第4話 見えた、小さな自信

 ふと、カレン医師の表情が変わった。


 モニターに映る心電図の波形が、静かに流れている。

 その画面をのぞき込みながら、彼女が指を差した。


「ほら、そこ。相沢さんの波形」

「洞調律から、心房細動に変わってるでしょ」


「……えっ? 変わってるって、どういうこと?」


 思わず聞き返した俺に、彼女は信じられないといった顔を向ける。


「あなた、本当にわからないの? P波って、知ってる?」


「P波……名前くらいなら知ってるけど……どれがそうなのか、判別は……できない」


「P波も知らないなんて……」

 小さくため息をついた彼女は、別の心電図を画面に呼び出した。


「見て。この人の波形。これは洞調律ね」

「左から順に、小さい山、大きな山、中くらいの山が並んでいるでしょ。小さいのがP波、大きいのがQRS波、中くらいがT波」


「なるほど……」


 自然に口から声がもれた。


「この3つの波がセットで、一定のリズムで繰り返されているのが“洞調律”。正常な心拍の基本よ」


 ――その説明に、何かが腑に落ちた気がした。


(なるほど……今までただの“線”にしか見えなかった波形に、こんな意味があったなんて……)

(……すごい。なんか、心臓の音が“見える”って、ちょっと感動かも)


 そんな俺に、彼女が再びモニターの指先を移動させる。


「そしてね、このP波が見えなくなって、リズムがバラバラになってしまったのが“心房細動”」

「これから、きっと何度も目にするから……ちゃんと覚えて。命に関わることもあるから」


 画面に映る波形は、さっきのものとはまるで別物だった。

 整ったリズムは影を潜め、山の形はまばらで不規則。


「この状態になるとね、心房は細かく震えるだけで、しっかり血液を送り出せなくなる」

「そうなると、血液が心房内によどんで、血栓ができやすくなるのよ」


「けっせん……って、血のかたまりだよな?」


「そう。そして、それが脳の血管に飛んで詰まったら――どうなると思う?」


「……まさか、それって……」


「脳梗塞。それも、重症になることが多いの」


 ゾクリと背筋が冷えた。


「しかも、詰まるのは脳だけじゃない。腎臓や足の動脈が塞がることもある。“塞栓症”と呼ばれる状態ね。放置すれば命に関わることもある」


「マジかよ……そんなにヤバいんだ、心房細動って……」


 波形の乱れなんて、たかが一過性のものだと思ってた。

 さっきの自分をぶん殴りたくなった。


「だからこそ、早く見つけて、適切に対処することが大事なの。心電図で命を守るって、そういうことよ」


 その一言が、胸の奥に鋭く突き刺さる。


(ヤバい……!)


「は、早く先輩に報告しないと!」


 俺はナースステーションに走り出そうとする――その瞬間。


「ちょっと待って!」


 ピシャリと放たれた声に、思わず足が止まった。


「その前に、患者さんの状態を確認して」

「波形だけじゃなくて、本人の症状がどうか。それを見なきゃ意味がないでしょう?」


「っ……!」


 心電図ばかりを見ていた視界が、急に現実に引き戻された気がした。


「息苦しさは? 胸の痛みは? 血圧や意識は? そういうのを今すぐ確認。それから報告。いいわね?」


「……わかった。行ってくる!」


 今度こそ迷いなく、俺は病室へ向かった。


 * * *


 急いで様子を見に行くと、幸い、本人にはこれといった症状はなかった。

 でも、波形は間違いなく心房細動。油断は禁物だ。


 すぐに先輩に報告して、医師へ連絡。

 そこから、血栓予防のためのヘパリン点滴と、脱水対策として補液が始まった。


 そして――朝。


「……サイナスに戻ってる……!」


 モニターには、整ったリズムが戻っていた。

 あの特徴的な3つの山が、規則正しく並んでいる。


 数時間前の乱れた波形が嘘のようだった。


 あとで医師から聞いた話によると、今回の原因は脱水。


 術後だった彼には、余分な水を排出する薬(利尿剤)が使われていた。

 しかも、本人が「トイレが面倒」と言って水分をほとんど取っていなかったという。


「利尿剤を使って、水を飲まない……それじゃ脱水にもなるわけだ」


 水分不足で心臓のリズムが乱れるなんて、正直思いもしなかった。


(ただの線にしか見えなかった波形に、命のサインが詰まってたなんて……)


 俺はしばらく、じっと画面を見つめていた。


 * * *


 ナースステーションに戻ると、声をかけられた。


「葛城くん、お疲れさま」


 顔を上げると、笑顔の佐伯さんがそこに立っていた。


「新人なのに、ちゃんと気づいたんだって? すごいね、偉いよ」


「えっ……あ、ありがとうございます……」


 緊張と汗でぐちゃぐちゃな俺とは違い、彼女はいつもどおりキラキラしていた。


「先生も言ってたよ。“看護師さんが早く見つけてくれて助かった”って。点滴が早く始められて、血栓もできなかったって」


「……本当に、よかったです」


 自分が役に立てた。

 その実感が、胸の奥にじんわりと広がっていく。


「ね、少し自信ついたでしょ?」


「……はい。少し、ですけど」


 その返事に、彼女はやさしく笑った。


「その“少し”が大事なの。自信は、そうやって育てていくんだから」

「今日のこと、ちゃんと覚えておいて。きっとまた役に立つ日が来るからね」


(……よし、俺、やったぞ)


 そう思っていた、そのとき。


「――ってことで、それ、完全に私のおかげよねー?」


 どこからともなく響いてくる軽やかな声。


 ……出たな。


 振り向くと、白衣を翻した“例の幽霊”がドヤ顔で立っていた。


「いや〜、さっすが私! 指導力、神がかってるわぁ。

 新人でもここまで読めるようになるなんて……我ながら優秀!」


「……あの、褒めるなら少しは俺にも……」


 完全にスルーして、彼女は続ける。


「でもさ、改めて思ったけど、心房細動の波形って……いいわよね〜!」


「いい……?」


「だって、あの不規則にザワザワした感じ!

 ちょっと危なっかしくて、でも目が離せない……」


 目をキラキラさせながら熱弁をふるう彼女に、俺は戸惑いを隠せなかった。


「整ってない美しさってあるじゃない?

 規則正しい波も好きだけど、あのカオス……混沌の中に宿る命の音! 最高!」


「カオスの中に命の音……」


「そう! 心の荒波って感じ! 必死に鼓動してるその姿……尊いのよ!!」


「いや、ただの不整脈ですからね!? 放っといたらマジで危険なんだからな!?」


「でもその“危なさ”が……って、ちょっと! どこ行くのよ葛城くん!」


「もういい!! 余韻くらい味わわせて!!」


 ⸻


 こうして――

 はじめて心電図を「読めた」と思えた夜勤が、静かに終わった。


 ただの波にしか見えなかった“心臓の声”が、少しだけ聞こえるようになった気がする。


 これは、まだ小さな一歩。


 けれど、その一歩が、俺に“心電図で命を守る”ということの意味を教えてくれた。


 そしてきっと、次の一歩が――

 俺を、さらに深い鼓動の世界へと導いていく。

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蒼と鼓動〜命の線を読む夜〜 DONDON. @dondon12

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