八月、藍に溶ける

彩原 聖

君のいない夏に

 一


 八月の、音もなく揺らぐ風が、今はもう忘れ去られた裏路地のその奥で、ことさらに熱く肌を舐めていた。


 赤錆の目立つ鉄骨が立ち、弛緩しきった電線が垂れ、角の取れた瓦屋根が連なる。その隙間を縫うように湯屋は確かに在った。


 “湯屋”と呼ばれるそれには暖簾もない。ただ、死を間近にした者にだけ垂れるのだという。


 初めてそれを見たのは、病を宣告された帰り道だった。

 医者の無機質な声が耳に残り、胸の奥で何か重いものが沈んでいた。

 

 余命半年と告げられたばかりの私は生きる意味も見出せず、ひたすら歩いていた。 

 

 あの日の空は青というより藍に近く、焦げた空気の匂いにまぎれて鼻腔の奥に甘さが、かすかに立ちのぼり、ひっそりと灯っていた。


 湯屋の入口には何もなかった。

 

 かつて誰かが囁いた噂では湯屋は死を覚悟した魂だけにその姿を現すとされた。まるで、此岸と彼岸の狭間に漂う蜃気楼のように。

 湯屋は、死にゆく者が最後に愛した記憶を刻むための場所だと。まるで、此岸に置き忘れた想いを彼岸へ渡す中継ぎと捉えてもよいだろう。

 

 ここには看板もない、灯りもない。ただ、木戸の隙間からわずかにお白湯を炊く湯気のようなものがたなびいていた。


 その匂いは線香に似ていた。だが、『焼香の匂い』ではなく、『記憶の匂い』と呼ぶ方が正確だった。深く重厚なその香りの中に、誰かの時間が湯気に溶けている気がした。 


 そして、その匂いは幼い頃に嗅いだ夏の夕暮れの記憶をほんの一瞬、呼び起こした。


 私はそこに立ち止まった。けれど足は一歩も前に出なかった。

 

 生きる時間が限られていると知ったばかりの私は湯屋の暖簾を前にして、初めて自分の心臓の鼓動を意識した。

  

 不思議と怖くはなかった。ただ、いま入ってしまえば、もう「戻ってこられへん」と心が告げていた。

 

 だから私は、その場を離れた。

 それは英断だったろうと今になって思う。

 その帰り道、通学路の外れにある坂のベンチで彼と再び会った。


 彼――志鷹しだかは白い制服を着てうすく汗ばむ首筋に風を受けていた。


「また、行かなかったんやね」

 

 私は行かなかった…じゃなくて、行けなかったと訂正する気も失せて、軽く頷いた。

 

 二


 志鷹という少年はひどく夏の似合わない風貌をしていた。

 

 透き通るほど肌が白く、目元は常にどこか焦点が合っておらず、髪は煤けたように暗かった。


 しかし彼があの坂のベンチに佇むとまるで“ここが彼のための風景である”とでもいうように蝉の声さえも音量を落とした。


「……あの湯屋、また見えたんや」


 志鷹が言った。

 「見えたわ」と、私は気の抜けた声で返す。

 

 彼は私の“余命”について何も聞かない。聞かずにすべてを知っているようだった。


 私は訊ねた。

 

「……おまえはもう中に入ったんか?」


 志鷹は少し笑った。口元だけで笑う、亡霊のような仕草だった。


「ずっと昔にね。たしか、去年の夏だったと思うわ」


「去年の夏? 何があったん?」

 

 私が尋ねると志鷹は目を細めた。

 

「ただ、暑い日に坂道で立ち止まっただけ。そしたら、湯屋がそこにあったんや。」

 

 それで、と続けて言う。


「あの日、急に光が眩しくて、音が遠のいたんや。誰も気づかんかった。ぼくも、なんでこうなったんか……よぉわからへん」

 

 彼の目はまるで空の藍に何かを見つけようとしていたかのようだった。 

 

 そして、その言葉を聞いたとき私の背筋をなぞったのは“冷たさ”ではなかった。

 不意に何か熱いものが喉の奥にこみ上げてきたのを覚えている。

 志鷹は“そこ”の住人なのだ。


 もう、とっくに。


 だから彼は誰の目にも映らず、誰の記憶にも残らない。

 ただ、湯屋の暖簾が見える人間――死を前にした者にだけがその姿を結ぶ。  

 私がそれを口に出す前に彼はそっと、私の手に触れた。


 蝉の声が一瞬、遠のいた。


 その手は思ったよりも暖かかった。

 死人の肌などではなかった。

 むしろ、生きている者よりずっと火照っていた。


「ほんまはずっと言いたかったんや」

 

 志鷹が囁くように言った。


「ぼくの夏はな……君が来るだけで、まだ終われへん気がするんやわ」

 

 その日もただ、となりに座って、ひとつの風景を共有した。

 日が暮れかけた空が、淡く、深い藍へと変わっていく様を。


 耳鳴りのような蝉の声の中で私は志鷹の横顔ばかりを何度も盗み見ていた。


 三



 母からのメールが10件以上溜まっていた。

 

「どこにいるの」「帰ってきて」そんな短い言葉たちが、現実の時間を突き刺してくる。


 でも私はそれに返す気持ちを持てなかった。


 夜になると、あの湯屋はよりいっそう明滅をはっきりとする。


 視界の中に確かに“存在する”と思った瞬間、まるで空間そのものが膜を張って、そこを“別の場所”として区切っているかのようだ。


 志鷹とともにその暖簾の前に立ったのは、二度目の邂逅から一週間と経たないある夜だった。


「……入るん?」


 私は問うた。唇の裏が強く緊張して、舌先がうまく回らなかった。


「ううん」

 志鷹は静かに首を振った。


「せやけど、見せたいねん。君にも――ぼくが見ていたものを」


 彼の眼差しには焦燥や未練といった生者のそれとは異なる、どこか抜け殻めいた静けさが宿っていた。

 まなざしの奥底で、かすかに懐かしさが滲んでいるようにも思えた。

 彼の眼に反射する私も似たような顔をしていることに気づき、ハッとした。


 湯屋の木戸を押し開けると、ひとひらの湯気が夜気の中に零れた。


 木戸の向こう、湯気の中に一瞬、少年が坂道で空を見上げる姿が揺らいだ。それは志鷹の、去年の夏の記憶だったのかもしれない。


 さっき、私は何か大切なことに気づいたと思ったが、初めて見る景色に心奪われて取りこぼしてしまった。


 中は広くなかった。六畳ほどの板敷の中央にぽつりと据えられた木桶があるだけ。

 匂いはしなかった。強いて言うならば、蒲団を干したあとの太陽のにおい。それを、何年も前に嗅いだ気がする。


「ここでは、生きていたときのことがひとつだけ……思い出されるみたいやわ」

 志鷹が言った。


「それは忘れたくないものなん?」


「……ちがうわ。忘れられなかったもの、かな」


 私は身を乗り出して木桶をのぞき込んだ。水面はなかった。

 代わりにそこにはたしかに“あのときの夕暮れ”が映っていた。


 ベンチに並んで座って互いに言葉もなく過ごした日。

 

 藍色の空がゆるやかに頬を撫でていた夕刻。

  私が、初めて“好き”という言葉を飲みこんだ瞬間。


「……これ、私の記憶?」


「ぼくの、でもある」


 志鷹はそう言ってこちらを見た。その顔は湯気のせいか、あるいは他に理由があるのか、判然とはしないが確かな赤みを帯びていた。


 風が湯屋の木戸を少し鳴らした。


「なあ、葵」


「うん?」


「君が、もしもまだ生きていたいって思うなら――ここには、入っちゃだめや」


 その声はどこまでも優しかった。

 けれどその優しさが私の胸に棘を残した。


 私は、彼とともにここに居たいと思ってしまった。

 それが、生きることよりも切実に願われてしまったのだ。

 

 志鷹が私の手をそっと取った。

 その瞬間、喉の奥まで上がった「好き」という言葉が“ただの息”になって消えた。

 

 彼の手の温度は先日と違って、少しだけ冷たかった。


「葵、君は、ぼくに恋をしたんか?」


 私は答えなかった。


 けれど、答えはもう木桶の水面に映っていた。

 藍の空の下、あの日と同じように頷いた私がそこにいた。

 

 四


 夜が明けきる直前の空はもっとも静かでもっとも脆い。

 星がすっかり姿を消した後、まだ太陽も昇らない時間帯。


 そのわずかな隙間に世界の輪郭がふっと緩むような感覚がある。


 私は志鷹とともに湯屋から離れた。


 戸を閉めるとその建物はもう、まるで最初からそこになかったかのように町の風景に溶けようとしていた。


「ありがとうな」と彼は言った。

「来てくれて、話してくれて、……君が、いてくれてほんまによかった」


 私はまた返す言葉を見つけられなかった。

 何も言えなかったのは、言葉を探していたからじゃない。


 ただ、感情がうまく形にならなかっただけだった。 

 志鷹の前にいるとき、私はいつも“存在している”と感じられた。

 

 誰にも言えなかった不安や胸の奥で音もなく痛んでいた未来の重さを、彼は一度も問わなかったのに、まるで全部知っていたように受け止めてくれた。


 沈黙しているだけで、自分がここにいていいんだと、呼吸のひとつひとつが肯定される気がした。


 母にも、友達にも、言えなかった。

 

 どれだけ生きたくても、生きられないかもしれないというこの重さを。

 でも志鷹の隣では、それを抱えたままでも、自分でいられた。

 

 それは、恋なんてやわらかい言葉じゃとても足りなかった。

 むしろ、私の輪郭そのものを静かに縫い合わせてくれるような――そういう感情だった。


「……君がいてくれてほんまによかった」


 その言葉を誰より私が、志鷹に返したかった。


 唇が震えた。言葉にならない言葉が、喉の奥で熱を持って詰まった。

  言葉は、言葉になる前に涙になってこぼれた。


 志鷹は笑った。微かに、けれど確かに、笑っていた。

 その顔があまりにも美しかったせいで、私は一瞬、本気で彼とともに消えかけている湯屋へ戻りたいと思った。

 

 このまますべてを投げ捨てて。


 死の側へ恋の終着点へ身を投げたいと。


 志鷹は静かに目を細めた。

 その瞳には、私の顔が映っていた――でも、それはまるで生気を失った、死者に近い私の姿だった。


 ぞっとした瞬間、志鷹が私の肩にそっと手を置いた。その指先に、温もりがないことに気づいた。


「葵、よお聞きや。」


 彼の声は、夏の風のように柔らかく、けれどどこか遠く響いた。


「志鷹……」


「ぼくはもう、誰の目にも映らん。でも、君があの坂のベンチでぼくを思い出すたび、ぼくの夏はまた少しだけ息づく。君が生きてくれるなら、ぼくはここで、君の記憶の中で、ずっと待ってる」


 死への誘惑と、限りある生への情動が私の中でせめぎ合っていた。


「……私は、志鷹を失いたくない」


 彼は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。 


 ……私は「生きるよ」と言った。

 でもその瞬間、足の指がきゅっと土を噛むのを感じた。

 志鷹とここにいたいと願う気持ちを、ただ黙って踏みしめた。


 それを見て、志鷹はまた一つ頷いた。

 その頷きがまるで赦しのように感じられた。


 生きることを選んでしまった私を赦してくれるかのように。

 風が吹いた。夏の終わりを告げるような、ひどく涼しい風だった。

 風の中で志鷹の輪郭と湯屋の影がゆっくりと薄れていった。


 藍色の空の下で夏椿の花が一輪、音もなく落ちた。


「……また、来年の夏も君がここにいませんように」


 それが彼の最後の言葉だった。

 残響のように風鈴の音がひとつだけ、町のどこかで鳴った。


 五


 それからの私は、季節を越えて生きた。

 余命半年と宣告された日から、もう一年以上が経った。


 いくつかの病状は奇跡的に緩解し、死の狭間を生きた記憶は湯気のように消えていった。


 けれど、彼との記憶だけは――

 

 八月の藍の空と坂道の夕暮れと木桶に映った頷きだけは、いまだ私の中に穏やかに息づいている。


 湯屋はもう見えない。あれ以来、一度も。

 けれど、藍の空を見上げるたび、志鷹の微笑が胸の奥でかすかに揺れる。


 “恋”という言葉を、まだうまく口にできない。

 ――あなたなら、どう言葉にする?


 あの日、私が飲み込んだ想いを。


 私は今日も、藍の空の下で生きている。

 あの坂のベンチは、いまも誰かを待っているように静かだった。

 もう志鷹はいないけれど、それでも私はときどき足を運ぶ。


 あのとき、確かにふたりで見た空をもう一度確かめるために。

 私が生きている限り、君はここにいる。……そう思えるなら、生きるって、きっと悪くない。

 

 スマートフォンの中にはまだ母のメールがいくつか残っていた。

 私は、ベンチに座ってふと思い立ち、短い返信を打った。


「ただいま。まだちゃんと生きてるよ」


 それだけの言葉だったけれど、送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。 

 

 あの夏、私は“藍”という色の意味を初めて知った。それは、死を匂わせる静かな色であり、そして初恋の記憶を溶かしていく、限りない余韻の色だった。

  

 さよなら志鷹、また思い出すよ。何度でも――君の夏を。


 さよなら初恋、藍に溶けていった私より。

 

(了)

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