『early rising』
宮本 賢治
第1話
おはよ。
意味のない早起き。
夏休み。
ラジオ体操もない休日。
そんな日に早起きした気分だ。
白い空間。
明るく、清潔に見える。
実際にチリ1つ落ちてはいない。
広い厨房。
おれ、1人には広すぎる。
1000人クラス。
レストルームも広いが誰1人いない。
こんな時間に起きているのは俺だけだ。
夕食の準備をしよう。
きのう、高速冷凍された牛肉のブロックを解凍した。
培養肉じゃないんだせ。
ましてや、昆虫や植物による代替肉でもない。
こんな贅沢が許されるのか?
もちろん許されるだろう。
こんなときに思う。
コックやってて、よかった。
自慢の牛刀。
指くらいなら、簡単に落とせる。
薄く、ブロックからスライス肉を切り分ける。
最上のロース肉。
霜降りの度合いがエグい。
熟成もバッチリだな。
牛の匂いがする。
あの牛乳の香りだ。
風味。
やはり、本物の食材はスゴい。
ヒーターで鉄鍋を加熱する。
熱くなった鉄鍋に牛脂を入れる。
ジュ〜って音、白い煙。
そこにザラメを銀色のさじでタップリとサラサラサラ、鉄鍋にザラメが落ちた時に音がする。
チンチロリン、
チンチロリン♪
良い音。
これは飛騨牛のロースだ。
小鉢に生卵をわり、それをかき混ぜる。
大振りなロース肉を1枚投入。
ジリジリと肉の焼ける音。
肉に少し火が通ったら、その肉に直接、醤油を垂らす。
醤油が鉄鍋に触れた。
ジュ〜♪
良い音、香ばしい香り。
それをひっくり返したら、ザラメ、醤油、肉汁で出来た最高の割り下にサッと絡める。
大振りな肉を菜箸で緩く折りたたむ。
小鉢に肉を入れた。
キレイに折りたたんだ肉を卵に絡めて、パクっと一口で食べた。
無言。
しゃべる気にならない。
しばらくして、思わずその余韻を言葉に変換した。
「···ヤッバい、これ人間をダメにする味だ」
生まれて初めての本物の食材を使ったすき焼き。
こんなの、今だから食べられる。
こんなのを食べることができるのは、ほんの1握りの人間だけだ。
贅沢な夕食を堪能した。
あまりもの満足感に息を吐いた。
明日は魚がいいな。
寿司だ。
本物のマグロで寿司を作ろう。
この船の冷蔵庫はおれのものだ。
白く長い廊下を歩く。
途中、掃除ロボットに会った。
丸いクッキー缶にブラシの脚を生やしたような見た目。
「ハ〜イ、ケン♪
夕食はどうだった?」
AIにフランクな口調を求めたら、こうなった。
不快さはない。
「今日も最高だった。
飛騨牛ロースのすき焼き。
明日は、本マグロの脳天を使った握り寿司だ」
クルクルクルと掃除ロボットはその場で回転して、いった。
「おいしそうね」
「今度、ご馳走するよ」
「それは楽しみだわ♪
彼女によろしくね」
そう言い残し、掃除ロボットは意味のない8の字走行をしたあと、通常業務に戻った。
通路の奥。
ガラス張りの壁。
3メートルの高さはある大きなガラスの向こうにおびただしい数のカプセルが並ぶ。
長期星間旅行用のコールドスリープのカプセル。
曇り1つない透明なカプセルの1つ、1つ。その中で人々は眠りについている。
そのカプセル群の中、迷いもせず、1つのカプセルの前に立つ。
カプセルの中では、1人の若い女性が眠りについている。
ショートボブの栗色の髪の毛。
目をつむっていてもわかる目鼻立ちのはっきりした美人。おれと同じ、アジア人だ。
C-503
カプセルのナンバー。
それしかわからない。
おれは、ワープ航法中の旅客船、オアシス号の専属コックだ。
この宇宙船は、ある植民惑星への航行中だ。
こういった類の船は、航行中に乗客、および乗組員はコールドスリープ状態となる。
自動航行により目的地を目指すワープ航法。目的地の植民惑星までには約1年を要する。
そして、突然、おれはなぜかコールドスリープから1人、目覚めてしまった。こんなことは初めての経験だ。事故といっていい。
コールドスリープは1人1人の体調を見ながら行われるために時間を要する。
1000人の人間にコールドスリープをかける。そして、目的地に近づくと1人1人眠りから覚ます。
この間の起きている人間の食事を用意するのが、おれの仕事だ。
おれ1人早起きしたからといって、他の人間を起こすわけにはいかない。第一、おれにコールドスリープから、人を覚醒させる技術も知識もない。
巨大旅客船で起きているのは、おれ1人。やることといえば、贅沢な食材を使って、食事をすることくらいだ。
おれの寝ていたカプセルの隣がこの子だった。
一目惚れした。
恋に落ちた。
おれはカプセル越しに、起きたこの子をなんて口説こうかずっと思案している。
なに、時間はあるさ。
あと9ヶ月と13日。
それまでに、ステキな口説き文句を考えればいい。
了
『early rising』 宮本 賢治 @4030965
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