僕にだけ懐いている人見知りな後輩、恋人が居ると知った途端静かに、だが確実に狂い始めた。
工藤ナツキ
第1話 私、先輩のことが……
「……先輩、もしかして、また数学で悩んでますか?」
不意にかけられた声に、僕は顔を上げる。
じめじめとした梅雨の放課後。
図書室にはクーラーの微かな稼働音だけが響く。
来週の定期考査。
そこに向けて分厚い数学の問題集と格闘していた僕は、何度目かのため息を吐く。
集中力が続かない。
斜め向かいの席に座る少女。
彼女は僕の一個下の学年。
つまり後輩だ。
クラスでは目立たず、どこか陰のある雰囲気。
休み時間も一人で本を読んでいることが多い。
そんな彼女が、僕と目が合うと、ほんの少しだけ、はにかんだような笑みを浮かべる。
その控えめな笑顔が、僕にとってのささやかな癒やしだった。
「ああ、冬野か。うん、そうなんだ。この問題集、手ごわくてさ」
苦笑すると、冬野はふるふると首を横に振った。
「……やっぱり。ずっと唸ってるから、そうかなって。その問題集、かなり難しいですよね? 先輩、いつも難しい問題に真剣に取り組んでいて、本当に尊敬します。私には、あんなに集中できないです」
彼女の声は控えめで、まるで吐息のようだった。
だが、その一言が、凝り固まった集中力を少しだけ解きほぐしてくれる。
「はは、集中してるっていうか、ただ解けないだけだよ。特にこの応用問題がさ、どうにも手こずってて……もう何回も解き直してるんだけど、なかなか解法が掴めなくて困ってるんだ」
問題集のページを指差すと、冬野は身を乗り出すようにして、僕の見ていたページを覗き込んだ。
近い。
その距離が、普段の彼女からは想像できないほど近い。
ふわりと、彼女から石鹸のような清潔な香りが漂ってくる。
薄手の夏服の胸元がわずかに緩み、白いインナーが覗いている。
その奥に、うっすらとブラのレースが見えた。
水色、か。
「……先輩? どうかしましたか?」
「い、いやっ……別になんでもないよ」
「そう、ですか」
あぶない。視線でバレてたか。
「ふふーん、これですか……確かに、これは少しひねってますね。このタイプの問題は、補助線を引くのがポイントですよね。私も前、これと似たような問題で苦戦しました。この問題集、解説が少ないから、余計に難しいですよね、先輩?」
彼女の透き通るような白い指が、問題集の余白をなぞる。
その指先が、ときどき腕に触れる。
そのたびに微かにひんやりとした感覚が伝わり、ぞくりと背筋を走った。
「そうなんだよ! 解説がなくて、もうお手上げでさ。冬野も苦戦したってことは、やっぱり難しいんだな」
「はい。でも、ヒントが少しでも見つかれば、先輩ならきっと解けますよ」
優しい目で見上げてきた。
再び問題集に目を落とすと、数分後、冬野がゆっくりと立ち上がり、僕の席のそばまで歩いてきた。
そして、机の上にそっと一冊の参考書を置いた。
「あの……先輩、これ。前に話してた、数学の参考書なんですけど」
彼女が指差したのは、少し分厚い、専門的な内容の参考書だった。
それは先日、数学の難しい問題について話していた時。
思わず「こんな参考書があったらいいのに」と漏らした、少しレベルの高い、しかし痒いところに手が届くような参考書だった。
まさか、それを覚えていて、わざわざ探してきてくれたなんて。
「え、これ…もしかして冬野が探してくれたの? わざわざ?」
驚いて見上げると、ほんのり頬を染めて、小さく頷いた。
その表情は、普段の無表情に近い彼女からは想像できないほど、人間らしい感情に溢れている。
「はい……先輩が困ってるのを見てたら、私も何とかしたいなって思ってしまって。この本、解説がすごく丁寧で、応用問題の考え方が載ってるんです。多分、先輩の役に立つと思って、頑張って探しました。遠い本屋さんまで、足を運びましたけど……先輩のためなら、全然」
誰も見ていない放課後の図書室の片隅で、彼女が僕だけに示してくれた、この特別な気遣いと行動。
それは、僕の心を温かく満たしてくれる。
心臓が、トクン、と小さく、しかし確かに跳ねる。
「ありがとう、冬野! これ、本当に欲しかったんだ! まさか、本当に見つけてくれるなんて思わなかったよ。どこで手に入れたの? 普通の本屋さんには置いてないタイプだよね?」
興奮気味に尋ねると、冬野は少し伏し目がちに答えた。
「はい……少し遠くの専門書店まで、足を運びました。でも、先輩が喜んでくれるなら、私、本当に嬉しいから。あの、先輩が数学で困ってたら、いつでも言ってくださいね。私にできることなら、何でも」
その言葉に、思わず息を飲んだ。
僕のために、わざわざ遠くまで。
この空間で、彼女が僕にだけ見せる、この特別な優しさと献身。
それがたまらなく、心地よかった。
彼女の真っ直ぐな視線に、頬が少し熱くなるのを感じた。
「冬野って、本当に優しいんだね。僕、助かったよ。今度何か奢るよ」
「そんなこと、ないです。先輩が頑張ってるから、私も……」
彼女はそこで言葉を区切り、伏し目がちに微笑んだ。
その控えめな仕草が、さらに彼女の可愛らしさを際立たせる。
冬野のおかげで、まさに探していた参考書を手に入れることができた。
彼女はすぐに自分の席に戻り、また静かに本を読み始めた。
僕も参考書を開き、問題に取り組み始める。
先ほどまでの数学への憂鬱さは消え、心の中には温かいものが残っていた。
「冬野、本当にありがとう。おかげで、この問題、解けそうだ」
小声で礼を言うと、彼女は小さく頷く。
そして、ほんの少しだけ口角を上げた。
その笑顔は、いつもより少しだけ、嬉しそうで、そして、どこか満足げに見えた。
◇◇◇
時刻はもう午後6時を過ぎていた。
図書室には、もう僕たち二人だけ。
帰り支度を始めた僕の横で、冬野がゆっくりと立ち上がった。
「ふぅ……」
彼女は何かを決意したように、目を見つめてくる。
「先輩……あの、その……」
彼女の白い手が、ぎゅっとスカートの裾を握りしめている。
その声は、いつも以上に震えていた。
「はい、何? どうかした?」
促すと、冬野はさらに顔を下に向けた。
そして消え入りそうな声で続ける。
「私……先輩のことが、その……ずっと、見てました。先輩が真剣に勉強している時も、友達と楽しそうに話している時も……全部、見てました」
「うん」
「先輩の真面目なところも、ちょっと不器用なところも、全部……全部、素敵だなって思ってて……私、先輩のことが……」
彼女の顔は真っ赤に染まっている。
視線は宙を彷徨っている。
その時だった。
『ピロンっ』
僕のスマートフォンの通知音が鳴り響く。
『ねえ、今度の日曜、空いてる? ちょっと話したいことがあって』
スマホの画面に表示されたのは、恋人である
「ああ、ごめん、ちょっと待って。彼女からだ」
「えっ…………」
冬野の顔からみるみる血の気が引いていく。
彼女は、固まったようにスマホ画面と僕の顔を交互に見つめる。
その表情はまるで張り子の人形のようだ。
「……かの、じょ……?」
その声は、耳にはほとんど届かないほど、か細く、震えている。
今にも消え入りそうな、かろうじて息をしているだけの、絶望に満ちた呟き。
それはまるで、長年信じていたものが一瞬で崩れ去ったかのような、深い悲しみを秘めていた。
「あれ? 冬野には言ってなかったっけ? うん、夏帆っていうんだけど、もうすぐ付き合って一年なんだ。今度の日曜に会う約束してたんだよ」
「……っ……う、そ……」
冬野は、その場で呼吸すら忘れてしまったかのように、ただ僕を見つめ返している。
彼女の瞳には、ほんのわずかな希望の光さえも残されていなかった。
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