲気も柔らかく、良い意味で年相応のかっこよさを手に入れているように感じた。
「はい、1人です」
「ではお好きなお席へどうぞ」
カウンターとテーブルを合わせても、15席前後だろうか。そこまで広くはない店内だが、お好きなお席へどうぞと言われると迷ってしまう。数秒考えた末、夕介はサラリーマンとは反対側の端にあるテーブル席に座った。懐かしい香りのする木の椅子にはクッションが敷かれていて心地良い。
「あ、ありがとうございます」
店員が持ってきた水を1口飲みながら、机の右端に置かれているメニューを手にとった。
『明日に光るカフェオーレ』
『夕焼け色のオレンジジュース』
小説でも読んでいるのかと錯覚するほどのオシャレな文字たちが佇んでいる。暗めの空間にオレンジ色の電灯がぼんやりと光っている、そんな店内の雰囲気も相まって、非日常空間に来ているような気分になった。
「ご注文はお決まりですか?」
「あ、じゃあこのカフェオーレで」
明日に光る、という部分を読むのは何となく気恥ずかしく感じ、夕介はメニューの文字を指さしながら注文を伝える。
「かしこまりました。少々お待ちください」
コツコツという靴の音が少しずつ遠くなっていく。この、飲食店で注文してから届くまでの時間が、夕介はあまり好きではなかった。自由時間なのに自由ではないような、何かに縛られているような窮屈さを感じるからだ。
(明日の収録はウケるかなぁ)
そして、こんな余計なことも考えてしまうからである。何となく休憩したい気分になったのでカフェに入ってしまったが、明日は朝早くからロケがあるので本当は早く帰って寝なければならなかった。明日のロケは体を張るタイプの番組なので体力もいるというのに。
(さっさと飲んで早めに帰ろ)
コツコツという音が再び近づいてきた。
「お待たせ致しました。明日に光るカフェオーレでございます」
そんな言葉とともに目の前にコトっとカップが置かれた。赤いカップ、でも赤過ぎない落ち着いた色をしている。中の茶色のカフェオレと合わさって、バレンタインデーに渡すようなチョコレートを一瞬連想した。
「ありがとうございます」
夕介は笑顔でそう言って、カップの中身と目を合わせる。小さく揺れているカフェオレの波が、オレンジの照明に反射していて綺麗だ。明日に光るカフェオーレという名前はここから聞いているのだろうかと夕介は想像する。
(うまっ)
思わず声を漏らしそうになった。今までに飲んだカフェオレの中で1番美味しかった。上手く言えないが、コーヒーとミルクのバランスがちょうどよく、口の中で程よい速さで溶けていく。何とも言えない安心感があった。夕介が、日常で求めている安心感。まさにそんな感じだった。
「はぁ…」
ため息でカフェオレが揺れる。自分の明日は光っているだろうか。明日も体を張って全力で頑張って、後輩に笑われるのだろうか。
「もうすっかり暗いねー」
「ほんとだね。あ、見て、満月だよ」
そんな声がぼんやりと聞こえてきた。カフェの窓からスーツ姿のカップルが見える。仕事帰りにデートをしているのだろう。ほんの7年ほど前まで着ていた自分のスーツを思い出す。あの頃は社会人3年目で、スーツにも慣れてむしろ毎日着るのがめんどくさく感じていたっけ。
(元気だな…)
一際大きなカップルの笑い声が聞こえ、次第に遠くなっていく。あのカップルはこの時間のために仕事を1日頑張り、そして1週間頑張り、楽しい土日を過ごすのだろう。
(あれ)
ふと何とも言えない胸のざわめきに襲われた。カップがカタッと音を当てて机に置かれる。
(俺は、何のために頑張っているんだろうか)
そもそも、なんで芸人になったんだっけ。自由に生きたいからではなかったのか?今の自分は、自由に生きられているのだろうか。不規則な仕事時間、そして仕事のない日でもネタのことを考えキャラのことを考え、趣味なんてろくにできていない。
『あ、見て。満月だよ』
あんな風に、月や星を見て息抜きができる生活、会社員時代の方ができていたのではないか?甘えなのは分かっている。仕事をもらえていることがありがたいことなのは分かっている。それでも、
(なんか疲れたな)
そう思わずにはいられない。そしてその感情を振り払うかのように夕介は首を振った。何言っているんだ。明日も早いのに、こんなことを考えている場合ではない。会計をしようと立ち上がった夕介に、甲高めの声が降り注いできた。
「あの、すみません。太陽定数の岡嶋さん、ですか?」
振り返ると、先程まで端でパソコンを触っていたサラリーマンの男性がすぐそばにいた。
「あ、はい。そうです」
「僕のこと覚えてますか?」
「え?」
夕介はその男性の顔をまじまじと眺めた。何とか邪念を振りほどいた直後に新たな疑問を出してこないでほしいものだが、少し考えると脳内の記憶と一致した。
「あ。もしかして、宮崎?」
【2018年4月2日】
ステージの照明がパッと明るくなり、ステージの中央に置かれた画面に「キサラギコメディスクール 入学式」の文字がぼんやりと浮かび上がった。それと共に夕介の心臓もどくんと高鳴る。ここはキサラギエンターテインメントに併設されている劇場で、所属芸人たちがライブを行う神聖な場所である。そんな場所で、第31回キサラギエンターテインメント・コメディスクール入学式は行われた。
(やっぱり人数多いな)
合格率99%という噂は本当だったのだろう。劇場の客席に所狭しと座っている入学生は、ざっと300人はいそうだ。夕介は客席全体をそっと見渡す。1番右端の列の3番目に位置している夕介の席は、観察にぴったりな場所だった。お笑いの養成所の入学式と言えど周りはみんな普通の若者といった感じで、夕介は大学の入学式を思い出した。男女比が9:1くらいという点が大学とは違うところだろうか。
「みなさん。おはようございます」
前方からはつらつとした声が聞こえ前を向き直すと、いつの間にかステージ上には事務長が立っていた。面接をしてくれたあの威圧感のある人物である。改めて見ても、オーラとはまた違う、何かの責任をしっかり背負っているかのような覚悟の決まった顔つきをしている。怒っているのかと思うほどだ。
「この度は、キサラギエンターテインメント・コメディスクールへの入学、おめでとうございます」
ぼーっとしても耳にしっかり入ってきそうなハキハキとした声が劇場内に響く。
「こんにちは。私は事務長の黒木と申します。よろしくお願いいたします」
90度に頭が下がった。綺麗なお辞儀だなと誰もが思ったことだろう。
「まぁ、先ほど「こんにちは」と言いましたが、今後はこの言葉は言いません」
事務長はここで始めて軽く笑った。イメージ通りの白い歯が顔を覗かせた。
「芸能の世界では、どんな時間でも挨拶するときは「おはようございます」と言います。みなさんは、もうお客様ではなく芸能関係者、つまりこの世界の仲間ですので、これからはおはようございますと言おうと思います。改めて、おはようございます」
良い意味で背筋がゾクっとした。「もうお客様ではなく芸能関係者」。なんて心地の良い言葉なんだろう。芸人への道を一歩踏み出したのだと改めて思わされた。
「後ほど教室へ行っていただいて、このスクールや授業のことを詳しく説明いたします。その際に相方探しの会も行いますので、ぜひご参加ください」
(相方探し…)
夕介の胸が再びどくんと鳴る。そうだ、漫才をやるのなら相方を見つけなければ。もう一度劇場全体を見渡してみる。真剣な面持ちで座っている人ばかりで、誰がボケなのか誰がツッコミなのか、誰が面白いのか、もちろん何も分からない。そして自分自身が芸人としてどんな人物なのかも、夕介は分かっていない。
案内された教室は、小さめの体育館といった印象だった。ツルツルとしたクリーム色の床に足を乗せるとキュッと良い音が鳴った。周りの壁には一面鏡が貼られていて何だか落ち着かない。ダンスや演技の授業もあるそうなので、そのときに使うのだろう。
「教室に入るときは、入口でまずよろしくお願いしますと言ってください」
案内してくれた女性のスタッフが、ぞろぞろと教室に入ろうとしている入学生の波に向かって言う。事務長とは違って優しそうな顔立ちで、ゆるめのポニーテールがよく似合っている。
「おはようございます」
その波の先頭にいる男性が放った挨拶は、「もっと大きな声で」という声にかき消された。男性は金髪で、黒いオーバーサイズのパーカーを着て手はそのポケットに突っ込まれており、偏見だがいかにも挨拶が嫌いそうな見た目をしている。さっき劇場を見渡したときには気が付かなかったが、こんな尖った人もいたのだと夕介は思った。
「おはようございます」
「もっと」
「おはようございます」
「もっと」
優しそうな顔をしながら意外と厳しい。これが養成所かと固唾を飲んだ。
「おはようございます!」
「うん、まぁOK。次からはもう少し大きな声で言ってくださいね」
ようやくOKを出してもらえたその男性は、気だるそうに教室に入って行った。
「おはようございます!」
「おはようございます!」
先ほどの一連の流れを見てみんな気持ちが入ったのか、野球部かと思うほどの元気な挨拶が続いていく。そして夕介の番になった。
「おはようございます!」
「もうちょい」
良い流れを止めてしまった。全力を出したつもりだったのだが、学生時代ずっと天文同好会に入っていた夕介は大きな声を出す習慣などないのだ。
「おはようございます!」
声はお腹から出しましょうと小学生のとき先生に言われた気がするが、そんなのは無視して思い切り喉から叫んでいる。後ろにまだぞろぞろといる状況で、誰が呑気に腹式呼吸などやってられるのだ。
「うん、OK。入ってください」
2回目で合格できたので良しとしよう。中に入り適当な床に座ると、先ほどの先頭にいた男性が隣にやってきた。
「おはよう」
とりあえず挨拶すると、ニヤッと笑っている。
「なぁ、お前も挨拶やり直しさせられてたな」
こう正面から顔を見てみると、まだ顔立ちが幼く感じた。年下だろうか。金髪の頂上からは黒い髪が顔を出し始めており、妙なこなれ感もあった。
「そうだね」
「てか大きな声で挨拶とかだるくね?小学生かよ」
足をだらんと伸ばしてあくびしている。全く緊張感を感じられず、かなりマイペースな性格らしい。
「まぁ、挨拶は大事なんじゃないか?まぁでも、あんなにやり直しされたらだるいよなぁ」
「名前なんて言うの?」
せっかく捻り出したフォローが綺麗に無視されたのには多少イラッとしたが、同期とは仲良くしたいので切り替えることにした。
「岡嶋夕介」
「何歳?」
「25」
興味があるのかないのか分からないような表情をしている。そして軽くニヤッと笑うと
「俺は倉木涼太。20歳」
両手で「2」と「0」を作った。
「大学やめて来た感じ?」
「そうそう。つまんなくてさ」
そう言ってスマホをいじり始めた。次の質問も一応考えていたのだが、口から発せられないまま手持ち無沙汰になる。
「いやー、ダチからLINE来てさ」
そんな夕介の心情を気遣うかのように、倉木はスマホを少し上に掲げて見せた。
「そうなんだ。全然いいよ俺は」
初対面のマイペース人間と話すのは難しい。そんな葛藤をしていると、先ほどの女性スタッフが前に立っていた。
「みなさん。改めてご入学おめでとうございます。A組とB組の担当をさせていただく、前川と申します。普段は劇場のスタッフとしても働いています」
前川さんも言っていた通り、この養成所は人数が多いためA組~D組にクラス分けがされるらしい。そしてこの場所にいるのがA組とB組というわけだ。入学式のときは若者だけかと思っていたが、今こう見てみると40代50代っぽい人も数人いる。子育てを終えて、自分のやりたいことに挑戦したくなったのかもしれない。
「まず、授業の内容を説明しますと、週5日、1日3コマ程度の授業があり、6月からはネタ見せの授業が始まります」
入学式前にもらった資料を見れば分かるようなことを淡々と説明している。それでも夕介はワクワクしていた。この空間にいられることが嬉しかった。
「では、今から相方探しの会を行います」
10分程度の学校説明が終わると、前川さんは「お待たせしました」というように笑った。空気が軽くざわざわし始める。
「ここにいるみなさんで、まずは自由に動いていろんな方とお話してみてください。良い方がいればコンビ結成を申し込み、了承されればコンビ申請を事務局にしてください」
婚活パーティーみたいなシステムだなと夕介は思った。周りがガヤガヤと張り切ったように立ち上がり始める。みんな漫才やコントがやりたくて入った人がほとんどだろうし、是が非でも早くコンビを組みたいのだろう。そしてそれは夕介も例外ではない。
「また後日、別のクラスとの相方探しの会も行いますので、ゆっくり探してくださいね」
その言葉を皮切りに、一斉に足音が鳴り響き始めた。
(どうしよう…)
夕介はガヤガヤしている場所にいると、なぜかその輪の外側にいる気分になることがある。外側から冷めた目で眺めている自分がいるのだ。しかし今はそんな気分になっている場合ではない。とりあえず動こうとすると、
「コンビ組む?」
先ほど聞いたばかりの声が聞こえてきた。隣にいる倉木がまっすぐこちらを見ている。
「え?」
「探すの大変だし、なんかお前とは気合いそうな気がしたし」
名前と年齢の話しかしてないはずだが、何を感じてくれたのだろうか。
「いや、でもまだ誰とも話してないしな…」
ただ正直、組んでもいいかなという気はしていた。自分に強い個性がない分、独特な雰囲気を持つ倉木と組めばバランスが良くなる気がしたからだ。
「あ、そこもうコンビ決まった感じですか?」
おそるおそる、と言った感じの声がして振り返ると、夕介と同い年くらいの男性が後ろに経っていた。シャツにジーパンというあっさりとした格好だが、薄めの顔立ちのおかげなのかとてもオシャレに見える。
「いや、まだ決まってはないですね」
夕介がそう言うと、安心したような表情を見せる。
「じゃあ僕もお話していいですか?僕は宮崎大和と言います」
宮崎と名乗ったその男性は爽やかに笑った。好青年、という言葉がぴったりだ。
「岡嶋夕介です。よろしくお願いします」
「倉木でーす」
こうやって自己紹介し合うのなんて学生時代ぶりじゃないだろうか。無性に懐かしい気分になる。
「よかったらこの後みんなでご飯行きません?」
一通り自己紹介を終えたあと、宮崎がそう提案してきた。周りを見渡すと早くもコンビを結成した人もいるようで、輪ができ始めている。
「いいですね。行きましょう」
とりあえずこの空間に馴染むことはできそうだ。倉木の澄まし顔と宮崎の笑顔を見ながら、夕介はそう思った。
【2025年5月9日】
「あ。もしかして、宮崎?」
驚きと懐かしさが混じった声が、カフェの中に流れる。
「そう、宮崎大和だよ。覚えてくれてたんだね」
宮崎はあの爽やかな笑顔を見せた。
「めっちゃ久しぶりじゃん」
最後に会ったのは養成所時代だ。同い年なこともあってけっこう仲良かったのだが、養成所を卒業して以降、劇場でもテレビでも会うことはなかった。
「今何してんの?」
驚きと懐かしさはシンプルな疑問へと変わった。そして今度は宮崎が懐かしげな瞳をする。
「実は、僕2年目のときに芸人辞めたんだよね」
「え、そうだったの?」
2年目と言えば、夕介がまだバイトに明け暮れていたときだ。辞める辞めない以前に、芸人に向いているか向いていないかすらも何も分からず、ただがむしゃらにバイトをして稼いでいた頃。そんなときに、宮崎はもう辞めていたんだ。
「なんで?」
「うーん」
宮崎は困ったような笑っているような顔をする。
「なんか上手く言えないんだけどさ、僕の人生これじゃなかったかなって」
「どういうこと?」
「夢を追い続けるような人生を歩みたかったんだけど、安定しない、何が起こるか分からない道を選ぶことだけが、夢を追うことではないと思ったんだ」
7年前の養成所時代の自分なら、絶対にこの言葉の意味は分からなかっただろう。だけど今の自分なら、何となく分かる気がする。むしろ最近ずっと心のどこかで考えていたことなのかもしれない。
「今はメイクアップの仕事してるよ。人をキラキラさせてあげる方が僕は好きだったみたい」
「そうなんだ」
人をキラキラさせて上げる方が好きと言いながら、宮崎自身もとてもキラキラしているように感じた。
翌朝。テレビ局に招集された夕介は、目の前に佇む真っ赤な料理に固唾を飲んでいた。
「さぁ今回の激辛料理は、なんと17種類の激辛スパイスを調合した特製スープが使われているラーメンです!」
人の気も知らないで、若い男性のアナウンサーが真っ赤な物体を眺めてテンションを上げている。
「太陽定数の岡崎さんは、完食することができるのでしょうか!」
「こいつならやってくれますよー」
応援隊として呼ばれている倉木が横でパチパチと手を叩く。こちらも人の気も知らないで。
「絶対に完食してみせます!」
意を決して、箸でその真っ赤な麺を掴んだ。夕介は昔から辛いものが大の苦手だった。しかし芸人として、「辛いものが苦手なので激辛料理食べられません」は、仕事が減るだけなのだ。特に夕介みたいなキャラはそうだ。なので夕介は、数年前から辛いものを食べる訓練をしていた。そこまでやっているのだ。絶対に爪痕を残さなければならない。しかもこの番組は来月ゴールデンタイムに放送される。
「いただきます」
麺に真っ赤なスープが絡みついている。器で待機しているなるとやメンマも信じられない赤色をしていた。もう全てを見ないようにして、夕介は思い切り麺をすすった。
「!?」
17種類のスパイスが一気に舌や喉を刺激する。いや刺激するなんてレベルじゃない。口の中に入った瞬間麺やスープは鋭い刃となり、容赦なくその矛先で刺してくる。
「ゴホッゴホッ」
当然のように激しくむせた。「こんなもの口に入れるな」と言わんばかりに体が全力で拒否してくる。周りのアナウンサーやスタッフ陣はそんな夕介を見て楽しそうに笑っている。ウケているのは良いことだが、それを喜ぶ余裕はなかった。
「あれくらい完食できただろ」
楽屋のソファにあぐらを組みながら、倉木が不満そうに睨んでくる。
「ごめん。でも無理だってあれは」
夕介は申し訳なさと気まずさと「しょうがないだろ」という開き直りとが合わさり、ソファの前に立ち尽くしていた。
「爪痕残すチャンスだったのにな」
ため息をつきながら、倉木は眼鏡をくいっと持ち上げた。意外と白い肌に黒髪と黒縁眼鏡がくっきりと浮かんでいる。
「じゃあお前ならできたのかよ」
気がつくとそんな言葉を口走っていた。倉木は眉を少し上げる。
「いつもこういう体張る系は俺ばっかりで。そりゃキャラ的に仕方ないのは分かるけど、それでも責めるだけじゃなくて、たまには労いの言葉かけるとかそういうのできないわけ?」
一度口を出た言葉は止めることができない。開き直って最後まで言い切った夕介は、軽く肩で息をしている。
「何だよ急に」
「俺は頑張ってるんだよ。キャラのこと毎日考えて、ネタも書いて」
「そんなの俺もだよ」
「分かってるよ!」
一際大きな声が出てしまった。楽屋の外に聞こえていないか心配になって少し声を落とす。
「倉木も頑張ってるのは分かってるよ。でも俺も頑張ってるんだよ。ちょっとは認めてくれよ。昔のお前はもっと、自由なやつだったじゃねぇか」
窓が風に揺られてカタカタと音を立てている。その先に映るそとの景色はやけに青空で腹立たしい。
「もう疲れたよ、俺」
八つ当たりなのは分かっている。別に倉木が憎いわけではない。自分が勝手に自分と未来に期待して、勝手に裏切られているだけだ。
「うるせぇよ」
静かな低い声が楽屋内に響いた。倉木がわなわなと肩を震わせている。
「お前まで俺を否定してくんじゃねぇよ。俺は全部いろいろと考えてるんだよ!」
倉木はガタンと音を立てて立ち上がり、手元にあったペットボトルをこちらに向けて振りかざしてきた。
【2018年6月3日】
講師がわざとらしくため息をついた。夕介は倉木と顔を見合わせる。
「正直ね、何にも面白くない」
そんな世界一冷たい言葉が、壁一面の鏡にこだまする。順番を待つ他の同期たちが気まずそうに顔を下げた。
「初めてのネタ見せ授業だし、ちょっとは甘めに見ようとは思ってるけど、流石にねぇ」
この小太りの講師は、長らく漫才作家をやっている人らしい。TOKYO MANZAIを初めとするたくさんの賞レースの予選審査員を務めている人物。もちろん凄い人なのは分かっている。
「こんなにセンスないとはねぇ」
ここまで言う必要はあるだろうか。それともこれが養成所、そして芸人の世界というものなのだろうか。
「漫才ってね、言っちゃえば大喜利なのよ。お題に対してどれだけ面白い答えを言えるか、つまり面白いボケを言えるか。それが漫才なの。分かる?」
「…はい」
右横をちらっと見ると、倉木は講師と一切目を合わせず下を向いていている。
「君たちの漫才は、大喜利として答えが弱すぎる。まぁ設定も面白くないからそもそもお題が面白くないわけだけど、それ以上に大喜利のセンスない。致命的だよこれは」
夕介と倉木、そしてその前にこの後ネタ見せを控える同期たちが4列に並んで座っており、その後ろに講師がいるので4mくらいは離れているのだが、まるで耳元で囁かれているような気分だった。
「次はもっと真面目に、しっかり考えて作ってきてください」
そうピシャリと言い放つ。
(真面目に考えたんだけどな)
ネタ見せの授業が決まってから、ファミレスで倉木と話し合いながら考えたあの時間は何だったのだろうか。言い合いもしながら、でもそんな時間も楽しくて、いつもよりドリンクバーが美味しく感じた、あの時間。
「聞いてる?」
「…あ、はい。すみませんでした。次はもっと頑張ります。ありがとうございました」
せめてもの反抗としてお辞儀の角度を気持ちばかり浅くした。まぁ何の意味もないのだが。倉木に関しては会釈すらせず、スタスタと元の位置に戻っている。同期の列の中に座り、横を見ると倉木が体育座りをして俯いていた。マイペースでのほほんとしたやつだと思っていたが、意外と繊細なのかもしれない。そんなことを考える夕介だが、夕介自身も今は慰めてやる余裕はなかった。
「2番。スプリンクラーです。よろしくお願いします」
次のコンビが立ち上がり、手を挙げて自己紹介をする。少し皺の入ったスーツを着た男性と、柄シャツをゆるく着こなしている男性のコンビ。
(あっ)
あのスーツの男性。どこかで見たことがある。
「どうもー。町田と村西で、スプリンクラーです。よろしくお願いしまーす」
そうだ。町田。面接のときに隣にいて、握手を求めてきた人だ。相方探しの会のときには見かけなかったので気が付かなかった。あの人も入学したんだ。
「俺ファミレスの店員やってみたいんだよねー」
柄シャツの男性、村西がよく通る声で話し始める。派手な柄シャツなのにきっちり整えられた黒髪なのが少しマッチしていないように夕介は感じた。
「いいじゃん。じゃあ俺お客さんとして行くから、ファミレスの店員やってな」
(この設定も別に面白くないじゃん)
そんなことを考えてしまう自分が嫌だ。こんなに性格悪かったっけ。
「いらっしゃいませ。1名様ですか?」
「はい、そうです」
「僕もです」
「お前も客かい!」
ボケとしてはそんなに斬新なものではないが、村西のよく通る声と町田の鋭いツッコミが上手くマッチしている。「ふふっ」という抑えたような笑い声が同期の中から聞こえてきた。
「ありがとうございましたー」
ネタ時間の上限2分ちょうどぴったりくらいで、2人は頭を下げた。スプリンクラーだけではなく、同期全員が講師の言葉をドキドキしながら待っている。
「うん。まぁいいんじゃない?」
講師から発せられた言葉は、先ほどよりだいぶ柔らかかった。
「まだ荒い部分は正直あるけど、声も出てるし笑えるボケもあった。ここからもっと練習していけば良くなる気はするね」
「ありがとうございます!」
2人の嬉しそうな顔を夕介は見ていられない。
(何が違うんだよ)
そんなことを思ってしまう。同期で、まだ入学して2ヶ月。初めてのネタ見せでそんなに差がついているものなのか?自分たちには才能がないということなのか?倉木は相変わらず俯いていて顔を一切上げない。講師の言葉を、倉木はどう思っているのだろうか。
「漫才って大喜利なのかなぁ。ちょっと違うと思うんだけどな」
ネタ見せ終わり、近くのファミレスで、夕介は倉木に向かってなのか独り言なのか分からない声量でつぶやいた。このファミレスは養成所の近くにあり、客の8割型が養成所生で埋められている。大きなコの字の形をした店内なので死角も多く、ネタ合わせにもぴったりだった。実際に、薄めの茶色の壁紙で覆われた店内には、漫才の練習をしているのであろう小声が共鳴している。
「なぁ、聞いてる?」
目の前で肘をついてぼーっとしている倉木に向かって言う。金髪の先が、心なしか元気がなくしなっとしている。
「聞いてるけどさ」
倉木はちらっとこちらを見てから、机に突っ伏して顔を埋める。
「あんなに言わなくてよくない?」
机にぶつかって籠った声が聞こえる。
「確かにな」
次の授業に向けてのネタ作りという体でファミレスに来たのだが、自然と今日の愚痴になっていく。
「初めてのネタ見せでさ、何も分からない養成所生だよ?経験だってないのに」
「うん…」
夕介はうなすぐことしかできない。「そうだよな」と共感と「俺らが悪いのかもな」という反論が入り交じっていた。
「その後にやってたスプリンクラー?だっけ。と何が違うの?俺らの設定旅館だよ?ファミレスと設定のクオリティ何が違うんだよ」
酒でも飲んでいるかのように倉木の声は大きくなっていく。
「そうだよな。でもツッコミ上手かったよな、スプリンクラー。ボケも聞き取りやすかったし」
「まぁそうだけど…」
夕介と倉木のコンビ「太陽定数」は、倉木がボケで夕介がツッコミだ。倉木の自由な感じがボケに向いていそうに見えたからである。
「俺のツッコミが駄目だったのかなぁ」
「いや」
倉木は勢いよく顔を上げた。そばにあるオレンジジュースのコップに当たりそうで夕介は一瞬ヒヤッとした。
「お前はボケの方が向いてるのかもしれない」
「え、俺が?」
予想外の提案に変な声が出た。自分は喋りが上手いわけでも個性が立っているわけでもないので、ボケには絶対向いていないと夕介は思っていたのだ。
「なんか、いじられる素質ありそうだぜ。体けっこうデカいし、いじられて反論するとか向いてそう」
体の大きさが関係あるのかは分からないが、倉木は真剣な目つきをしている。
「そうかなぁ。じゃあ交代してみる?」
「うん。いろんなこと試そ。俺もう怒られたくないんだよ」
倉木は少し語気を強めて俯いた。
「でも養成所だし、絶対に二度と怒られないのは無理じゃない?」
「嫌だ」
小さな子どものように倉木はぶんぶんと首を振る。
「俺小さい頃から親に怒鳴られまくってたから、もうトラウマなんだよ。怒られたくないんだよ」
「…そうなんだ」
何とも言えない重苦しい雰囲気が流れる。どうにかこの空気を打破しようと口を開きかけたが、良い言葉が見つからない。
「俺太陽定数ってコンビ名けっこう気に入ってるし」
結局倉木が沈黙を破る。
「確かに。語感良いもんな」
「語感もそうだけど。何だっけ。太陽定数の本来の意味」
「地球が太陽からもらっている、1平方メートル辺りの光と熱の量、的な感じ」
脳内の記憶の引き出しを探りながら答える。
「そう。なんかかっこ良くね?太陽っていうめっちゃ大きなものから光をもらって自分なりに輝いてる感じ」
「そうだな」
思ったより詩的な解釈が出てきて驚いたと共に、夕介は嬉しかった。太陽定数は、天文系の用語の中で夕介が1番好きな言葉だった。
「なんかロマンあるよな。実はしっかり計算されて、ベストな量の光と熱をもらって、ちょうど良いバランスで輝いてるわけで」
「うん」
倉木はうなずいて、オレンジジュースを一口静かに飲み込んでいる。
「俺は、このコンビ名に見合うくらいの芸人になって、売れて認められたい」
「わかった。頑張ろう」
倉木は金髪の先を掴んでこちらに見せてきた。
「とりあえず俺ツッコミになるわ。で、ツッコミらしくするために見た目も変える。黒に染める」
「マジで?」
また変な声が出た。金髪はかなり似合っていると思うのだが。
「うん。認められたいから」
決意とも自分への言い聞かせともとれる言い方で、倉木は静かにつぶやいた。
【2025年5月9日】
パサッ。
倉木の振りかざして投げたペットボトルは、壁にくたっと置かれてあるリュックにぶつかり、床に転がった。
「俺を否定するな。もううんざりなんだよ」
コロコロと転がるペットボトルを見つめながら静かに言う。
「別に否定してないよ」
夕介も同じくらい静かに言った。微妙な空気が楽屋内に流れる。
「俺は、倉木のこと大事に思ってる」
沈黙を破るのはいつもだいたい倉木だったが、今回は夕介が先に口を開いた。
「お前の母さんとか、あと養成所の講師とかは、お前のことあんまり考えてなかったかもしれない。でも俺は、倉木と、太陽定数のことをいつも考えてるんだよ」
倉木は黙って下を向いている。
「倉木も、太陽定数のこといつも考えてくれてるだろ?」
ペットボトルがテーブルの足にぶつかって止まった。2人の間を取り持ってくれているかのように。
「…なのに、なんでこうなっちゃうんだよ」
この嘆きは今日に対してだけのものではない。ここしばらくずっと笑って会話することはなく、倉木が夕介に対してきつく注意するか、夕介が言い返して倉木が黙るか。そんなことがずっと繰り返されていた。
「岡嶋はさ」
ずっと下を向いていた倉木が、ちらっと目線だけこちらに寄越す。
「こんな芸人になりたかった?」
いつもの強い言い方ではない、穏やかな、少し震えているような声だった。
「…どういうこと?」
「毎回いじられて、体張って、つっこまれて。最近だと漫才やってる時間よりそういう時間の方が長くて。岡嶋はそれを目指してたのかなって」
沈黙が流れる。夕介は何と答えたらいいのか分からなかった。というよりも、何か答えたら人生が変わってしまう気がした。
「それプラスもちろんネタも考えないといけなくて、正直ずっと、岡嶋が楽しそうに仕事してるなって感じたことなかった」
「…そうなのかな」
ようやく出た言葉は、そんな曖昧な響きだった。しかしそれが本心だった。ずっとモヤモヤしていたことが、ずっと1番そばにいた人によって言語化された感じだ。
「太陽定数ってさ、どういう意味だっけ」
「え?」
倉木が急に遠くを見つめるような顔をする。
「地球が太陽からもらっている、1平方メートル辺りの光と熱の量」
「なんで太陽定数をコンビ名にしたんだっけ。なんか、めっちゃピンと来た理由があった気がするんだけど」
太陽定数…。そもそもいつ決めたんだろうか。養成所の相方探しの会で知り合って、そのあとファミレスに行って。7年間の記憶がごちゃごちゃになって脳内を泳いでいる。
「何だったっけな」
「それに似合う芸人になりたいって決意したんだけどな。もう忘れちゃったな」
倉木は寂しそうにつぶやいた。
「思い出せない時点で、もう俺ら無理なのかもな」
『明日に光るカフェオーレ』
『夕焼け色のオレンジジュース』
何度読んでも小説のようなメニューだ。夕介は再びあのカフェを訪れていた。来るのは2回目だが、木の香りやオレンジ色の照明が何だか懐かしい気分にさせてくれる。
「ご注文はお決まりですか?」
「あ、またあとでお願いします」
遠ざかっているコツコツという音と共に、夕介はさらにページをめくってみる。
『初恋色のレモンティー』
『あの日の桜のピーチティー』
ここは紅茶のページらしい。夕介は紅茶は普段飲まないので、ページをゆっくりとめくる。
「ふぅ」
考えることに少し疲れて、夕介は背もたれに深くもたれかかった。夕介の自宅からこのカフェは少し離れているのだが、何かに引き寄せられたようにもう一度足を運びたくなった。
『思い出せない時点で、もう俺ら無理なのかもな』
今朝の倉木の言葉が脳内にこだまする。
(解散…か)
最悪の事態を想定する。いや、最悪の事態なのだろうか。
(俺は、太陽定数を続けたいのかな)
そもそも芸人を続けたいのだろうか。この7年間、自分は楽しかったのだろうか。
「はぁ…」
ため息をつき、再びメニューに目を落とす。
『スピカを眺めるミルクティー』
スルーしようとして、夕介の手がピタッと止まった。
(スピカを眺めるミルクティー…)
頭の中が急にざわざわと鳴り始める。記憶の引き出しが一気に開き、中身が飛び出してぐるぐると回っているような。そして飛び回っている点たちがパッと線になった。
「…スピカだ」
昔この場所にあった望遠鏡専門店の名前。
「スピカ望遠鏡専門店、だったな」
進藤に芸人になりたいと語った夜に、そこのショーウィンドウに移る望遠鏡を見て芸人になると決意したんだ。
『音楽は趣味だからさ。それを仕事にしたいとは思わないな』
『安定しない、何が起こるか分からない道を選ぶことだけが、夢を追うことではないと思ったんだ』
『なんかかっこ良くね?太陽っていうめっちゃ大きなものから光をもらって自分なりに輝いてる感じ』
いろんな人のいろんな言葉が、頭の中を凄い勢いで駆け巡り始める。
「お決まりですか?」
オーナーの優しい問いかけで、駆け巡っていた言葉たちがピタッと止まり、ゆっくりと記憶の引き出しに戻っていく。
「スピカを眺めるミルクティーをお願いします」
【2018年6月4日】
公園のベンチに座っていた夕介の目に入ったのは、すっかり雰囲気の変わった倉木だった。
「めっちゃ変わったね…」
金髪で少し毛先が跳ねていた昨日までの髪型とは一気に変わり、前髪までしっかり整えられた黒髪に変身していた。
「昨日すぐ美容室に行ってきた。どう?ツッコミっぽいっしょ?」
少し恥ずかしそうに倉木は笑う。
「確かに」
夕介は自分の格好を眺めてみた。少しよれた白いシャツにカーキのパンツ。
(俺ももっとボケらしくした方がいいかな)
そう思うほど倉木は良くも悪くも自分の雰囲気を捨て、見事にツッコミとしての姿に変貌していた。
「良いのか?金髪似合ってたのに」
「いいよ別に。むしろ小さい頃はこんな感じだったしな」
倉木は黒い髪を掴んで見せる。
「そんなことよりネタ作ろうぜ。俺がツッコミで岡嶋がボケのネタ、作らないといけないんだからさ」
「そうだな」
また6月なのに、早くもセミが鳴いている。養成所生の夕介たちには毎回ファミレスに行くほどの余裕はなく、こうやって公園でネタ作りをすることも多い。
(7月8月になったらヤバいだろうな)
セミの鳴き声がそう教えてくれている。
「もうすぐTOKYO MANZAIのエントリー始まるしな」
倉木の言葉に夕介はハッとした。そうだ。暑さに憂いている場合ではなかった。
「まずは絶対一回戦突破しような」
「もちろん」
TOKYO MANZAIは毎年約5000組以上がエントリーしている。つまり経験のない養成所生にとっては、一回戦を突破するだけでも至難の業なのだ。
「突破したらキサラギの配信番組とか呼んでもらえるかもしれないしな」
夕介のワクワクした声がセミの鳴き声と共鳴する。一回戦を突破するだけで至難の業ということは、言い換えると突破すれば養成所側からの見る目も大きく変わるということ。キサラギコメディスクールが定期的に行っている選抜コンビ限定の配信番組などもあり、そこに呼んでもらえるかもしれない。そしてそれが将来の仕事に繋がるかもしれない。
「俺さ、漫才コントよりしゃべくりの方が良いと思うんだよね」
倉木がスマホのメモアプリを開きながらつぶやく。
「なんで?」
「そっちの方がキャラ出るし。岡嶋のキャラもっと出したいんだよな」
「俺にキャラなんかある?」
思わず聞き返した夕介に、倉木はおかしそうに笑う。
「あるって。けっこうキャラ強いよ。なんだろう、真面目優しさストイックみたいな」
「なんだよそれ」
ファミレスよりも何も考えずに笑い合える点は、公園でネタ作りをする利点かもしれない。
「あとはいじりがいもあると思う、意外と」
「そうかなぁ」
いじられるとはどんな感じなんだろう。バラエティ番組でいじられている芸人たちを頭の中に思い浮かべる。
「だからとりあえずしゃべくりで。で、岡嶋が俺に相談事持ちかけてきて、それが何かおかしくて俺がつっこむみたいな」
「あー、いいじゃんそれ。恋愛相談とか?」
倉木が楽しそうに声を上げて笑う。
「あり。岡嶋が恋愛相談してくるの想像すると笑うわ」
「なんでだよ」
再び笑い声が響く。講師に「センスがない」と言われたのを忘れたわけではない。しかしそれはあくまで現時点での話だし、そもそもその講師が正しいとも限らない。それならば今は自分たちを信じて輝く方法を見つけていくことが、夢を見続ける1番の方法ではないだろうか。
「あー、なんか楽しいな」
しみじみといった感じで倉木がベンチにもたれかかる。
「俺昨日までさ、漫才中はキャラ作らなきゃとか恥ずかしさ捨てなきゃとかいろいろ考えてたんだけど、髪染めたらなんか心の中で芸人になる決意できた気がする」
「なら良かったよ」
夕介は軽く笑い、額の汗をそっと拭う。
「俺ももっとボケが似合うように、いじられたときの対応とか研究するわ」
「おぅ。それで絶対一回戦突破しような。で、いつかは優勝しような」
「うん。もちろん」
太陽定数として、夢へまた一歩近づいた気がした。セミの鳴き声も、きっとそう言っている。
【2025年8月1日】
「それで、そのボーカルが作ってきた曲がめっちゃ良かったんだよなー」
蒸し暑い真夏の夜の雪大陸も、仕事終わりのスーツ姿で溢れていた。目の前に座る進藤は、夏に負けないくらいの熱さを身にまとっている。
「そうなんだ。で、もう来月からやる感じ?」
「うん。今月で会社辞めるからな」
「そうかー。凄いな。頑張れよ」
夕介はだし巻き玉子をちびちびと食べながら言う。
「岡嶋のおかげで、俺ももっと好きなことで生きていきたいなって思った。ありがとな」
「いや俺は何もしてないけどな」
まさか感謝の言葉を言われるとは思わず、夕介は気まずそうに少し目をそらせる。
「いつか岡嶋とテレビとかで共演したいな」
そう言葉を弾ませる進藤は、しっかり未来の夢を見つめていた。夕介にはある意味もうできなくなってしまった瞳なのかもしれない。
「そのことなんだけどさ」
夕介はカタっと音を立てて箸を置く。
「ん?」
「俺、芸人やめることにした」
「…え?」
そういえば、芸人になりたいと宣言したときもこんな雰囲気だった気がする。夕介は少し可笑しく思えてきた。
「何笑ってんだよ」
「ごめんごめん。とにかく辞めることにした」
「え、なんで?こんなに上手くいってるのに」
進藤は不思議で仕方ないという顔をしている。その気持ちはよく分かる。だからこそ、自分のこの思いを分かってもらうのは難しい。
「…俺は、好きなことで生きるんじゃなくて、好きなことのために生きる方が向いてたのかもしれない」
騒がしいはずの店内が静かに感じる。本音を話そうとするとこうなるのだと夕介は思った。
「どういうこと?」
「俺、自分で言うのもなんだけど真面目な方でさ。会社員時代は仕事めっちゃ頑張って、そのせいで日常がつまらないんだと思ってた」
進藤は夕介の言葉を噛み砕いているかのように、軽く頷いている。
「だから芸人なったわけだけど。でもその考えは違くて、俺は日常を楽しもうとしてなかっただけなのかなって。だからその時点で、どんな仕事をやっても結局しんどくなってたんだよ」
会社員時代「こんな生活がずっと続くのは嫌だ」と感じていたのも、ここ数年「本当にこれがやりたかったのかな」と感じていたのも、言葉や状況は違えど根本的な心理は同じだったのだと思う。
「甘えてただけだし、自分が楽しもうとしなかっただけなんだけど。でも芸人やってると正直楽しむ余裕なくて。ネタ考えたりキャラ作ったり、どんなときでも完全には素になれない感じが会社員とはまた違う自由のなさだった」
目の前のだし巻き玉子がポロッと崩れた。相槌を打ってくれているのだろうか。
「俺はたぶん芸人に向いてなかった。これは実力的な意味だけじゃなくて、性格的にな。どうなるか分からない夢を追いかけるのに向かない性格だったんだと思う」
パッと店内がうるさくなった気がした。近くの女子大生の大きな笑い声が聞こえてくる。箸と皿がぶつかる音、シャキシャキと何かを噛んでいる音が一気に聞こえてくる。
「…そっか」
進藤が静かに笑った。上手く伝えられたか分からないが、何かは感じ取ってくれたような、そんな表情だった。
「ごめんな。これから頑張ろうとしてる人にこんなこと言って。でも、夢を追うのに向いてる人も絶対いるんだよ。進藤はそのタイプだと思ってるから」
「ありがと。むしろ嬉しいしありがたいわ。ちゃんと夢を追うことの現実も教えてくれてさ。それを聞いた上で、俺1回頑張ってみるから」
進藤は親指を立てた。細くて長い指が力強く上を向いている。
「うん」
「正直引き止めたい気持ちはあるよ。俺何回か劇場に岡嶋の漫才見に行ってテレビでも見て、才能あると思ってるから。でも、きっと相方ともめっちゃ話し合った結果だろうし、お前がそう言うなら受け入れるわ」
「ありがとう」
才能はなかったと夕介は思っている。才能というものはおそらく、面白い漫才ができるかなどの単純な話ではないのだろう。
「てことは岡嶋は会社員に戻るってことか?」
その言葉に夕介は再び姿勢を直す。
「まぁそうなんだけど、さっき言ったように俺は日常を楽しむの忘れがちだからさ。思い出させてくれるような仕事をしたい」
「というと?」
箸でだし巻き玉子をしっかりと掴み、夕介は笑った。
「天体望遠鏡の部品を作る会社にエントリーしたんだ」
【2018年8月1日】
東京南条ホール。キャパ300人ほどの小さめのライブ会場で、バンドの単独ライブやダンスの発表会なども行われている。そんな場所でTOKYO MANZAI2018の一回戦は開催された。
「お客さんどんな感じだろ。温かいかな?」
夕介は硬いスーツを身にまとい、舞台袖からそっとステージを覗く。芸人にとって、お客さんの温かさというのはとても重要である。温かい、つまりよく笑ってくれるタイプのお客さんが多ければ、芸人本人も気分が上がってやりやすくなる。しかし賞レースの一回戦を見に来るようなコアなお笑いファンの中には、審査員気分に浸っているのかなかなか笑ってくれない人もいる。養成所にサポートに来ていた先輩芸人が、何も知らない夕介たち養成所生たちにそう教えてくれた。
「さぁ、どうだろうな。大事って言ってたもんな」
倉木がジャケットを羽織りながら、夕介の後ろからちょこっと顔を出した。ステージ上では、20代後半くらいの男女コンビが漫才を繰り広げている。声がかなり通っているのを見る限り、アマチュアや養成所生ではなさそうだ。
「分からないよな」
笑いが少なかったとしても、それがすべっているのかお客さんが重いだけなのか分からない。
「まぁ余計なこと考えず、練習通り思い切りやろうぜ」
「そうだな」
倉木の言葉で2人は楽屋に戻った。楽屋と言ってもテレビで見るような立派なものではなく、キサラギコメディスクールの大教室に近い。小さめの体育館のような空間に、コンビが30組ほど押し詰められている。端にどうにか荷物を置く場所を見つけ、2人はそこにしゃがんでいた。
「スーツ似合うな」
夕介はまじまじと倉木を見つめている。黒髪にしたおかげなのか、ピチッとしたスーツがとてもよく似合っていた。一瞬誰か分からないほどだ。
「岡嶋も似合ってるぞ」
「まぁ俺は数ヶ月前まで会社員だったからな」
こんな会話を何気なくできていることが夕介は嬉しかった。しかもTOKYO MANZAI予選の楽屋で。芸人感満載だ。
「あとどれくらい?」
「あと3組」
夕介は壁に貼られている香盤表を見つめながら答える。自分で言っておきながら、あと3組と考えると緊張してきた。まだ養成所生とはいえ、今日の出来や結果で自分が芸人に向いているかがある程度分かってしまうかもしれない。
「てことは今やってんのはリップダイヤリーか」
同じように香盤表に目をやりながら倉木が言う。
「宮崎のとこか」
そう、リップダイヤリーは宮崎がツッコミを務めるコンビである。アマチュアも先輩のプロたちも入り乱れるこの場所で、知っているコンビ名を見つけたときの安心感は凄まじい。
「ウケてんのかなぁ」
「どうだろうな」
そんなことを話していると、太陽定数の出番まであと1組となった。
「よし、袖に行くぞ」
倉木に声をかけているように見せかけて自分に言い聞かせている。小さく息を吐いて立ち上がると、楽屋から直で繋がっている舞台袖に再び足を踏み入れた。舞台袖に電気は付いていないが、そばのステージが明るいためその光が入ってきており、隣にいる倉木の顔は十分確認することができる。緊張とワクワクがちょうど半分ずつくらい入ったような表情をしている。
(たぶん俺も同じ顔してるだろうな)
揃った拍手の音が鳴り響き、今やっていたコンビが反対側の舞台袖に消えていった。それと共に夕介の心臓もどくんと鳴る。数秒ほどステージが暗くなったかと思うと、パッと明かりが付いた。
「お願いします」
そばにいた男性スタッフの声を合図に、夕介は倉木の背中を軽く押した。
「行こう」
倉木が一歩ステージに踏み出した。ステージの照明に照らされた相方はとても美しかった。夕介もあとに続いてその世界に足を踏み入れる。
「どうもー、太陽定数です。お願いしまーす」
少し震えたような、でもしっかりした倉木の大きな声がステージ上に響く。客席のお客さんたちが拍手をしているのが見える。
(大きいな…)
キャパはそんなに大きくない会場だ。しかし夕介には、今まで見たことのある空間の中で1番大きく感じた。大きく、そしてとても広く感じた。照明に照らされ暗闇にぼんやりと浮かぶお客さんの姿は、相方と同じくらい美しかった。
「俺さ、ちょうど相談したいことあるんだよな」
興奮を何とか抑え、練習通りのテンションで話していく。
「最近彼女が冷たくてさ。LINE送っても返信くれないんだよね」
「えー。なんか喧嘩でもしたんか?」
「してないんだけどなぁ。どの彼女に連絡しても返信くれないのよ」
「めっちゃ浮気してるな!」
ふふっという笑い声が、客席から聞こえてきた。
(あ、ウケた)
テレビで見るような大爆笑ではない。それでも、自分たちが作ったものを笑ってくれる人がいた。これがお笑いなんだ。
人生初の漫才は、あっという間に終わった。ネタ時間は2分なので実際短くはあるのだが、それ以上に短く感じた。楽屋に戻り荷物のそばにしゃがんだ夕介は、興奮が抑えきれないというように手で顔を仰いだ。
「楽しかったな」
感想はその一言に尽きた。漫才のボケというのは不思議な仕事だ。何を言っても否定されつっこまれる。それをどう否定すれば笑ってもらえるかを考えるのが漫才なのだろう。夕介はほんの少しだけだがお笑いという箱の中身を見ることができた気がした。
「けっこうウケたよな」
倉木も嬉しそうに横に座る。その無邪気な笑みは、入学当初の金髪姿を一瞬思わせた。
「あとは結果だな」
「あんまり期待しすぎると落ちてたときがっかりするぞ」
そうたしなめる夕介の声は期待に満ちていた。
数時間後の19時01分。夕介はファミレスで、じれったそうにスマホの画面を閉じたり開いたりしている。公式サイトには「19時頃 一回戦通過者発表」と書いてあるのに、まだ発表のはの字も出ていない。「頃」なんていう曖昧な表現はやめてほしい。
「あっ」
公式サイトにパッと表れた「本日の合格発表者」の文字。目の前に座っている倉木がスマホを覗き込んできた。合格コンビが1組ずつ順番に羅列されている。大学の入試発表のようだ。
「あっ!」
先ほどよりも大きな声が出た。
「一回戦通ってる!」
【2025年8月13日】
「あ、一次審査通ってる」
夕介は楽屋で、スマホの画面を見ながらつぶやいた。2週間ほど前にエントリーシートを送った会社からのメールだ。
(良かった)
会社員を辞めて芸人も辞めて。「何をやっても長続きしない」と思われる可能性もあるだろう。しかし一次審査を通過したということは、夕介から何かを感じ取ってくれたということだ。
「望遠鏡の会社?」
倉木がソファに深く腰掛けながら言う。
「そうそう」
今日は、夕介の芸人として最後の日であった。最後の仕事は、劇場での漫才披露だった。偶然だが、養成所の入学式の場所でもあった神聖な場所で漫才をやって終えられたのは嬉しい。
「でも就職決まるまでもうちょいあるんだろ?それまで芸人続けりゃいいのに」
「もう次の道決めてる状態で続けるのは、倉木にも太陽定数にも申し訳ないから」
夕介はスマホの画面をそっと閉じた。
「そっか」
「それまでは貯金と、足りなければバイトでもして生き延びるよ」
そんな少し大袈裟な言い回しに倉木はふふっと笑う。夕介はスマホをテーブルに置くと、倉木の隣に座った。
「倉木は今後どうすんの?」
「俺はもちろん芸人続けるよ。俺は一生この夢を追いかけ続けるって決めてるから」
「応援してるわ」
すぐそばにいる倉木はしっかりと未来を見つめていた。そしてそれは夕介も同じである。
「岡嶋は絶対覚えてないと思うけどさ」
倉木が多くを見つめ、何かを思い出すような表情をする。
「うん」
「養成所の相方探しの会で初めて会ったとき、岡嶋がおはようって言ってくれたのめっちゃ嬉しかったんだよ。今まで家族とかに挨拶されたことなかったし」
前置きされた通りで、夕介は全く覚えていなかった。
「それで俺岡嶋とコンビ組みたいと思ったもん」
「そんな理由なのかよ」
「そんな理由で7年続いたなら、よく頑張った方かもな」
こうやって笑い合うのはもう何年ぶりだろう。久しぶりの笑顔が解散を決めてからだなんて、皮肉である一方で少しの儚さも感じる。
「じゃあ俺そろそろ行くわ。劇場の人に最後挨拶もしたいし」
夕介は荷物をリュックに投げ入れ、ソファから立ち上がる。
「おぅ。またな」
もう二度と会わないかもしれない別れである。そんな別れはだいぶあっさりとしていた。きっとこれは悪いことではなく、もう十分話し合ってきた証なのだと思う。
「最後に何か言い残すことある?」
倉木は冗談っぽく笑ってそう言った。夕介は先ほどの倉木と同じ方向を見ながら少し考えた。
「金髪似合ってたよ」
倉木は少し可笑しそうに笑う。
「ありがと」
でも嬉しそうな表情にも見えた。
4階の楽屋から1階に降り、夕介は劇場のロビーにやってきた。白い壁でホテルのロビーのように少し高級感があり、足を踏み入れる度に少し緊張する。今日の公演が終わって2時間ほど経っているので、お客さんらしき人はもういない。
「前川さん。お疲れ様です。太陽定数の岡嶋です」
受付でパソコンを触っている前川さんに声をかける。
「あ、岡嶋さん。お疲れ様です」
「これお返しします。ありがとうございました」
夕介は会員証を両手で手渡した。この会員証は所属芸人全員に配られるもので、劇場に入る際などに使用していた。
「本当にお疲れ様でした。これからも頑張ってくださいね」
前川さんは優しい笑顔で笑い、そう言ってくれた。
「はい。本当にありがとうございました」
深く頭を下げて立ち去ろうとすると、受付の隣にある「STAFF ONLY」と書かれた扉がガチャっと開いた。
「あ、お疲れ様です」
そこには黒木事務長が立っていた。
「今日で最後ですよね」
「はい、そうなんです。今までありがとうございました」
事務長は養成所の社員であるが、卒業したあとも所属芸人たちのことをとても気にかけてくれる人だった。太陽定数も何度かネタのアドバイスなどをもらったことがある。
「メールでしかご挨拶できてなかったので、最後にお会いできて良かったです」
夕介の言葉に事務長は穏やかに笑う。
「僕は前までこの劇場で出演者の管理とサポートをする仕事をしていたんですが、急に養成所の方に異動することになったんです。君たちの期が、僕が担当した最初の養成所生でした」
「そうだったんですね」
最初に会った頃、威圧感というか何かを背負っている感じがあったのを思い出す。
「その中でも、同期を引っ張ってくれていた太陽定数のお二方は、とても印象に残っています」
事務長はそう言ってくしゃっと笑った。白い歯がキラリと光っている。
「ありがとうございます。僕も、事務長にいつも気にかけていただいてとても心強かったです」
「お体に気をつけて」
「はい、ありがとうございました」
夕介は深々と頭を下げた。
【2025年9月15日】
「このダンボールは何だっけな」
夕介はぼそっとつぶやきながら、床に散らばるダンボールの箱を開けた。
「あーDVDか」
夕介は10月から、望遠鏡の部品を制作する会社で働くことになった。芸人を辞めてから1ヶ月少ししか経っていないが、早くも芸人であった自分が遠い過去の話のような感覚になっていた。
(これも一応置いとくか)
研究のためにと置いていたTOKYO MANZAIの過去大会のDVD。お笑い自体は今でも好きなので、これから研究のためではなく笑うために見ればいいのだ。夕介は7年ほど住んでいたこの2LDKのマンションとはもうすぐ別れ、来週から会社近くに引っ越す予定だ。家賃は安いものになるが、お金=幸せとは言い切れないことを夕介は知っている。だからと言って≠というわけでもなく、中学時代に数学でやった樹形図のように、いくつも=が枝分かれするのだと思う。
ピロン。
夕介はDVDをそっとダンボールにしまい、弾んだ音を鳴らしたスマホを手に取った。
『そっか。じゃあ就職決まったんだね。おめでとう!』
宮崎からだ。前にカフェで再会したときに交換したLINE。
『うん。おかげさまで』
『応援してるよ』
『宮崎も、メイクの仕事頑張って』
ぽんぽんとリズム良く会話が続いていく。
『ありがとう。そういえばさ、町田くん覚えてる?』
『スプリンクラーの?』
夕介にとっては、やはり面接で握手を求めてきた印象が強い。
『僕今でも仲良くて連絡とってるんだけど、町田くんも最近芸人やめたんだって』
『え、そうなんだ』
『才能なかったって言ってたよ。そんなことはなかったと思うけどね』
『面白かったもんな』
あの小太りの講師に褒められていたスプリンクラーが脳内に浮かんでくる。しかし才能がないということの真理が単純ではないことは、夕介も宮崎もよく分かっているだろう。
『僕たちの同期、どんどんいなくなるね(笑)』
夕介は宮崎の言葉にふっと笑う。あの入学式にいた約300人は、何人が今も芸人をやっているのだろうか。連絡先を知らない人もたくさんいる以上、夕介には知る由もない。芸人という夢を追いかけ続けることに向いている人だけが残る世界なのだ。
『まぁ夢、というか未来の追い方は人それぞれだから』
『そうだね。かっこいいね』
『また飲みに行こうな』
芸人をやって得たことももちろんたくさんある。こうやって飲みに行ける友人が増えたこともそうだし、何より自分がどんな人間なのかを知ることができた。
『いいね。行こう行こう』
『俺良い居酒屋知ってるんだよ。そこのだし巻き玉子めっちゃ上手いから』
またあの居酒屋に夢を語りに行きたい。
『そうなんだ!楽しみにしてる』
『また空いてる日連絡するな』
夕介はスマホを置いて、目の前にそびえ立つ食器棚を見上げた。もう古くて立て付けも悪くなっているのでこの際に処分するつもりなのだ。引き取ってもらう連絡をしておかなければ。夕介はスマホを取りだし、カレンダーを確認した。
「あ、明後日粗大ゴミの日じゃん」
粗大ユメ 神守夕 @yuu_kamimori
★で称える
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