どた靴を踏み鳴らし

増田朋美

どた靴を踏み鳴らし

3日間大雨が続いて、やっと晴れてきたなあと思われる日であった。これでやっと、洗濯物が干せるなあと、杉ちゃんは喜んでいた。こんなことで喜んでいるのは、杉ちゃんだけですよ、とブッチャーこと須藤聰は呆れていた。

「さあ水穂さん、ご飯にしましょうね。ちゃんとご飯を食べてくれないと困りますよ。今日は、水穂さんの好きな蕎麦ですから、ちゃんと最後まで食べてください。」

ブッチャーは、蕎麦の入った器を水穂さんのサイドテーブルに置いた。

「それでは、しっかり食べてくださいね。杉ちゃんも俺も含めてみんなそうだけど、ご飯を食べて始めて動けるんですからね。ご飯を食べないで動ける人間なんていませんから。」

ブッチャーは水穂さんに箸を渡した。

「じゃあ食べてくださいね。俺、ここで待ってますから。人が見てたら食べれないなんて言わないでくださいよ。俺は、ちゃんと見張ってろって言われてますから。」

ブッチャーに言われて、水穂さんは仕方なくはしを取った。そして、恐る恐る蕎麦を取って、口に入れるまではいいのだが、どうも食べ物を口に入れることで、咳き込んでしまうスイッチが入ってしまうらしく、激しく咳き込んで吐き出してしまい、どうしても蕎麦が喉を通らないのである。

「もうどうするんですか。なんで、食べ物を飲み込めないんですかね。そんなふうにねえ、ずっと食べないでいたら、本当に体がだめになりますよ。それでは困るでしょ。なんとかしようと自分で思わないと、心の状態は改善されないんですよ。」

ブッチャーはちょっと苛立って、水穂さんにそう言ってしまう。水穂さんは、もう一度蕎麦を食べようとしてくれるのであるが、やはり咳き込んで吐き出してしまうのであった。

「俺はどうしたらいいのかなあ。ご飯食べてくれるようになるにはどうしたらいいんだろ。」

ブッチャーはブッチャーで、水穂さんがご飯を食べない理由はなんとなく感じていた。確かに、水穂さんが、銘仙の着物しか着用できないのは知っている。だけど、それだけでは行けないと思う。

「だけどねえ、水穂さん。俺はね、俺の姉ちゃんにも言ってるんですけど、いくら重い病気であろうと、銘仙の着物しか着られないのであろうと、最終的には、生きていかなくちゃいけないと思うんですよ。だから、ちゃんとご飯を食べるときはご飯を食べる。それは、人間として、大事なことでしょ?」

ブッチャーはそういうのであるが、水穂さんは咳き込んだままだった。

「もうしょうがないんだから!」

とりあえず、薬を渡して、咳き込むのをやめてもらう。

「水穂さん、俺はねえ、悪いこと言ってるつもりではないんだけどなあ。人間、命ある限り生きていく、これが、大事なんじゃないですかねえ。俺は、水穂さんがいろんな人に優しくて、それで随分助けてもらっている人がいるのだって知ってますよ。そういう人のためにも、水穂さんにはご飯を食べてもらわないとねえ。いいですか、憂きに絶えぬは涙なりけりじゃないんですよ。俺は、涙の次には生きようと思う気持ちが大事なんだって思ってますから。」

ブッチャーは、姉の有希に言っているセリフと同じことを言うのが情けなかった。なんでこんな事を、水穂さんに言い聞かせなければならないんだろう。水穂さんに助けてもらって、救われた人たちは、大勢いるはずなのに、なんで、ご飯を食べないのだろうか。

薬を飲み込んでまた咳き込んでしまう水穂さんに、ブッチャーはやれやれという顔をした。

「もういっそのこと、同和問題などない国家へ行ったらどうですか。マークさんたちは、いつでも待ってると言ってました。そういうことでしたらね、同和問題のないヨーロッパで、ちゃんと体を治してもらってくださいよ。体が楽になれば、もうちょっと、ご飯を食べようと言う気持ちになれるでしょ?」

思わず、介護者の本音が出てしまう。水穂さんは、ごめんなさいというが、更に咳き込んでしまうのであった。

「またやってるんですか。」

製鉄所を管理しているジョチさんこと曾我正輝さんが部屋に入ってきた。製鉄所というのはあくまでも施設名で、鉄を作るところではなく、訳ありの女性たちが、勉強や仕事をするための部屋を貸し出す福祉施設である。大体の利用者さんは自宅から通う形で利用しているが、たまに水穂さんのような間借りをしている人間が現れることもある。

「はい、やってますよ。ご覧の有様です。もうどうしたらいいんですかねえ。俺は、よくわかりません。」

ブッチャーは、そうジョチさんに言った。

「ご覧の有様とは見ればわかりますが、それにしても、本当にご飯を食べないんですね。もうなんとかしようでは済まないのかもしれません。同和問題は、日本の歴史が関わってきますから。少なくとも、水穂さんが自分の事を新平民だと思っている限り、食べないと思います。」

「そんな悠長なこと言ってはいられないのではないですか。だって人間ですよ。人間ですからご飯を食べないと、エネルギーを補給できなくなって、そのうち餓死してしまいます。そうなったら、俺達も困りますよね。だから、俺達は、心配しているんじゃないですか。」

ブッチャーは、困った顔で言った。

「そうですね。確かにそのとおりではありますけれども、水穂さんが抱えている問題も事実ではあるんですよね。江戸時代には、放置されたままだったそうですから、今みたいに介護してもらえるのを、水穂さんは辛いのかもしれません。それは、仕方ないというか、いつまでも続いてしまうのですよ。」

ジョチさんが、そう事実を言うと、ブッチャーはどうしようと顔をした。

「まあ、誰かが同和問題に対して取り組もうとしてくれない限り無理ですね。それより須藤さん、今日から、うちで新しい家政婦さんを雇うことになりました。名前は小村秀子さん。何でも新聞に掲載されている求人票を見て来てくれたそうです。」

急にジョチさんが話を変えてしまったので、ブッチャーは更にびっくりする。

「え?小村秀子?なんか聞いたことある名前だなあ。俺の勘違いかなあ。まあ、いずれにしてもお手伝い役が来てくださるわけですか。それでは、ちょっと俺達の仕事も楽になりますかねえ。まあ、何日持つかですけどね。」

「そうなんですよね。大体の人は、水穂さんに音をあげてやめていきます。短い人で3日、長い人で一ヶ月でやめていかれました。何でも、以前芸能活動をされていたということですが、なにかわけがあって、ここへ雇ってほしいと申し入れたそうです。」

ジョチさんはサラリと言った。

「そうですか。わかりました。じゃあ俺も、新しいお手伝いさんに期待しますよ。水穂さん、俺みたいな太ったブサ男よりも、美人のお姉さんにご飯食べさせてもらったほうが、食べる気になりますかねえ。」

ブッチャーがそう言うと、

「まあそんなこと言ってはいけませんよ。あくまでも、水穂さんのことは、病気の症状として受け止めましょう。」

と、ジョチさんは、にこやかに言った。ブッチャーは、大きなため息をついた。

数時間ほど経って、

「はじめまして。小村です。小村秀子です。」

と、玄関先から声がした。ジョチさんが急いで玄関先へ行くと、確かに、芸能活動をしていたということはまんざら嘘もないらしく、大変きれいな人でもあった。

「今日から、こちらで女中奉公させていただきます。小村秀子です。よろしくお願いします。」

「はいはい。お待ちしていました。どうぞこちらにいらしてください。」

ジョチさんに言われて、小村秀子さんは、製鉄所の中に入った。

「ええ、よろしくお願いします。まず初めに私は何をすればいいんですか?」

と、小村秀子さんは聞いた。

「ええとですね。まず初めに、庭の掃除と、縁側の水拭きをやってもらいたいんですが、お願いできますか。あと、ここで間借りをしている水穂さんの話し相手になることもよろしくお願いします。」

と、ジョチさんが言うと、

「わかりました。じゃあ、そうさせていただきます。」

小村秀子さんは、すぐにジョチさんから案内された掃除用具入れを開けて、雑巾を出し、縁側を拭き始めた。それにしても暑いので、縁側をふく作業はけっこう大変だった。

「こんにちは。」

掃除をしている小村秀子さんに、ブッチャーは声をかけた。

「ああ、すみません。まだ自己紹介もしていませんでしたね。わたし、小村秀子といいます。今日から家政婦として、こちらで働かさせて貰うことになりました。頭も体もよくないし、なんにも役に立たないかもしれないですけど、精一杯お手伝いさせていただきますから、よろしくお願い致します。」

そういう小村さんの自己紹介は、なんだか頼りなくて、ちょっと自信がない感じであった。

「そうですか、俺は須藤聰です。こんな顔でってよく言われますけど、親がつけた名前なので、仕方ありません。まあ、受け入れながら生きていますよ。あだ名はどういうわけか、ブッチャーと呼ばれてます。」

「そうですか。確かに、ブッチャーさんとは、ふさわしいお顔だわ。」

と、秀子さんは言った。普通の人であれば、怒る人もいるかもしれないが、ブッチャーはそれは感じなかった。日頃から障害者に慣れているからかもしれない。

「はい、俺は、気持ち悪い顔だし、体格だし、ブッチャーとよんでくれれば十分です。」

とりあえずそう言っておく。

「そうなのね。そんなこと言うなんて、とても優しい方なのね。」

小村さんはまたそんなことを言った。

「あの、失礼ですが、小村秀子って本名ですか?俺、テレビでおんなじ名前の人が、でていたのをみていた記憶があります。すごい可愛い女優さんだなってみていたんですけど?」

ブッチャーが思い切ってそういうと、

「ええ、紛れもなく私ですよ。テレビにでていたことありましたから。」

と、小村さんは答えた。

「やっぱりそうですか。俺そうだなと思いました。あれだけ国民的に人気のテレビドラマにでていたのに、なんでここにいるんですか?なにかわけがあったのでしょうか?」

ブッチャーが聞くと、

「ええ、病気になって、テレビ局から、首になったからです。俳優活動はたのしかったけど、ちょっと太ったと言われて、ダイエットをしたら、それがどを越しちゃって。」

小村さんはにこやかに言った。

「ダイエット?それは難儀な。それでは摂食障害ですか?」

「ええ、いまでこそ、好きな食べものは食べられるんですけどね。ひどいときは、食べられなかったんです。」

秀子さんはにこやかに答えた。

「そうですか。それで食べられるようになったのは、なにか理由があるのですか?」

ブッチャーが聞くと、

「はい、家族が催眠療法を受けさせてくれたんです。ひたすら食べることを考えさせることにより、私は食べられるようになりました。確かに多少荒療治もありましたが、でも、ご飯がおいしいと思えるようになりました。」

と、秀子さんは言うのであった。確かに俳優をしていたのだから、俳優としてお金もかなりあったのだろう。催眠療法は保険がないため、お金がかかるのである。

「それで、もう一度女優さんには?」

「なりません。もう、あの業界はこりごりです。いくらお金があったとしても、ご飯が食べられないのでは、幸せとはいえない。それなら、何ができるかなと考えると何もないですけど、こういうところて、働いていられたら良いかなと。」

小村秀子さんは言った。

「そうですか。お金があってもご飯を食べられなければ意味がない。名言ですね。」

ブッチャーが彼女を褒めると、

「いいえ、私は大したことありません。あたしはもう決めたんです。芸能界より、こっちの世界で、ご飯が食べられなかったことを生かしていくんだって。」

と、秀子さんは言った。

それと同時に、製鉄所に設置されていた柱時計が、12回音を立ててなった。

「もうお昼の時間ですね。」

と、秀子さんが言う。

「そうだ。水穂さんにご飯を食べさせてやらなくちゃ。俺、なんとかしてやらないとだめだなと思うんですよ。いつも、ご飯を食べないで弱っていくばかりでしょ。だから、もうイライラしてしょうがないんですよ。」

ブッチャーは、そう彼女に言ってみた。彼女のような人であれば、きっとそういう重病人の世話はしないだろうなと思った。

「わかりました。ご飯食べさせるの、私手伝います。」

意外なことに、小村秀子さんの反応はこうであった。こんな書き方をしてしまうとおかしいかもしれないが、ブッチャーが予想していた反応とは、ぜんぜん違うものであった。

「私は、もう女優ではありません。だから、介護の手伝いもできるようにならないと。それだっていつかは私も関わることになるでしょうから。」

「そうですか。水穂さんにご飯を食べさせるのは至難の業ですが、それでも良ければ手伝ってください。」

ブッチャーはそう言って、まず台所に行った。そして、水穂さんに食べさせる予定の、米粉のバゲットを切ってさらに乗せた。飲み物として、お茶も用意して、お盆に乗せる。これらの装備をして、ブッチャーは、小村秀子さんといっしょに、水穂さんの部屋へ入った。

「水穂さんお昼ですよ。バゲット買ってきましたから食べてください。米粉のバゲットなので当たる心配はありません。ああ、そうそう、彼女は、今日から新しく手伝ってくれることになった、小村秀子さんです。」

そう言ってブッチャーは彼女を紹介した。秀子さんが、

「はじめまして。小村秀子です。」

と、にこやかに笑って挨拶すると、水穂さんは布団の上に起きて丁寧に座礼した。

「そんな、私に向かって、そんなに丁寧にご挨拶して頂く必要はございません。私は、当の昔に、女優業は終わりにしてしまって、もう一般人になるために、練習しているところですからね。」

「それでも、身分が高い人の前では、ご挨拶はしなければなりませんよ。」

水穂さんは、そういうのであった。ブッチャーは思わず、

「身分が高いとか低いって一体何ですかねえ?俺、俺の姉ちゃん見てわかるんだけど、決して低俗的な趣味、例えばゲームとか漫画は一切読まないし、そういうのを持たないので、身分が低いと決めつけることはしませんよ。それに、漫画だってためになる漫画は星の数ほどありますよね。だから、俺、身分のことはもう関係ないんじゃないと思うんですがねえ?」

と、水穂さんに言ってしまった。

「でも、僕は、銘仙の着物しか着られないんです。それは、どこの地域でもそうです。銘仙の着物着てれば、身分が低いってすぐわかります。そういうための着物だから。」

水穂さんは、座ったままそういうのである。

「そうかも知れないですけど、水穂さん。それが何になるというのですか?俺、そこがよくわかんないんですよ。水穂さんは、自分の事を新平民って言うけれど、それだって、じゃあなんだってことになりますよね。それがご飯食べてはいけないこととどう結びつくのかな?俺の姉ちゃんだって働いてもいないし、文字通り生きてるだけの状態の人だけど、なんとか看護師さんとか、そういう人たちの力借りて生きてますよ。俺は、そういう人だからこそ、生きていなくては行けないと思うんですが。違いますか?」

ブッチャーは日頃から感じていることを言ってみたが、水穂さんは、座ったままだった。

「なんですか。水穂さんのような人は、俺達に常に跪いていなくちゃいけないって、法律はどこにもありませんよ。ただ、水穂さんたちが、そうしなくちゃいけないって思い込んでいるだけでしょう。俺はそれが行けないと言ってるんです。やたら、俺達に謝って暮らしていればいいかっていう問題でもないと思いますよ。なんで、秀子さんに、そうやって手をついてしまうのですか?」

「そうですよ。あたしだって、女優業をする前は、決していい環境ではありませんでした。あたしは、容姿しか取り柄がないって言われて、それで女優業に応募して、テレビにも出たけれど、結局、それをしたからって、何になるのかといえば、何もなりませんでしたよ。だから私は、ふつうの女性でいたほうが、何十倍も幸せだって、わかったんです。きっと、ハイヒールでおしゃれな世界を生きるよりも、どた靴を踏み鳴らして生きている方が私には合うのではないかな。世の中にはそういう人間もいます。だから私に謝る必要はありません。」

と、小村秀子さんが言った。それを聞いてブッチャーは、有名になるよりも、こういう生き方のほうが幸せであると主張する人がいるのなら、もっと主張を続けてほしいなと思うのであった。

「さあ、ご飯を食べましょう。あたしたちは、決してあなたのことを、悪いようにはしませんから。だから、安心して食べてください。」

秀子さんはそう言って、水穂さんにパンを一切れ差し出した。水穂さんは、ようやく体を起こして、パンを口に入れてくれるまでは良かったのであるが、やはり、口に入れると、咳き込んではいてしまうのであった。いくら、どた靴を踏み鳴らす方が幸せだと、秀子さんが言っても効果はなかった。それでも、秀子さんは諦めず、水穂さんの口元を拭いてやったりして、もう一度食べましょうと言ってくれるのであるが、何度食べさせても吐いてしまう。

「大丈夫です。いつかは食べられるようになりましょう。そうなったときがきっと、みんな一緒なんだってわかってくれる時だと思います。」

しまいには赤い液体を吐き出してしまう水穂さんを見て、秀子さんは言った。大体の人は、こうなると、手伝い役をやめさせてくれと頼むのが常だが、秀子さんはどれだけ持つのかなとブッチャーは思った。

「大丈夫です。あたしたちはみんな同じです。どんなにひどい環境であっても、悩んだり苦しんだりしながら生きてます。それはみんな同じです。だから、水穂さんだけが苦しんで、あたしたちは楽に生きているということはありません。」

秀子さんはそう言って、水穂さんに薬を飲ませた。ブッチャーは、そういう言い方で同和問題が解決できたらいいなと思ったけれど、それはできないのだと言うことを説明しようとして、あえてしなかった。


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どた靴を踏み鳴らし 増田朋美 @masubuchi4996

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