ぽかぽか団地

茂上 仙佳

第1話:山本家の朝は大騒ぎ

「あああああ!やっちまった!」


けたたましい叫び声が、ぽかぽか団地の3号棟205号室に響き渡った。時刻は朝の7時30分。山本家の長である山本けいたが、目覚まし時計を睨みつけながら頭を抱えている。


「だから昨日の夜、早く寝なさいって言ったでしょう!」


台所からみさきの呆れ声が聞こえてくる。彼女は既に朝食の準備を済ませ、弁当作りの真っ最中だった。エプロン姿のみさきは、慣れた手つきでおにぎりを握りながら、夫の慌てぶりにため息をついた。


「パパ、また寝坊?」


リビングでランドセルの準備をしていた小学5年生のそうたが、冷静な声で呟く。彼は既に制服に着替え、宿題もきちんと済ませている。几帳面な性格は母親譲りだが、時々見せる子どもらしい一面が彼の魅力だった。


「パパのバカ!遅刻魔!」


そうたの隣で、小学2年生のひなが屈託のない笑顔で手を叩いている。彼女にとって父親の寝坊は、いつもの朝の娯楽の一つのようだった。ピンクのパジャマ姿のまま、くるくると回りながら歌っている。


「ねーぼーう、ねーぼーう、パパは今日も寝坊だよ〜♪」


「ひな、歌ってないで着替えなさい」みさきが注意するが、ひなは聞く耳を持たない。


そんな家族の騒ぎを、窓際の特等席から眺めているのが、茶トラ猫のこてつだった。丸い体を毛づくろいしながら、緑の瞳でじっと観察している。


(また始まったな、けいたの朝の大騒ぎが。でも今日は何かが違う。あいつ、昨夜遅くまで書類とにらめっこしていたからな)


こてつだけが知っている。けいたが昨夜、重要なプレゼンテーション資料を夜中の2時まで修正し続けていたことを。家族が寝静まった後、一人リビングで頑張っている父親の姿を見ていたのは、こてつだけだった。


「やばい、やばい、やばい!今日は月曜日で、しかも部長会議があるんだった!」


けいたは慌てて洗面所に駆け込む。歯磨きをしながら同時に髭を剃ろうとして、泡だらけになってしまった。


「けいた、落ち着いて。朝ごはんは作ってあるから」


みさきは慣れたもので、夫の分の朝食をテーブルに並べていく。トーストにスクランブルエッグ、サラダにコーヒー。愛情のこもった朝食だった。


「ありがとう、みさき!君がいなかったら僕は…」


「はいはい、いつものセリフね。でも今日は本当に大丈夫?大事な会議だって言ってたでしょ?」


みさきの心配そうな表情に、けいたは慌てて手を振る。


「大丈夫、大丈夫!資料はバッチリ準備してあるから!」


実際、けいたの準備は完璧だった。昨夜遅くまで練り上げた企画書は、これまでの彼のキャリアの集大成とも言えるものだった。ただし、それを家族に自慢する余裕はない。


「そうた、ひな、学校の準備はできた?」


「僕はとっくに終わってるよ。問題はひなちゃんの方」


そうたは妹を見やる。ひなはまだパジャマ姿のまま、なぜかリビングで逆立ちの練習をしていた。


「ひな、何してるの?」


「逆立ちの練習!体育の時間に見せびらかすの!」


「着替えが先でしょ!」


みさきとそうたが同時にツッコミを入れる。山本家では、ひなのボケに対して家族総出でツッコミを入れるのが日常茶飯事だった。


「あ、そうだった!」


ひなは慌てて自分の部屋に走っていく。その後ろから、こてつがのんびりと付いていった。


(この子も相変わらずだな。でも、その自由さが家族を和ませているのも事実だ)


こてつは長年この家族を見守ってきて、それぞれの役割をよく理解していた。けいたは愛すべきポンコツ父さんだが、いざという時は頼れる存在。みさきは家族の司令塔でツッコミ役だが、誰よりも家族思い。そうたは常識人だけど、まだまだ子どもらしい一面がある。そして、ひなは家族のムードメーカーだった。


朝食を急いで済ませたけいたは、スーツ姿でバタバタと出かけていった。見送った後、みさきは子どもたちの学校準備を手伝っている。


「そうた、今日は何時に帰ってくる?」


「友達と公園で遊ぶから、5時頃かな」


「分かった。ひなは?」


「ひなちゃんと一緒に探検する!」


突然、ひなが大きな声で宣言した。もう制服に着替えて、リュックサックを背負っている。


「探検って、どこを?」


「団地の秘密を見つけるの!まいちゃんと約束したんだ!」


佐藤まいは同じ団地に住む小学2年生で、ひなの親友でありライバルでもある。二人が組むと、必ずと言っていいほど何か騒動が起こる。


「あー、それは心配だな」そうたが苦笑いを浮かべる。


「大丈夫よ、そうたがついてるし」みさきは息子に頼む。「ひなのことお願いね」


「はーい」


子どもたちを学校に送り出した後、みさきは洗濯物を干しながらほっと一息ついた。山本家の朝は毎日がこんな感じで、慌ただしいけれど温かい時間が流れている。


こてつは窓際で日向ぼっこをしながら、外を眺めていた。団地の中庭では、小林さん夫婦が花壇の手入れをしている。管理人の山田さんが住民と立ち話をしている様子も見える。平和な団地の日常風景だった。


(今日も一日が始まった。さて、ひなは今度は何をやらかすかな)


こてつの予感は的中した。午後3時頃、学校から帰ってきたひなとまいが、団地の中でキャーキャー騒いでいるのが聞こえてきた。


「見つけた!見つけた!」


「すごいよ、ひなちゃん!」


二人の声に気づいて、そうたも駆けつける。友達のりく、はるか、だいきも一緒だった。


「何を見つけたって?」


そうたが聞くと、ひなは目を輝かせて指差した。


「あそこ!3号棟の裏側!秘密の通路があるの!」


確かに、建物の裏手に人一人がやっと通れるような隙間があった。大人は気づかないような、子どもだけが発見できる「秘密の場所」だった。


「うわ、本当だ!」りくが驚く。


「でも、入っても大丈夫かな?」はるかが心配そうに言う。


「大丈夫だよ!まいちゃんと一緒に偵察したもん!」


ひなとまいは既に中を探検済みらしい。二人の冒険心は、時として大人たちをハラハラさせる。


「ちょっと待てよ、それって…」


だいきがのんびりとした口調で言いかけた時、背後から声がかかった。


「子どもたち、何してるの?」


振り返ると、管理人の山田さんが立っていた。50代の男性で、住民の情報をよく知っている人だ。


「あ、山田おじさん!」


「秘密の通路を見つけたんです!」


ひなが無邪気に説明すると、山田さんは苦笑いを浮かべた。


「ああ、そこね。昔の配管の関係で、そういう隙間ができちゃったんだよ。危険じゃないけど、あんまり奥まで入らない方がいいかな」


「えー、でも探検したいー」まいが不満そうに言う。


「それなら、みんなで一緒に見に行こうか。安全を確認してから」


そうたが提案すると、山田さんも頷いた。


「そうだね。そうた君がついてるなら安心だ。でも、何かあったらすぐに大人を呼ぶんだよ」


「はーい!」


子どもたちの返事を聞いて、山田さんは微笑みながら去っていく。こんな風に、ぽかぽか団地では住民同士が自然に子どもたちを見守っている。


「それじゃあ、探検開始!」


ひなが先頭に立って、「秘密の通路」に向かう。そうたがその後に続き、友達たちも興味深そうについてくる。


隙間の向こうには、小さな空間があった。建物の構造上できた三角形の空間で、子どもたちには十分な「秘密基地」だった。


「わあ!本当に秘密の場所だ!」


「ここでお弁当食べたら楽しそう!」


「基地ごっこができるね!」


子どもたちは大興奮だった。特に、りくは早速リーダーシップを発揮して、みんなに指示を出し始める。


「よし、ここを僕たちの秘密基地にしよう!でも、ルールを決めないと」


「ルール?」だいきが首をかしげる。


「そう!例えば、ここでは喧嘩しちゃダメとか、ゴミは持ち帰るとか」


はるかが賛成する。「いいアイデアね。あと、大人に迷惑をかけないことも大事よ」


「じゃあ、秘密基地の憲法を作ろう!」ひなが提案する。


「憲法?」みんなが驚く。


「うん!パパが『憲法記念日』の時に教えてくれたの。みんなで守るお約束のことだって」


意外にも、ひなの提案は的を射ていた。そうたも感心する。


「ひなちゃん、いいこと言うじゃない」


こうして、子どもたちは「秘密基地憲法」を作ることになった。といっても、内容は子どもらしく単純なものだった。


「第1条:みんな仲良く」

「第2条:ゴミは持ち帰る」

「第3条:大人に迷惑をかけない」

「第4条:困った時はそうた君に相談」


最後の条項に、そうたは苦笑いした。


「なんで僕?」


「だって、そうた君が一番しっかりしてるもん」りくが答える。


「そうた君は頼りになるからね」はるかも同意する。


「みんな、そうた君のこと信頼してるんだよ」だいきがのんびりと言う。


そうたは照れながらも、責任を感じていた。確かに、彼は友達グループの中で調整役を務めることが多い。


「分かった。でも、みんなで協力しようね」


「やったー!」


子どもたちの歓声が団地に響いた。そんな様子を、遠くから小林さん夫婦が温かく見守っていた。


「元気な子どもたちだねえ」


「山本さんところの子たちも、いい友達に恵まれてるみたいで良かった」


## 夜の家族団らん


夕方、けいたが帰宅すると、家族は夕食の準備をしていた。


「ただいまー!」


「お疲れさま!会議はどうだった?」みさきが聞く。


「それが…」けいたは少し困ったような顔をする。


「どうしたの?」


「実は、大成功だったんだ。僕の企画が通って、来月から新プロジェクトのリーダーに任命されちゃった」


「えー!それ、すごいじゃない!」


みさきは驚きながらも、夫を祝福した。そうたとひなも「おめでとう!」と声をかける。


「でも、忙しくなるかもしれない。家族に迷惑をかけるかも…」


けいたの心配に、みさきは首を振った。


「何言ってるの。家族なんだから、お互い様でしょ。それに、あなたが頑張ってるの、みんな知ってるわよ」


「そうだよ、パパ」そうたも言う。「昨夜、こてつがパパの様子を気にしてたもん。遅くまで起きてて」


けいたはこてつを見る。こてつは何も言わないが、緑の目でじっとけいたを見つめていた。


(この家族は、お互いをよく見ている。けいたの努力も、みんなちゃんと分かってるんだ)


こてつは満足そうに鳴いた。


夕食後、山本家では恒例のお風呂タイムが始まる。順番は決まっていて、最初にひな、次にそうた、そしてみさき、最後にけいただった。


「今日は秘密基地を見つけたの!」


お風呂から上がったひなが、パジャマ姿で興奮気味に報告する。


「秘密基地?」けいたが興味を示す。


そうたが詳しく説明すると、けいたとみさきは感心した。


「子どもたちだけで憲法まで作ったの?すごいじゃない」


「りく君がリーダーシップを発揮して、はるかちゃんが現実的な提案をして、だいき君が和ませ役で、まいちゃんとひなが盛り上げ役だったんだ」


そうたの説明に、両親は微笑んだ。


「いい友達に恵まれてるのね」


「そうだな。友達って大切だ」


けいたがしみじみと言う。実は、今日の会議でも、普段から築いてきた同僚との信頼関係が成功の鍵だった。


「パパも友達いるの?」ひなが無邪気に聞く。


「いるよ。会社の人たちも、団地の人たちも、大切な友達だ」


「へー、大人も友達作るんだ」


ひなの純粋な驚きに、家族は笑った。


お風呂に入ったけいたは、一日の疲れを洗い流しながら考えていた。朝は寝坊して大慌てだったが、結果的には人生の転機となる一日だった。そして、それを支えてくれる家族がいることの幸せを噛みしめていた。


リビングでは、みさきが子どもたちの明日の準備を手伝っている。宿題のチェック、翌日の持ち物の確認、明日の天気予報をテレビで見る。何気ない日常の風景だが、家族の絆を感じられる大切な時間だった。


こてつは、いつものように家族を見守っていた。


(今日も平和な一日だった。明日もきっと、何かしら騒動が起こるだろう。でも、それが山本家らしさだ。そして、この家族なら、どんなことがあっても乗り越えていける)


猫の瞳に、家族への愛情が宿っていた。


「そろそろ寝る時間よ」


みさきの声で、一日が終わる合図となった。


「おやすみなさい!」


ひなが元気よく挨拶する。


「おやすみ」


そうたも続く。


「明日もよろしくお願いします」


けいたが家族に向かって丁寧にお辞儀をする。


「何それ、面白い」みさきが笑う。


「会社で身についちゃったんだよ」


家族の笑い声が響く中、こてつは窓際で外を眺めていた。団地の夜景が静かに広がっている。明日もまた、新しい一日が始まる。そして、きっと今日と同じように、温かい一日になるだろう。


ぽかぽか団地の夜は、今日も平和に更けていった。

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