小さな存在

新川山羊之介

小さな存在

 閑散とした放課後。広く冷たい廊下に、鋭利な刃物のような西日が差していた。手をかざせば、素肌にちくりとした痛みを覚えるほど強く、激しい光は、隣の影を一層濃く、深く、穏やかなものにしている。その黒の中で、彼女はしゃがみ、見つめていた。今朝置かれたばかりの、つやつやの水槽を。そして、その中で自由に泳ぎ回る、ひらひらとしたメダカ達を。彼女は漠然と思う。……今日からこの子達が、私の友達。


 それから、帰りにメダカを眺めるのが彼女の日課となった。というより、彼女がメダカを見る権利が与えられるのは、放課後だけだった。それは、ある昼休みのことである。彼女がメダカに会いに廊下を出ると、クラスの女子たちが水槽の前を陣取っていた。彼女はそれを見て足を止める。昼休みにメダカを見るのはだめだな、と本能で感じ取った。彼女はやや焦り気味に教室へ戻る。そして、後ろの棚に置かれた虫カゴに近づく。ちょうどメダカと同時期に飼われ始めたカイコの幼虫は怯えるようにじっと固まって、動かないままでいる。どうしてか、彼女はこの蚕が嫌いだった。見ているだけでゾワっとして、席に戻る。授業後に捨てたはずの消しカスが、灰のように机に散らかっていた。


***


 彼女は水槽の前でじっとしていた。優に30分は超えているだろう。それでも彼女はその場から動くことができなかった。――その日彼女はクラスメイトの佐藤さんと下校していた。佐藤さんはいわゆる「陽キャ」の女子で、いつも他の女子たちとキャハキャハと下品な嗤い声を発しながら帰っていた。しかし何の間違いか、流れに流され、一緒に帰ることなった。

「ねね、そういえばね、クラスの男子たちが、萩谷さんのことキチガイって言ってたよ」

 え、と彼女は乾いた声を漏らして、佐藤さんの横顔を見た。無論「萩谷」は彼女の苗字だ。佐藤さんは、今日の給食あんまり好きじゃなかったなーとか言うのと同じ、普通の顔をして、彼女の方も見ずに嗤って続ける。

「ひどいよね。センセーが見てないときに限って言うんだよ。」

 彼女は「ひどい」と言う佐藤さんの口もとにゾクリとした。――違うよ。「ひ」って音を出すとき、自然と口角が上がるんだよ。だから、違うよ。嗤ったんじゃないよ。佐藤さんは悪気があったわけじゃないよ。ただ、教えてくれただけ。……本当のことを。彼女は必死に自分に言い聞かせる。みんな「善い人」だと考える。それが、彼女なりの処世術であり、自己防衛だった。佐藤さんは「わたしが言ったって、言わないでね。」と、ちゃんと釘を刺してから去って行った。置いていかれた彼女はもと来た道を引き返す。メダカに、「友達」に会いたいと思った。


 それから、彼女はずっと水槽の前でうずくまっている。彼女の意識は、現実から逃げたいときに浮かぶ、別の生き物になる空想の中にあった。今、彼女はメダカだ。彼女は、自分は人間ではないのだと本気で思っていた。本来なら別の生き物になるはずだったのに、何かの手違いで人間の皮を被らされている、欠陥品。人間社会の、癌細胞。だから、自分は本当は何になるはずだったのか想像するのが彼女の逃避だった。彼女は、それがメダカだったらいい、と思う。本当ならこの水槽の中で、仲間と自由に泳ぐはずだった小さなメダカ。キチガイなんて言われても、仕方がない。そもそも人間じゃないんだから。それでも彼女はなんだか辛くて、ベールのようなヒレをまとった友達に訊いた。「痛い」はもう大丈夫だけれど、「辛い」はまだ慣れなかった。


「私、おかしい?」


***


 彼女は静まりかえった階段を一人下っていた。踏み外さないように、一段一段、ゆっくりと。誰もいないとわかっていても、ときどき背後を振り返りながら。彼女の脳裏には苦い記憶がこびりついていた。


 いつも通りの放課後だった。補習で教室を出るのが遅くなったことを除いて。彼女は一人で階段を下っていた。

「邪魔。」

突然後ろから声がしてから、体がバランスを崩すまでは一瞬だった。気づけば彼女は重力に引かれるまま、階段の凸凹に骨を打ちつけていた。踊り場に転がった彼女を見て、「邪魔」という言葉の主である田中さんと、その取り巻きたちが、何かブツブツ言っているのが聞こえる。大きな声で話している。

「やりすぎ?」

「そうでもなくない?」

「あいつチクるかな。」

「むりむり! チクったら殺すし」

「保健室とか行ったらどうしよう。」

「あれにそんな行動力ないでしょ。」

「親に何か言うかな。」

 彼女がだらんと床に伸びた腕を広げて、体を仰向けにすると、層積雲みたいな天井が視界をどこまでも覆った。怪我はしていなかったが、しばらくそのまま動けなかった。すぐに田中さんたちの足音が床の振動とともに遠ざかっていった。そのとき、純粋で卑屈な九歳の少女は、自分はそういう扱いをされるのが当然な、ちっぽけな存在であることを完全に理解した。校舎の床が雨の底冷えのように冷たいなんて、それまで彼女は知らなかった。


***


 ゴトン、ガシャン。ピチャ。ピチャ。授業の15分前だった。男子が廊下で蹴ったサッカーボールが、水槽の置かれていた机に当たって、中の水がぶちまけられた。彼女は図書室の帰りに、たまたまその現場に遭遇した。大半のメダカは、ひんやりとした廊下に放られてぐったりしている。中にはエラをヒクヒクさせながら、今にも飛び出そうな目をパチパチさせているものもいた。彼女はその様子をただ茫然と見つめている。すぐに彼女のクラスの担任の先生がやってきて、ボールをぶつけた男子たちを怒鳴りつけた。彼女はビクリとわずかに肩を上げる。男子たちはぎこちなく苦笑いを浮かべている。先生は後で職員室に来るように彼らに言ってから、メダカの片付け――それは「片付け」と呼べるほど事務的な作業だった――を始めた。キーンコーンカーンコーン。彼女は授業5分前の予鈴が鳴っても、作業する先生の背中を見ていた。メダカはもうほとんどが、ふりかけのシラスのように生気を失っていた。先生は、私の友達をどこへ連れていくんだろう。彼女はそれが気になって仕方がなかった。もしかして、ゴミ箱に捨ててしまうんじゃないか。そう思うと居ても立っても居られなくて、彼女は先生の後ろに立っていた。その勢いのまま彼女は先生に声をかけようと口を開く。だが、声が、出ない。彼女は何と言ったら正解なのか、わからなかった。さっきの先生の、つり上がった眉毛が頭をよぎった。先生が振り返って彼女に気づく。どうしたの、と言われたが、彼女は答えられない。自分が泣きそうになっていることに気づいて、彼女は顔を下に向ける。先生は訝しそうに彼女を見てからビニール袋を取りに行った。ハッ、と我に帰って彼女はあたりを見回す。何人かがこちらを見ていた。彼女はすぐにその場から逃げ出した。

「棒みたいに突っ立って、何したかったんだよ。」

「あの子、きもちわるい。」

「メダカの死体見てたんだけど。不気味。」

「頭おかしいんじゃないの。」

「ウザイんだよ。キチガイ野郎が。」

 ――キチガイ。また、誰かが、そんな風に自分のことを言っているんじゃないか。被害妄想と言えばそうなんだろう。でも、彼女は怖かった。周りの人間はみんな敵だと知っていた。味方はあのメダカしかいなかった。なのに。彼女は逃げ込んだトイレの個室で、涙を涙腺に押し込めるので精一杯だった。するとトイレの手洗い場にクラスの女子たちが入ってきた。背筋に嫌な汗が伝う。その中に佐藤さんや田中さんもいるのが、嗤い声で分かった。彼女は完全に出られなくなってしまい、存在を消すように、ただじっとしているしかなかった。

 ――これじゃあ、メダカじゃなくて、カイコだな。彼女はあのカイコが嫌いな理由がわかった。こんなんじゃ、水槽の中で自由に泳ぐ綺麗なメダカじゃなくて、虫カゴに閉じ込められ、ただ桑をかじる、惨めなカイコだ。


***


 閑散とした、放課後。彼女は窓枠にカイコの入った虫カゴを置いた。彼女の中で灰となったはずのものは、再び激しく燃え上がっている。今は、虫カゴを窓から落とすところだ。そうすれば、まず下にいる女子たちに虫カゴがぶつかるだろう。そして、中に入っている数匹のカイコの幼虫が、女子たちの無駄に手入れされた髪を貪るだろう。きっとすぐ先生が来て、彼女を問い詰めるだろう。どうしてこんなことをしたのか、と。そのとき彼女は言うのだ。今までのこと全てを。彼女をカイコなんかにした者たちの名前を、一人ひとり。……言ってやる。彼女は虫カゴを持つ。そのとき、カイコと目が合った、ような気がした。手が、震える。窓から木枯らしが吹きこむ。しばらくして、彼女は虫カゴを抱きかかえて、うずくまる。そして張り裂けんばかりの声で、泣いた。彼女はただ、気づいてほしいだけだった。毎日毎日、涙と灰だけが溢れていくことを。ここに彼女がいることを。しかし、教室には誰も来なかった。彼女の背を貫くように、鋭く西日が差していた。

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