トルコランプ
niko
第1話
トルコランプ
私の実家のリビングには、両親が旅行でトルコを訪れた際に買ったトルコランプが吊るされていた。私はその鮮やかに散りばめられたガラスを眺めることが多かった。あれほど綺麗で、ぼーっと見るに値するものはそうそうあるものではない。とりわけ家の中では。私は、私が生まれる前に行われたその旅行に興味津々だった。父や母に何度もその旅行のときの話をねだってしてもらった。ヨーロッパとアジアの境に位置する都市イスタンブールの喧騒や岩でできた土地で乗った気球と空からの景色、父の失態や今では笑い話となったトラブル。私がまだ存在していないときにも両親は生きていて、幸せな時間があって、それを楽しそうに、なんとも懐かしそうに語るその語り口が好きだった。そして、私は物心ついたときには既にトルコランプの中に行きたいと本気で思っていた。あのキラキラした硝子の中はきっと爽やかな風が吹いていて、この世のどんな場所より美しい景色が広がっているに違いないと。そんな幼い幻想も段々薄れていった。小学3年生の12月に大掃除、私は机の上に立ってトルコランプに付いた埃を丁寧に拭き取った。その時、硝子の中には電球が入っているだけだという当たり前のことに直面し、別によく考えなくとも分かることだったけれど衝撃を受けたのだった。
母が亡くなって3カ月になる。父は2年前に他界した。老人ホームに行く前、実家を引き払った際にまとめてあった遺品を整理していると、実家のリビングに吊るしてあったトルコランプが出てきた。私は少しドキッとした。独立して実家に帰ることも少なくなって、私の意識にこのランプが浮かび上がるのは久しぶりだったから。なくなってしまった両親の、更に私が生まれる前に行ったトルコ旅行。その時の空気が詰まっている気がして、私はくだらないと思いながらも硝子の蓋を少し開けて匂いを嗅いだ。懐かしい匂いがした。私はトルコに行ったことがないから、トルコの匂いではない。じゃあ何の匂いだとか考える必要もなくすぐに分かった。
「うちの匂いだ」
その瞬間、温かい雫が目から溢れ始めた。私たち家族の匂いだった。このランプはいつの間にか家族の幸せを閉じ込めていた。お別れはとうに済ませたつもりだった。それでもどうしてだろう、この幸せを分かち合う人がもう1人もいないというどうしようもない事実が、無性に痛くて寂しくて、この胸を締めつけるのだった。
次の日、私は夫に頼んで家のリビングにトルコランプを吊るしてもらった。窓から差し込む昼の光を反射して、白い天井と壁に、それよりも白い光の破片が散らばった。これまで色んなものに出会ってきた私は、これから色んなものを失うことになる。一番大きなものも既に失ってしまって、その穴は埋められないし、他にも穴は増えていく。だから、このランプはここに吊るしておこう。軽くなり続ける私の心と一緒にあれば、その時間が滲んでそこに閉じ込めておける筈だから。幸せなときも喪失に泣くときも、ランプだけは私と家族を彩り照らしてくれるだろう。
トルコランプ niko @xeynototu
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