夜の散歩者

広瀬弘樹

夜の散歩者


 私は散歩者。夜を歩く散歩者だ。いつものように夜空を歩いていると地上で涼やかな音がした。

 昨今、夜の空といえど散歩には適さない。昼の間太陽に焼かれた大気と雨雲が運んで来る湿気でふた昔前のような心地の良い夜空ではなくなってしまった。しかし私はぎらつく太陽の下を出歩くよりはささやかな星の光の間を遊ぶ方が幾分かマシだろうと一人二人と止めていく夜の空中散歩を止めることはなかった。

 昔の夜と言えばヘッドライトを着けた翼人や我々散歩者のカンテラが作る渋滞が無翼の人々に星や月の運行と間違えられたものだったというのに、いやはや世の中は変わったものだ。

 ウィンドウチャイムにも似た音に釣られて地上に目を凝らすと店先に置いたプールに翼のない男が足を浸けて涼んでいる。なるほど無翼なりに涼をとる方法を考えているようだ。

 少し話してみようとカンテラを下げて光の階段を作った。焼けて蒸され、温度が下がらないままの大地が近づくにつれ、無翼の男が可笑しいことに気が付いた。

 まず男は若く見えたが幼いというには年長けている雰囲気だ。そしてプールだと思ったそれは氷と酒の瓶を浮かべた巨大な桶だった。

 大翼――通常翼人は自分の身長と同程度の翼を持つが、二倍近い大きさの翼を持った力の強いものを大翼と呼ぶ――数人がかりで運んだであろうと思われる年季の入ったオークの桶だ。錆が所々にある鉄のタガは汗をかき、桶の中にはみっしりと氷と酒の瓶が浮かんでいる。

「こんばんは。君は何をしているのかな?」

「こんばんは、散歩者さん。見ての通り酒を冷やしているんだ」

 日焼けの跡もぱっきりとした、二十歳になるかどうかの声の男はハンマーを片手に答えた。顔つきからして東海人であろうか。

「全部東海の吟醸酒さ。僕が船でここまで持ってきた」

「東海の酒は旅行させても大丈夫なのかい?」

「波にもまれて旨くなるのさ。大将のお墨付きだよ」

 奥にいる口髭を生やした大翼の店主を指差す。なるほどあの大きな翼なら東海でも北海でもすぐに着くだろう。

「ほら見て。氷水で冷やした瓶をほんの少しだけハンマーで叩くと凍って最高に美味しい酒になるんだ」

「へえ、良ければ一杯貰えるかな?」

「この桶の酒はボトルでしか注文できないけどいい?」

「もちろん」

 男が大将に声を掛けるとテーブルが用意され始めた。酒の注文は桶の前でするらしい。

「ではこの酒をもらおうか」

「はい」

 東海らしい墨跡のラベルの群れから朱色の文字を選ぶと男は小さくハンマーを振った。

 トライアングルの澄んだ音色に似た音を立てて瓶が見る間に凍っていく。

「冷たいよ。気を付けて」

「ありがとう」

ひんやりと凍った瓶を手渡されテーブルに向かう。氷水の桶で冷やされた空気を扇風機で送り込んでいるせいか奥まった間取りの割に店内は涼しかった。口髭の大翼がぶっきらぼうにオーダーの続きを取る。

「つまみは?」

「そうだな……貝でなにか作ってくれるかな?」

「ホタテのバター焼きなら」

「ではそれを」

 酒は二枚貝のように薄い陶器の杯で頂くらしい。瓶に張り付いた氷を少しだけ剝ぎ取り開栓すると冷気が目に見えた。

 東海の酒は米を酵母で発酵させるのだったか。さて私の籤運はいかがなものだろうか。凍る寸前のとろりとした液体で満たした杯に口をつける。

 鼻に芳香が抜けていく。口に広がるのは米が変化した果実の甘さと角の取れた酒精だ。ふむ、これは白桃系の味だろうか……などと考えているうちにホタテのバター焼きがやって来た。北海のホタテとバターの濃厚さに負けるのではないかと思ったが素晴らしいマリアージュだ。

 陶器の杯もいいがリキュールグラスに入れても一興ではなかろうか。

「ねえ本当に散歩者さん?」

「そうだよ」

 瓶の残りが少なくなった頃、桶から上がった男が話しかけて来た。つっけんどんにする理由もないので会話に興じることにした。

「久々に見たよ。昔は天の川とカンテラの道がキラキラしてたっていうのに今じゃさっぱりだ」

「天文学者は喜んでいるようだけれどね」

「翼もないのに自分で確かめた気になってる連中の気なんかしらないよ。散歩者はどこに行ったんだろう」

「さあ、どうだろう。我々は散歩を止めたらただの無翼だ」

「この店にも元散歩者がいるの?」

「いるかもしれないし、いないかもしれない。例えば通りで石を投げれば当たるかもしれない。それだけさ」

 東海の男は分かったような分からないような顔で再び桶へ向かった。私が言ったのは比喩でも何でもなくそれだけ多くの仲間が散歩を止めるのを見送ったというわけだ。

 ふむ、少しだけ感傷的になってしまった。芳香の余韻を味わい席を立つ。勘定を終えた私に東海の男はもの悲しげな視線を向けている。

「ねえ君、もし元散歩者に逢ったならこう言いなよ。『地上の夜にもいい場所がある』ってね」

 答えを待たずカンテラを上げて光の階段を作る。私は散歩者。夜を歩く散歩者だ。

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夜の散歩者 広瀬弘樹 @hiro6636

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