地下
コンクリートの均衡が崩れた音。鉄の梁が軋む。
僕は地下の薄暗がりの中でゆっくりと立ち上がった。
胸の奥で鼓動が、まだしがみつくように鳴っている。
指先は泥と油で真っ黒だったが、皮膚は幾度も擦り切れた跡がなく、どこか新しかった。
腐食した配線、砕けたパイプ、朽ちた工具箱――そこが戦場であったことを、彼の目は否応なく告げていた。
僕の手にあるのはAKのマガジンだった。
実戦で広く見かけるAK-74の30連マガジン。
5.45×39mmの薬莢が規則正しく並んでいる──この小さな金属片ひとつひとつが、生と死を分ける。銃の感触は身体に馴染んでいた。
設計上のレシーバーの重心、ガスピストンの作動音、自分の親指で繰り出すボルトストップの感覚。すべてが戦闘で覚えたもので、瞬時に脳へと戻ってくる。AK-74の基本仕様と実戦での挙動は、僕を現実へ引き戻した。
地下を這う冷気に、離れていった仲間たちの残響が混じる。
廃棄された弾薬箱の端に、仲間が落としたメモ帳の破片。
そこに走る走り書き。数名の名前、そして丸で囲われた日付――5月中旬。アゾフスタリの範囲、地下壕の迷路、そして最後の連絡が途切れた日だった。
外での戦況がどうなっているのか、一瞬のうちに僕は把握しようとした。僕が覚えているのは、工場の屋外での重装甲車の接近、圧迫する砲撃、T-72の砲塔が鉄骨の間から姿を現したことだ。
T-72はロシア・旧ソ連の主力戦車で、125mm滑腔砲を主砲に持つ。装甲と火力が組み合わさり、都市での破壊力は甚大だった。奴らが使った車両と砲撃は、製鉄所の大きな建屋を次々と無力化していった。
僕は地下通路の一角へ身を沈めた。ここは、製鉄所の冷却管や配線が網の目のように張り巡らされた古い保守通路だ。旧ソ連時代の設計は頑丈で、入り組んだ地下設備は天然の防御点となる。
何か月にも及ぶ籠城は、この迷路に守られながら続いた──外界が燃えている間、僕らはこの鉄の腹の中で生き延びようとしていた。現場取材や衛星写真、目撃証言が示すところでは、アゾフスタリの地下構造は複雑なトンネルと地下室のネットワークを抱えており、それが最後の抵抗の拠点となった。
まず必要なのは、弾薬と通信だ。僕は床に転がる古いソ連製のラジオ端末に気づく。埃を払って回すと、ダイヤルのフィードが引っかかるように動き、かすかなホワイトノイズが耳に飛び込んできた。
通信は途切れ途切れだったが、周波数をこまめに探ると短い断片が聞こえた。片言のウクライナ語、外れた英語、そして断続的に混じる軍事用コード。だが仲間からの定期連絡は、もはや届かない。
僕の目的は一つだけ明白だった――仲間を見つけ出し、生還可能な場所へ合流すること。
だが「死なない」身体は彼に不都合な問いを突きつける。
肉体は再生する。だが再生の間に体力は失われ、
弾薬と食糧は消耗する。
敵は増援を送って補給線を固め、製鉄所を包囲した。
都市部の戦いは常に消耗戦だ。
僕の蘇生が無限に弾薬を生むわけではない。
僕が死んで戻るたび、周囲の状況は少しずつ変わる。
瓦礫が飛散し、爆風で開いた新たな穴が生まれる。
再生は「やり直し」を可能にしても、戦場の物理法則を変えるわけではない。
最初の決断は素早かった。
補給ポイントになると思しき場所――かつての作業員の休憩室へ向かう。
そこには缶詰とボトル、破裂した浄水装置の残骸があり、
医療用具の一部も残されていた。
止血帯と包帯、簡易消毒液。殆どは使い古されたものだが、
当面をしのぐだけの価値がある。
僕は懐から小さな帳面を取り出し、
短い走り書きで自分の軌跡を記し始めた。
後から合流する可能性のある仲間のために、道しるべを残す必要があった。
暗闇を切り裂くように、外部から重い足音と叫び声が届いた。
ロシア軍の捜索隊が地下に降りてくる。
足音は規律正しく、装備は重装備。
彼らの無線には
「チェックポイント、ここを排除せよ」
といった命令が流れている。
僕は鉄の梁の影に身を潜め、呼吸を整えた。
銃を構え、待つ。
その間にも別の現実が、僕の頭の中を走馬灯のように過る――戦友の顔、訓練での罵声、故郷の港、母の手紙。蘇るたびに思い出す痛みが、僕を冷徹にしていく。
捜索隊がやってきた。
明かりが壁に当たり、影が伸びる。
先頭の兵士はライトを振り回し、背後で機関銃がゆらりと構えられた。僕は狙いを定め、呼吸を止めた。
僕は既に「死ぬ」ことを経験している。
そのたび、瞬発力と判断は研ぎ澄まされていく感覚を覚えた。
息を吐き、トリガーを引く。
短い連射が地下に響き、三人の兵士が崩れ落ちた。
だが振動と爆発が新たに近隣を崩し、別の通路から別の部隊が流れ込む。
弾丸が胸を貫いた。
熱が骨を震わせ、また世界が白くなる。
視界の端で、倒れた兵士の顔が僅かな理解を浮かべる。
その瞬間に僕は知る――自分はまた蘇る。
血が逆流し、穴が塞がり、また立ち上がる。
地下の冷気の中、僕は再び銃を手にした。
目の前で立ち上がった僕の姿に敵はあっけにとられている。
僕はすぐに引き金を引いた。
うす暗い地下室の一角で閃光が飛び散る。
また敵兵を殺した。でも数人は取り逃がしたようだ。
ここにずっといては、また援軍がやってくる。
僕は地下迷路の闇へと歩みを進めた。
武器を確かめ、地図――ではなく足跡と破片を頼りに。
外側の爆撃の音は止まず、鉄の大屋根が遠くで崩れ続ける。
だが僕はもう一度だけ、戦うと決めていた。
何度でも死ぬことが出来るのなら、それを利用して確実な道を作る。単独の反撃作戦は無謀かもしれない。だが僕は無謀を恐れない。今この状況でもっとも恐れるべきは、何もしないことだと知っていたからだ。
地下の道はさらに深く、暗く、冷たい。僕は懐に入れたボールペンで、入口からの距離と目印を記し続ける。足跡はいつか誰かの手で追える道しるべになるだろう。僕の戦いは、個人的な復讐だけではない。
失われた同胞の名を敵兵の死体に刻み、破壊され、故郷を奪われた同胞の怒りと無念を晴らすという責務だ。
Re:アゾフ旅団ーUkrainian battlefield 2022ー 雪風 @katouzyunsan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。Re:アゾフ旅団ーUkrainian battlefield 2022ーの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます