第2話 めんどくさい女
「あれ? 冬野には言ってなかったっけ? うん、夏帆っていうんだけど、もうすぐ付き合って一年なんだ。今度の日曜に会う約束してたんだよ」
「……っ……う、そ……」
彼女の顔は蒼白になっていた。
唇が小刻みに震えている。
何か言いたげに開いた口からは、言葉にならない微かな息が漏れるだけだった。
「冬野? どうしたの、本当に大丈夫?」
心配になり、彼女の肩に手を伸ばす。
だが、手が触れる前に、冬野はびっくりしたように後ろに下がった。
まるで触られるのを嫌がるみたいに。
「あ、あの……ご、ごめんなさい……」
消えそうな声でそう呟くと、冬野は視線を外した。
そして、ぎゅっと握りしめていたスカートの裾を離し、丁寧に机の上の参考書をカバンにしまい始める。
指先が震えている。
「そろそろ、時間ですし……」
それだけ言うと、冬野はカバンを抱え、図書室の出口へと向かって歩き出した。
その足取りはふらついている。
今にも倒れてしまいそうだ。
僕は心配になり声をかけようとした。
「……あっ……」
けれど、喉の奥で言葉が詰まって、何も言えない。
彼女の背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
そして、図書館の扉が静かに閉まる音がした。
僕は、ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
◇◇◇
翌日。
あいも変わらず、分厚い数学の問題集と相変わらず格闘している。
だけど、先日、冬野がくれたあの参考書のおかげで、以前はまるで歯が立たなかった応用問題も、今はスラスラと理解できるようになっていた。
「冬野のおかげだな、本当に助かった」
そんなひとりごとを呟き、頬を緩めた。
数学の成績が上向いたことで、いくらか晴れやかだった。
恋人である夏帆との関係も変わらず順調で、来週末には付き合って一年になる記念のデートを控えている。
だけど、視界の片隅には、どうしても気になる変化があった。
昨日の一件以降、冬野の様子がおかしいのだ。
図書室のいつもの席で、静かに本を読んでいることは変わらない。
けれど、以前のように目が合ってはにかむことも、控えめに微笑みかけることもなくなった。
まるで、僕との間に見えない壁を築いているかのように、彼女の存在は閉ざされている。
昼休みも一人でいることが多いが、以前よりもその雰囲気がどこか張り詰めているように見えた。
「何か言いたげだったよな……それを邪魔したから怒ってるのか? それとも、期末テストが近いから、ナーバスになってるのかな……」
◇◇◇
期末テストが終わり、結果は上々だった。
特に数学は、詩織がくれた参考書のおかげで満点に近い点数を取ることができた。
どうしても冬野に直接お礼が言いたい。
放課後、図書室の片隅で本を読んでいる姿を見つけ、そっと彼女に近づいた。
◇◇◇
【冬野詩織視点】
「冬野、数学のテスト、おかげさまで完璧だったよ! 本当にありがとう、あの参考書、すごく役に立ったんだ」
笑顔で話しかけてきた先輩に、私はびくりと肩を震わせる。
ゆっくりと顔を上げた表情は、どこかこわばっているだろう。
あぁ、まただ。
また、その声で……その笑顔で……私を、特別じゃない場所に引き戻す。
完璧だった、ですか。
必死になって、遠くまで足を運んで、先輩のためにと、そんな下心すら抱きながら手に入れた本のおかげで。
でも、先輩の口から出るのは、ただの「ありがとう」。
彼女持ちの先輩からの、ただの感謝。
これ以上、何を期待しろっていうの?
私って、本当にバカ。
こんなふうに動揺する自分が、心底嫌になる。
「……そ、そうですか。お役に立てたなら、よかったです」
そう言い、すぐに目を伏せ、手元の本に視線を落とした。
以前のような嬉しそうな顔も、はにかんだ笑顔も作ることができない。
「あのさ、お礼に何か奢りたいんだけど、冬野の好きなものでも……」
唇を噛みしめた。
奢る?
まるで、先輩にとって、どうでもいい後輩だから、簡単に済ませようとしているみたい。
そんなの、嫌だ。
嫌に決まってるじゃないですか。
私が欲しいのは、そんなお礼じゃない。
私を見てほしい。
私だけを見てほしい。
なんて言えるわけがない。
分かってる。
先輩は悪くない。
ただ、私と先輩の間に、埋められない壁があるだけ。
私が勝手に、その壁の向こうに踏み込もうとしただけ。
だから、こんな感情は、私だけが抱えるべきもの……
「い、いえ……そんな、必要ありませんから。私なんかに、もったいないです……」
震える声でそう言い、さらに身を縮めるようにうつむく。
その拒絶ともいえる態度に、先輩は戸惑った様子を見せた。
「え、もったいないって……どうして?」
「……だって、私、別に何かしたわけじゃ……」
私は、それ以上言葉を続けず、ただうつむく。
先輩は、不思議そうな顔をして、図書室を後にした。
ひっそりと、震える息を吐き出した。
手元の本は、もう何も頭に入ってこない。
文字が、ぼやけて見えた。
また、避けてしまった。
先輩はきっと、何を怒っているのか、全然分かってない。
当然だ。
勝手に先輩のことを見て。
勝手に期待して。
勝手に傷ついているだけ。
ただ、それだけなんだから。
指先で、読んでいた本の端をぎゅっと握りしめる。
紙が小さくクシャリと音を立てた。
その音は、心の中で軋む音のようだった。
私って、本当にめんどくさい女。
素直になれない。
欲しいものがあるのに、欲しいと言えない。
近づきたいのに、突き放してしまう。
こんな自分が、心底嫌だ。
先輩は、きっと困ってるだろうな。
あんなに優しい人なのに。
私なんかのせいで……
頭の中では、先輩の優しい声がループする。
「大丈夫?」「心配してたんだ」――その一つ一つが、心の奥底に、鋭いナイフのように突き刺さる。
その優しさは、私だけに向けられた特別なものではない。
誰にでも分け与えられる、普遍的な善意。
それが、こんなにも苦しいなんて。
私だけを見てほしい。
私だけが特別でいたい。
そんな醜い感情が、心の中に渦巻いている。
先輩は、そんな感情を知ったら、きっと引いてしまう。
きっと拒絶されてしまう。
だから、隠すしかない。
この気持ちごと、私自身を、先輩の視界から消してしまいたい。
ガラス窓の外に、また雨が降り始める。
窓に打ちつける雨粒の音が、心の中で響き渡る。
「……先輩なんて、大嫌い」
私は次の日から、学校に行くのをやめた──
僕にだけ懐いている人見知りな後輩、恋人が居ると知った途端静かに、だが確実に狂い始めた。 工藤ナツキ @r0zir_o
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