日本。

田島ラナイ

第1章「異国の神」



潮風が頬を打つ。


白木真人は船の舳先に立ち、遠くに霞む倭国の山々を見つめていた。故郷百済を発ってからもう十日になる。波間に揺れる小さな船には、真人の人生を変えることになる「宝」が積まれていた。


「真人様、間もなく難波の津に着きます」


船頭の声に振り返ると、真人の視線はおのずと船の中央に向かった。白い絹で丁寧に包まれた木箱。その中には金銅の仏像と、異国の文字で記された経典が納められている。百済の聖明王が、倭国の欽明大王に献上する品々だった。


真人は小さく息を吐いた。二十三歳の青年にとって、この使命は重すぎるほど重い。


「仏の教えを、遠い倭の国に伝える」


王の言葉が耳に蘇る。真人は幼い頃から仏教に親しみ、仏像を彫る技術を身につけていた。だが、異国の地で一から宗教を広めるなど、想像もできないことだった。


「真人よ、案ずるな」


出発の朝、師匠の慧聰が言った言葉も思い出す。


「仏は慈悲深い。真の教えであれば、どこの国の人々の心にも届くはず。お前はただ、心を込めて仏像を彫ればよい」


そう言って渡されたのが、手のひらほどの小さな観音像だった。百済でも珍しい白檀で彫られた、師匠の手になる傑作。


「これをお前に託そう。きっと倭の国でも、多くの人を救うことになるだろう」


真人は懐から観音像を取り出し、そっと手に包んだ。穏やかな表情を浮かべた観音様が、微笑みかけているように見える。


「お導きください」


小さく呟いた時、船が大きく揺れた。難波の津が見えてきたのだ。


### 二


飛鳥の宮は、真人が想像していたより遥かに大きかった。


百済の使者として宮廷に案内された真人は、その規模に圧倒されていた。高い楼閣が建ち並び、色とりどりの旗が風になびいている。廊下を歩く役人たちの装束も、百済に劣らず華麗だった。


「こちらでお待ちください」


案内の役人に導かれた部屋で、真人は木箱を抱えて正座していた。間もなく、倭国の最高権力者である欽明大王に謁見することになる。


「緊張しておられますな」


振り返ると、品の良い中年の男性が微笑んでいた。


「私は蘇我稲目と申します。大臣を務めております」


「蘇我稲目様」


真人は慌てて頭を下げた。大臣といえば、大王に次ぐ地位の高官だ。


「百済からお越しの仏師と伺いました。どのような仏像をお持ちでしょうか」


稲目の目が木箱に注がれる。真人は恐る恐る箱を開けた。


金銅の仏像が、柔らかな光を放っている。釈迦如来の立像で、右手を上げて人々の恐れを除き、左手を下げて願いを叶えるという印相を結んでいる。


「これは...」


稲目の目が輝いた。


「何と美しい。この表情、この気品。まさに神々しいと言うべきでしょう」


「ありがとうございます」


真人は安堵した。少なくとも、この大臣は仏教に理解を示してくれそうだった。


「稲目、何を見ているのだ」


低い声が響いた。振り返ると、筋骨たくましい男性が立っていた。腰に太刀を差し、いかにも武人らしい風貌だ。


「物部尾輿様」


稲目の表情が僅かに硬くなる。


「こちらは物部尾輿様。大連をお務めです」


大連。それは軍事を司る最高官職だった。真人は再び頭を下げた。


「百済の仏像か」


尾輿は仏像を一瞥すると、眉をひそめた。


「我が国には八百万の神々がおられる。なぜ異国の神を拝む必要があるのか」


空気が張りつめた。真人は何と答えるべきか分からず、ただ縮こまっていた。


「尾輿様」


稲目が口を開く。


「仏は神ではありません。悟りを開いた聖者です。我が国の神々を否定するものではなく...」


「詭弁だ」


尾輿が遮る。


「異国の教えなど、我が国には不要。それより稲目、大王がお呼びだ」


そう言い残して、尾輿は去っていった。


真人は震え上がっていた。まだ宮廷に着いたばかりなのに、すでに大きな対立があることを感じ取っていた。


「お気になさらず」


稲目が優しく言う。


「尾輿様は古いお考えの方です。しかし、新しい教えを求める人々も大勢いるのです」


### 三


「西方の仏、その相貌端厳なり」


欽明大王の感嘆の声が、広間に響いた。


真人は平伏したまま、大王の反応を窺っていた。どうやら、仏像を気に入ってくださったようだ。


「稲目よ、そちはこの仏をどう思うか」


「はい。まことに尊い教えの象徴かと存じます」


稲目が答える。


「仏教は遠く天竺より起こり、中国を経て朝鮮に伝わった教えです。人の心を清め、国を平安に導くと申します」


「ほう」


大王が身を乗り出す。


「国を平安に導くとな。それは興味深い」


このとき、別の声が響いた。


「大王、お待ちください」


物部尾輿が進み出る。


「我が国は神代の昔より、天照大御神をはじめとする神々にお守りいただいております。今さら異国の神を拝めば、神々の怒りを買うのではないでしょうか」


「中臣鎌子も同じ考えです」


もう一人の男性が続く。神祇を司る中臣氏の当主だった。


「神々への祭祀を疎かにすれば、必ず災いが降りかかります」


広間に沈黙が流れる。真人は息を殺して、この議論の行方を見守っていた。


「うむ...」


大王が考え込む。


「稲目の言葉も、尾輿の言葉も、どちらも一理ある。しかし」


大王は再び仏像を見つめた。


「この仏の表情を見よ。何と慈悲深く、気高いことか。これほど美しい教えが、悪しきものであるはずがない」


「では、大王は...」


稲目が期待を込めて問う。


「稲目よ、そちがこの仏を祀ってみよ。そして、その功徳を確かめるのだ」


大王の言葉に、真人は安堵した。完全な受け入れではないにせよ、仏教を試してみようという意思を示してくれた。


「ありがたきお言葉」


稲目が深々と頭を下げる。


「必ずや、仏の功徳をお示しいたします」


しかし、尾輿と鎌子の表情は険しいままだった。真人は何か悪い予感を覚えていた。


### 四


その夜、真人は蘇我氏の邸宅に招かれていた。


「大王のお言葉、まことに嬉しく思います」


稲目が酒を注ぎながら言う。


「しかし、道のりは険しいでしょう。尾輿様や鎌子様は、本気で仏教を排斥しようとしておられます」


「やはり、そうでしょうか」


真人は不安を隠せない。


「百済でも、仏教が広まるまでには時間がかかりました。しかし、一度根付けば、必ず人々の心を救うことができます」


「その通りです」


稲目の目が熱を帯びる。


「私は若い頃、百済に使者として赴いたことがあります。そこで見た仏教文化の素晴らしさは、今でも忘れられません。寺院の荘厳さ、僧侶の尊い行い、そして何より、人々の心の平安」


稲目は立ち上がり、部屋の奥から何かを取り出してきた。


「これを見てください」


それは小さな経典だった。


「百済で写し取ったものです。まだ文字の意味は分からないことが多いのですが、きっと深い教えが込められているに違いありません」


真人は経典を手に取った。見慣れた文字が並んでいる。


「これは『法華経』の一部ですね。『諸法実相』について説かれています」


「読めるのですか」


稲目が驚く。


「すべての現象には、仏の真理が現れているという教えです。つまり、この倭の国の自然も、人々の営みも、すべて仏の慈悲の現れということになります」


「素晴らしい」


稲目が膝を打つ。


「それなら、我が国の神々も、仏の慈悲の現れということになりますね。神仏は対立するものではなく、同じ真理の別の表現なのです」


真人は頷いた。この人なら、きっと仏教を正しく理解してくれるだろう。


「稲目様、私はここで仏像を彫らせていただきたいのです。人々が親しみやすい、小さな観音像を」


「観音像ですか」


「はい。観音様は、苦しむ人々の声を聞いて、必ず救いの手を差し伸べてくださいます。この倭の国の人々にも、きっと慈悲を注いでくださるでしょう」


真人は懐から師匠の観音像を取り出した。


「これは私の師匠が彫ったものです。この観音様を手本に、倭の国の人々のための観音像を彫りたいのです」


稲目は観音像を見つめて、深く感動していた。


「何と美しい。この表情、この慈悲深さ。まさに人々を救う仏様です」


「必ず彫らせていただきます」


真人は決意を新たにした。


「この倭の国で、仏教を広めるために」


外では虫の音が響いている。秋の夜長、二人の男の心には、新しい時代への希望が宿っていた。


### 五


数日後、真人は稲目の邸宅の一角に小さな工房を与えられた。


百済から持参した道具を並べ、観音像の制作に取りかかる。素材は稲目が用意してくれた檜の木。倭の国らしい、良い香りがする。


「師匠、お導きください」


師匠の観音像に向かって祈り、真人は彫刻刀を握った。


最初の一刀が木肌を削る。木屑が舞い散る中、観音様の姿が少しずつ現れていく。


「真人様、お疲れ様です」


声をかけたのは、稲目の息子の馬子だった。まだ二十歳そこそこの青年だが、父に劣らず聡明な目をしている。


「馬子様、いつもお世話になっています」


「仏像の制作はいかがですか」


馬子が興味深そうに工房を覗く。


「まだ始めたばかりですが、きっと良い像になると思います」


真人は作業の手を止めて、馬子に向き直った。


「馬子様は、仏教についてどのようにお考えですか」


「そうですね」


馬子は少し考えてから答えた。


「父の話を聞いていると、とても理にかなった教えだと思います。特に、すべての人が平等に救われるという考えは、素晴らしいのではないでしょうか」


「平等に救われる、ですか」


「はい。我が国では、生まれによって身分が決まります。しかし、仏教では、どんな身分の人でも、心を清くすれば救われると聞きました」


馬子の言葉に、真人は感銘を受けた。まだ若いのに、仏教の本質を理解している。


「その通りです。仏は、すべての人の苦しみを取り除こうとしてくださいます。身分や出身は関係ありません」


「だとすれば、この教えは我が国の人々にとって、大きな希望になるはずです」


馬子の目が輝く。


「私も、いつか仏教を学んでみたいと思っています」


「きっと良い学問になるでしょう」


真人は微笑んだ。稲目といい、馬子といい、蘇我氏の人々は仏教を正しく理解しようとしてくれている。


「それにしても」


馬子が急に表情を曇らせる。


「物部様や中臣様の反発は、相当なものですね」


「やはり、そうでしょうか」


「昨日も、宮廷でかなり激しい議論があったと聞きました。物部様は『異国の神など不要』と主張され、父は『仏教は神々を否定するものではない』と説明したのですが...」


馬子は心配そうに続ける。


「このままでは、大きな対立に発展するかもしれません」


真人は胸の奥で何かが疼くのを感じた。自分が持参した仏像が、争いの種になってしまうのだろうか。


「馬子様、もし争いが起こったら、私は...」


「真人様」


馬子が真人の手を握る。


「どうか案じないでください。新しい教えが広まるときには、必ず反発があるものです。しかし、真理は最後には必ず勝利するはずです」


「ありがとうございます」


真人は深く頭を下げた。


「私は、ただ観音像を彫ることで、お役に立ちたいと思います」


「それで十分です」


馬子が励ます。


「真人様の観音像を見れば、きっと多くの人が仏教の素晴らしさを理解してくれるでしょう」


秋の陽射しが工房に差し込む中、真人は再び彫刻刀を握った。観音様の穏やかな表情が、少しずつ木の中から現れてくる。


この観音様が、いつか倭の国の人々を救ってくれることを願いながら。






ー 歴史メモ ー


仏教伝来(538年)

百済の聖明王が欽明天皇に仏像・経典を献上したことから、日本における仏教受容が始まった。当初は蘇我氏が推進派、物部氏・中臣氏が反対派となり、宮廷内で激しい論争が展開された。


蘇我稲目と物部尾輿

蘇我稲目は大臣として仏教導入を推進し、物部尾輿は大連として伝統的な神道の立場から仏教に反対した。この対立は次世代の馬子と守屋に引き継がれることになる。


古代の宗教観

当時の日本人にとって、仏教は全く新しい思想体系だった。既存の神道との関係をどう捉えるかが、受容の大きな課題となった。

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日本。 田島ラナイ @tajima_ranai

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