昨日に恋する

るいか

昨日に恋する


私は君に何を返せたのだろう?

君に何をあげられていたのだろう?


……ようやく気づいた。私は、君に恋をしていたんだ。

 


  朝の空気は、少しだけ冷たかった。

 制服の袖口から入ってくる風が、肌をかすめていく。


 駅前のベンチで座っていた私は、背後から「おはよー」と声をかけられて、少しだけ肩をすくめた。


 振り返らなくても、誰の声かはわかっていた。

 私の隣に立つその人は、いつも通りの顔をして、いつも通りに笑っていた。


「寝坊した? ちょっと髪ぼさぼさ」

「うるさい」


 小さな口げんかのような挨拶を交わして、私たちは並んで歩き始める。

 何も特別じゃない、ただの朝。


 でも、今になって思えば。

 その“普通”こそが、いちばん恋しかった。


  教室に着いても、君は隣の席に当たり前のように座っていて、

 何事もなかったように欠伸をかみ殺していた。


「現代文の課題、出してないだろ」

「え、なんでわかったの」

「そわそわしてるとき、筆箱開けたり閉めたりする癖あるじゃん」


 君は「うわ〜バレてたか〜」と苦笑いして、机に突っ伏した。


 ……どうして、そんなことまで覚えてるんだろう。

 昨日までは、そこまで気にしてなかったはずなのに。

 今の君の仕草も、まばたきの間のタイミングすら、

 全部、記憶に焼きついていく。


 いつもと同じ、ただの授業前。

 ただの友達同士の会話。


 でも、私はこの時間がずっと続けばいいのに、と思っていた。

  チャイムが鳴った瞬間、君は教科書をノールックで鞄に突っ込んで、

 私の机の前で「帰ろう」と言った。


「……急ぎすぎじゃない?」

「だって今日、雲ひとつない青空だったじゃん。こんな夕焼け、見逃したらもったいないよ」

「……はいはい」


 鞄を持って、君のあとを追う。

 その背中を、今日に限って、やけに意識していた気がする。

 赤く染まりはじめた校舎の窓が、なんだかやけに綺麗で。


 帰り道は、ずっとくだらない話をしていた。


 テレビで見た芸人の話とか、コンビニで新作スイーツが出たとか。

 本当にどうでもいい話ばかりなのに、

 君が笑うたび、私はその横顔に目を奪われていた。


「……またね」


 その一言とともに、君は信号の向こうへと歩き出した。

 私は、ポケットから出しかけたイヤホンを止めて、顔を上げる。


 赤信号。


 子どもの叫び声。


 そして、君が迷わず飛び出す姿が見えた。


 隣を歩いていた君は、

赤信号に気づかず飛び出した小さな子どもを、咄嗟に突き飛ばした。


子どもは無事だった。


でも、君は——

その瞬間、音もなく、私の視界から消えた。


「……うそ、でしょ……?」


声が震えた。足が動かない。

ただ、君の笑っていた横顔だけが、ずっと目に焼き付いて離れなかった。


  ——そして。


 真っ白な光が、視界を包んだ。


* * *


 目が覚めた瞬間、心臓が跳ねた。

強く、強く脈を打って、胸を叩く。


時計は、昨日と同じ時間。

目覚ましが鳴る前に、私は飛び起きていた。


カーテンの隙間から差し込む朝の光。

目に映るすべてが“昨日”と同じで、でも——


「……嘘、でしょ……?」


昨日、君は……あの子をかばって——

あのときの感触が、私の手のひらにまだ残っている気がして、思わずギュッと握りしめた。


震える指で制服に袖を通し、何も食べずに家を飛び出す。


走った。

息を切らして、駅前のベンチまで。


そこに——君はいた。


制服の袖をまくって、少し眠たそうにあくびをして。

昨日と同じ、何でもない顔で、私の方を見て微笑んだ。


「おはよー。……寝坊した?」


その声を聞いた瞬間、私は泣きそうになった。


でも泣くわけにはいかなくて、

精一杯の作り笑いで「ううん」と首を振った。


心の中で何度も叫んでいた。

——よかった。

——まだ、君はここにいる。


隣に並んで歩き出す。

制服の裾が風に揺れて、君の足取りはいつも通りの軽やかさ。


「ねえ、今日さ……放課後、ちょっとだけ残ってくれない?」


「え?」


君がこちらをちらりと見た。

その横顔が眩しくて、私は少しだけ視線を逸らした。


「宿題、ぜんっぜん分かんなくて。教えてくれたら助かるな〜って」


「ああ、うん……いいよ」


なんでもない会話。

でも、それがどうしようもなく愛しかった。


昨日は、もう聞けなかった言葉。

昨日は、もう見ることができなかった笑顔。


君が、ここにいる。

それだけで、世界が美しく思えた。


——だから、

今日こそ、守らなきゃって思ったんだ。


1時間目。国語。


先生の声がぼんやりと遠く感じる。

窓から差し込む光が、君の机の上をふわりと照らしていた。


教科書を開いたまま、君は眠そうに欠伸を噛み殺している。


(……ちゃんと起きてたの、奇跡だよね)


そんなことを思って、ふと笑いそうになる。

だけど、すぐに胸がぎゅっと締めつけられる。


——この光景は、昨日にはなかった。

——だから、私は、ちゃんと見ておきたい。


君が笑ったり、眠そうにしていたり、

先生に当てられて焦って立ち上がる姿だって。


全部、忘れたくない。


 


3時間目。英語。


「えっと……キャン・ユー・スピーク……ジャパニーズ?」


「英語で“日本語話せますか?”は英語で……って言ってるの、変じゃない?」


「いや、そもそも日本語で喋ってるしな、俺ら」


前の席の男子とふざけて笑う声。

君はその輪の中で、声を上げて笑っていた。


「……もう、真面目にやってよー」


小さく注意する女の子に、

「ごめーん」って、いつもの調子で頭を下げる君。


(……ほんとに、いつも通りだ)


それが、嬉しくて。

それが、怖くて。

なんでもない時間が、心をかき乱す。


 


昼休み。君はパンをかじりながら、私に言った。


「放課後、よろしくね。今日中に終わらせたいからさ」


「うん」


頷いた声が、少し震えたのを、

君は気づいただろうか。


 


──この日の“放課後”が、

また「さよなら」になるってこと、

私はもう、知っているから。



「……ごめん、待った?」


駅前のベンチで待っていた君が、顔を上げる。


「おそっ。寝坊でもしてた?」


「……違うよ。考えごとしてた」


「ふーん?」


君はパンの袋をくしゃっと丸めて、小さく笑った。

それが、あまりにも“いつも通り”で、

私は一歩も動けなくなりそうだった。


 


「で、宿題だよ。マジで数学ムズくてさ、

お前のノート、ちょっと見せてくんない?」


「……うん。いいよ」


「助かる〜〜〜!じゃ、行こっか。図書室、空いてるかな?」


そう言って歩き出す君の後ろ姿を、私は見つめていた。

まるでそれが、二度と見られないものみたいに。


 


図書室はほとんど人がいなくて、

並んで座った席には、西日のオレンジが差し込んでいた。


「……ここって、落ち着くよな。静かだし、本の匂いもするし」


「うん。私も、好き」


君はノートを開きながら、ちらりと私を見る。


「なに?……お前、ずっと黙ってない?」


「……ごめん。ちょっと……」


「体調悪い?」


首を横に振る。でも、本当は違う。


“君がもうすぐ、いなくなるからだよ”


そんなこと、言えるはずもなくて。


「……なんでもないよ」


「ふーん。まぁ無理すんなって。俺、けっこう空気読むタイプだから」


「……嘘つき」


「えっ、そこツッコむとこ!?(笑)」

他愛の無いやり取り、この時間が永遠かのようだった。


 宿題はすぐ終わってしまった。

 


「ねえ、駅前のパン屋、今日限定でチーズカレーパンあるんだってさ」

 君は嬉しそうに話す。


 私の胸は、昨日より少しだけ強く痛んでいた。


「……あのさ、今日は駅まで行かない?」

 その言葉に、私は一瞬だけ迷った。


 昨日、君はあの交差点で——。

 でも、今日は道順を変えた。

 駅のホームなら、安全だと思った。思ってたのに——。


 


 電車が来る音が、どこか遠くから近づいてくる。


 放課後のラッシュ。人が多い。

 学生たちがホームの奥へ進もうとし、ざわめきが満ちる。


「ちょっと、押さないでよ〜」

「やば、間に合わなくね?」


 騒がしい声にかき消されるように、

私は君の手を握ろうとして——


 ——その時だった。


 


 軽い、けれど確かな“風”を感じた。


 隣にいたはずの君が、いない。


「……え?」


 視線を巡らせる。見つからない。


 焦る中、前方から悲鳴があがった。


 駅のホームから、制服の袖がちらりと見えた気がした。

 見間違いであってほしいと願った。

 でも、もう電車は——。


 音が、すべてを打ち消していく。


 


 “まただ”。


 昨日とは違う場所で。違う理由で。

それでも、君は私の前からいなくなった。


 


 私は、あのときよりも強く泣いた。


「見てたのに……ずっと、見てたのに……なんで、どうして……!」


 君がどれだけ小さく笑ってくれていたか、

あの日の放課後にどんな光が差していたか、

全部、全部、知ってたのに。


 守れなかった。

 


 朝。私は目を覚ました瞬間、

胸の奥で、誰かが叫ぶような声が響いていた。


 君が、またいなくなる。


 それが怖くて、私は制服を脱ぎ捨てるように、家を飛び出した。

電車に乗り、降りたのは見知らぬ海辺の駅。


 何も考えたくなかった。ただ、逃げたかった。


 


 堤防に座って、波の音を聞いていた。


 ふと、君の声が聞こえた気がした。


「おーい!」


 ——嘘でしょ?


 思わず振り返ると、

そこに、いるはずのない君の姿があった。


 制服を着て、少し息を切らして、私に向かって手を振っている。


「見つけた……やっぱり、君だと思った」


 ——どうして?


 そんな疑問よりも先に、

私の視界の端に、迫るトラックのタイヤが映った。


「危ない!!」


 私は、叫びながら走り出していた。


 


 でも、遅かった。


 あの瞬間、君が見せた微笑みは、

まるで「会えてよかった」と言っているようで——


 そして、君はまた、私の目の前から消えた。


 


 どうして?


 どうして、逃げても、探してくれるの。


 どうして、君は——死ななきゃいけないの。


 


 涙も出なかった。


 ただ、空っぽの心に、波の音だけが優しく打ち寄せていた。


  朝。

私はもう学校へ行くつもりはなかった。

制服も着ずに、私服のまま駅へ向かう。


 改札の先で、君はいつものように待っていた。

制服姿で、いつもの鞄を背負って。

でも私の姿を見るなり、目を丸くして笑う。


「え、デート?急にどうしたの?」


「うん、今日はね……君を連れ出したくて」


「へぇ……じゃあ今日は、特別な日ってことで?」


「うん。特別な日」


 今日は、君を連れて遊園地に行く。

君が「行ってみたい」って言ってたあの場所へ。


 


 絶叫マシンに一緒に叫んで、

観覧車のてっぺんでは、君が景色じゃなくて私を見ていて。

屋台のアイスを分け合って、笑って、

手を繋いで歩くことに、少しだけ戸惑って。


——私は、今、君に恋をしている。


 そう、心の奥から思えた。


 


 君は、くしゃっと笑ってこう言った。


「……こうしてるとさ、まるで俺たち、恋人みたいだね」


「……そうだね」


「君は、どう思う?」


「……今はまだ、わからないけど……」


 私は、言葉を選びながら、

それでも正直な気持ちを絞り出す。


「……でも、君のこと、大切にしたいって思ってる」


 君はそれを聞いて、少し照れたように笑って、

「そっか」と、ただ一言だけ返してくれた。


 


 その直後だった。


 メリーゴーランドの音楽が鳴る中、

どこかで、誰かの叫び声が響いた。


「刺された!誰かが刺されたぞ!」


 振り返る。

人混みの先で、何かが崩れるのが見えた。

悲鳴が連鎖するように広がる。


 私の手の中にあったはずの、君のぬくもりが消えていた。


「……嘘、でしょ……?」


 駆け寄ると、君は血を流して倒れていた。


 さっきまで笑っていた顔が、苦しげに歪んでいた。


「やだ……やだやだやだ……なんで……」


 助けを呼ぶ声が、喧騒の中に消えていく。


 


 あんなに、幸せだったのに。


 あんなに、笑っていたのに。


 君は、また私の手から消えていった。

 

朝。

私は、駅前のベンチにいた。

君がいつも座っていた、あの場所。


そこに、君が来る。


「おはよう。……なんか、今日の君、すごく大人っぽい」


「うん……今日は、君に“ありがとう”を伝えたくて来たの」


「え……急にどうしたの?なんか……変な予感する」


「ううん。大丈夫。大丈夫だから。

ただ、君と過ごせた“昨日”たちが、私にとって宝物だったって伝えたかったの」


君は、少し戸惑った顔をしたあと、

静かに、でも確かに微笑んでくれた。


「そんなこと言われたらさ……俺、泣いちゃいそうだよ?」


「……うん。私も、今すぐ泣いちゃいそう」


君が、少し手を伸ばす。

私は、その手を握る。


「……ほんとは、君が好きだった。

ずっと気づかないふりしてた。

でも、今はもう、ごまかせない」


君は何も言わずに、私を見ていた。

その瞳が、どこまでも優しかった。


 


その瞬間。


目の前の景色が、ゆっくりと光に溶けていく。


まるで、夢が覚めるみたいに。

でもこれは、きっと“目覚め”じゃない。


終わりだ。


昨日に囚われたままじゃ、前に進めない。

君の死を、君の優しさを、

「愛してた」って胸にしまって、私は今日を生きていく。


 


——君に出会えて、本当によかった。


 


私は、今日も笑う。

君が遺してくれた、あたたかい想いと一緒に。

 

 

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