第2話 遥(はるか)

 はるかは中学生の頃からアイドルを目指していた。

 一年経つとそれは「アイドル」から「歌手」に変わり、半年経つと「歌手」から「シンガーソングライター」と名前が変わった。二年目にはそこから「やっぱりアイドルになろう」と戻りつつも、高校卒業後に上京し、テレビに映らないようなアイドル活動を続けてはいたのだ。

 けれど二十五歳を過ぎると自分にも言い訳が出来なくなる。

 父親は口を出さなかったが、母親はどうしてもいい顔をしなかった。高校生の自分が「アイドルになりたい」と覚悟を決めて告白したときより、家に帰ると電話越しに告げた時の方が嬉しそうな声を出している。

 

 あれだけ綺麗に染めていたのは、メンバーカラーの桃色を観客たちに覚えさせたかったからだ。せっかく可愛い色を貰えたのに、遥はあまり個性がなく、進んで顔を整えることをしなかった。整形なんてせずとも可愛い見た目をしていると、そんな自信だけで地元を飛び出してきたので、歌も特に上手くなかった。

 少ないファンに少ない言葉で「卒業します」。それだけ言い残したらはるかはしばらく東京でふらふらと過ごして、引越しの準備を始めたのは一年後だった。地元に帰ったのは二十六歳になる。髪の先端は桃色が抜けた汚い金色になっていた。田舎ではそこそこ目立つ髪色なので、そこだけ切り落とせと紙幣を数枚母親から貰い、役場の向かいにある未知の美容院へ入る。

 坊主にでもすれば母親だって満足するだろう。

 実家に戻った娘に対する最初の一言が慰めるようなものではなく、髪に対する嫌味だった。よく見れば根本にまだ金色が残っていたりもする。しかもまばらに残っている。母はそれを「汚い」と罵った。傷んだ髪のことを言っていたのかもしれない。数年前は大切に扱っていたのに、今はもう邪魔で仕方ない。

 鏡に映る黒の割合が増えていくと、やはり黒い髪の方が昔から見慣れているせいか落ち着いてくる。

 そういえば、いつのことだか、遥は髪を褒められたことがあった。母親譲りの黒過ぎる髪を、中学生のときにほんのりと好きだった同級生から、たった一度だけ。春だったか、秋だったか、黒い長袖のセーラー服を着ていた時期だ。たった一言、「綺麗だね」と褒められたことが嬉しくて、髪を伸ばしていた。

「あの、……やっぱり傷んだところを切るだけにしてほしくて」

 地元でのいい思い出なんて、それくらいしかない。あの一瞬が唯一の記憶だ。それなら長いままがいい。長い方が結いやすいし、乾かすのは手間でもなんだかんだ楽だったりする。

 美容師は何とも思っていないような声で返事をした。


 父親のコネで役場の事務員として働くようになると、二十七歳でも若手と呼ばれるような田舎の職場で遥は様々な雑務を任せられていた。まともな仕事は貰えないのでほぼ清掃員のようなことをしている。複数ある足元のゴミ箱を集めて、シュレッダーから刻まれた書類を集めて、それらを更に大きな箱に詰めてゆく。部屋の中央にある木箱には使われなくなった電池が入っているのでそれも回収した。

 午前中の一時間はそれらの繰り返しだ。今日はあの部屋を優先的に、今日は会議室の清掃をしつつロッカーのゴミを集め、ついでに隣の会議室から、……。

 こんな風に段取りを決めて動いていても、ゴミの回収業者が始業時間丁度に来るので全ての予定が潰れることもあった。大量に集まった電池入りの袋を両手に、遥はトラックを見送ったこともある。捨てられなかったゴミの保管場所など知らない。どこもかしこも荷物で溢れかえっている。

 だから役場の入り口にあるダストボックスから電池を回収する業者の男性が遥に声を掛けてくれたとき、感謝しながら名前を覚えてしまった。首から下げられた社員証には「杉山 実」とある。

「来週からはもっとゆっくりめに来ます」

 彼は遥に対して遠慮がちに笑いかけた。それからだ。老人ばかりの職場で久しぶりに歳の近そうな男性に遭遇すると、遥は彼のことを意識するしかなかった。メイクもせずにマスクで顔を隠していたから、まずはそこから変えて行こう、など、諸々。

 ――毎週水曜日の午前九時半になると、彼が来る。

 遥の機嫌がよくなると、反対に母親の顔つきは憎悪で歪んだりする。父親も強く出られないほどこの家は母の機嫌でその日の全てが左右されていた。

 遥の結婚願望はこういうところから始まったのだ。実家から離れたいが引っ越すための資金もなければ、挫折することばかり上手くなった今では何かを言い出す覚悟もない。その小さい口でなんか言ってみなさいよ、と何度言われただろう。これは父親に似た部分だ。コンプレックスとまでは行かないが、母親に言われた途端、唇を掻きむしりたくなる。

 けれど、数年前ほど高い品ではないが唇を彩ると気分がすっきりとした。彼に会うために自分は綺麗になろうとしている。そんな考えになるだけで顔色が明るくなったようにも感じられた。ファンからは「ぷっくりしていて可愛いね」なんて言われたこともある。マスクを外して彼に挨拶をしながら電池の入った袋を渡し、ほんの少しの会話。

「先週は有給を取っていたので代わりに佐藤さんが回収に……、ああ、その、母が認知症でして」






 遥もみのるに母のことを話していた。その頃には恋人と呼べるだけの関係を持っていて、遥もみのるの借りているアパートに入り浸っていた。実家に帰るよりこちらの方が楽で開放感もある。私物も増えているのでこのまま同棲開始となっても困らない。

 最後に遥はとある話をして、同棲を始めようと覚悟を決めた。

 数年前まで東京で地下アイドルをしていたこと。愛想がないので人気もなく、二十五歳になってようやく目が覚めたので役場で働いていたこと。結婚願望はあるが、母親から逃げるための言い訳に過ぎない、ということ。

 みのるはそれらを聞いて深く頷いていた。優しい彼の、温和な顔立ち。彼は気弱そうな表情をすることが多いが遥はそれを好ましく思っていた。彼らしい。遥をめいっぱい甘やかしてくれる彼らしい。だから、長々しく自己満足で語り終えた後も、彼は「気にしないよ」と言うと思って彼の顔をベッドから見下ろしていた。

「うん。全部知ってるよ」

 床に正座している彼がそう言って、ベッドの下から隠していたロープを取り出す。そこでようやく気づいたのが遥の私物の少なさだった。実家からあれだけ移動させた私物が一つも見当たらない。けれどロープとバケツと養生テープはある。

「ずっと黒い髪の毛の方が似合うって思ってた。綺麗だね」

 中学生のときの綺麗な思い出を汚された気分だった。諦めたら、遥は「明日から役場に行かなくていいんだ」と楽になった気もして、みのるに全ての世話を任せてしまった。

 でも、東京でアイドルをしていた頃の動画を延々と流されるのだけは勘弁して欲しかった。自分の下手くそなパートだけをループするので気が狂いそうになる。お母さんにもたくさん見せたんだよ、とみのるが言うのもよくない。その話をすでに何千回と聞いた。

「母さんも呼んで、みんなで暮らそうか。明日母さんを連れてくるよ。結婚したいですって挨拶しないと」

 薄緑の養生テープを口元から剥がされると、化粧もしていないのに唇が腫れてぷっくりとして見える。みのるはそれを撮影すると、母さんに教えなくちゃ、と笑顔を見せた。

 

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偶像婚 コノミ カナエ @tume325

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