都会のサーマルヘイヴン

D野佐浦錠

都会のサーマルヘイヴン

 コンクリートジャングルなどと言うものの、昨今の真夏の暑さは埒外ではないか。若い頃に出張で真夏のインドネシアに行ったが、きっとあのときの暑さの方がまだましだった。仲村はそう考えていた。


 都内某所の、オフィスビル1階のエレベーターホールだった。仲村の会社とは何の縁もない、全く無関係のビルである。ここが仲村にとっての安息地ヘイヴンだった。ルートセールスの道すがら、最近では日課のようにここに寄って休憩している。


 厳密に言えば不法侵入ということになるのだろうが、実際のところこのスペースには誰でも入れて、しかも冷房が効いているのである。

 涼しくて、しかも漫然と立っているだけで存在が許される、そんな場所はこの都心にあって貴重だった。


 ホールには仲村の他にも、このビルの関係者ではなさそうな人たちがぽつぽつと集まっている。仲村と同じようなサラリーマン風の男性、保険レディ風の女性、ベビーカーに男児を乗せた若い母親までも。

 互いに接点はないけれど、何となく共犯者めいた心境になる。あるいは、乾燥地帯の僅かな木陰に集まった動物たちのような感じだろうか。


 手持ち無沙汰にスマホでニュースサイトを見る。政治家の汚職、物価の上昇、遠い国の戦争。何だか暗いニュースばかりだ。世の中とはこういうものだったろうか、と仲村は瞑目する。


 世の中というものが理解できたと思ったことはない。ただ生きてきた時間があるだけだ。我武者羅にと言っては褒め過ぎだろうし、自堕落にと言われるほどでもないという自負はある。平凡に、というのが一番近いだろう。起伏はそれなりにあったけれど、誰の人生にでもあるようなものだった。


 仲村の仕事は塗料メーカーの営業だ。

 仕事人間というほどでもないが、道路を行き交う自動車を見ると、まず塗料の種類に目が行ってしまう程度には職業人だった。


 若い頃のインドネシアへの出張も、現地の機械メーカーへの塗料の納品の立ち会いのためだった。

 結局、そのときは取引先の工場に無事に塗料が納入されたのを見届けただけで、仲村が具体的に何かを成し遂げたという実感はなかった。工場に辿り着くまでのタクシーの手配やら運転手との交渉に手こずったことの方が記憶に残っている。

 ただ、現地の工場長にはいたく感謝された。

 一体、自分が果たした仕事は何だったのか。納得が追いつかないまま、工場長の力強い握手の感覚だけがずっと手の内に残り続けていた。それはもしかすると、今でもずっと。

 

 あの頃から何年も、訳がわからないままに働き続けている。

 こうして冷気に覆われていると、だばだばと流れていた汗が引いてくる。生きている実感のようなものだと感じる。外の殺人的な太陽光線が嘘みたいに。このエレベーターホールの中だけ、時間がゆっくりと流れているかのようだった。


 意味なんてわからなくても、あるいは意味なんて最初からなかったとしても。

 涼しいのは嬉しいし、仕事を終えてから飲む缶ビールは美味い。


 ここに集まった他の人たちも、それぞれに苦労しながら、世の中という訳のわからないものに立ち向かっているのだろう。仲村はそう感慨する。

 ベビーカーに乗せられた男児が何もない空間を握って笑う。母親がそれを見つめてまた笑う。仲村も、つられて何だか微笑ましい気持ちになる。ここに受容されていることがありがたい、というような気分になる。


 いやなニュースばかりね、と傍らで水色のブラウスを着た女性が呟いた。仲村より年上に見える、落ち着いた印象の女性だ。

「……失礼。でも聞いてくださる。最近、炒飯を作ったんです」

 どうやら女性は仲村に話しかけているらしい。その手元で、中途半端に畳まれた日傘が時計の振り子のようにゆっくりと揺れている。

「炒飯」

 と仲村は曖昧な返事をした。

「近頃、お米が高いでしょう。何だか、炒飯なんていうのも贅沢なお料理になってしまったなって、いやになったところで」

 確かに、わかります、と仲村は会釈混じりに返した。


 普通が贅沢になって、贅沢が罪になる。水準がどんどん変わっていく。

 ここだって、そのうち部外者は入れなくなるかもしれない。むしろそれが正しい。それでも今は、何とはなしに涼を求めに来た人たちが受け入れられている。それはありがたいことだと仲村は思う。束の間の安息が許される生活に感謝したい。


 汗はすっかり引いていた。

 無意識にポケットから煙草を取り出して、口にしかける。

 ⋯⋯ああ、流石にそれはまずい。

 何となく気恥ずかしくなって、仲村はポケットに煙草を戻した。


 そろそろ、仕事に戻らないと。

 安息地ヘイヴンの外側はとても眩しくて、熱と湿気に満ちた世界が広がっていた。

 まあ仕方がないか。

 仲村は蜃気楼を追うような足取りで、次の取引先に向かって歩き始めた。

(了)

 

 

 


 



 

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