SCENE#31 月下美人はもう咲かない
魚住 陸
月下美人はもう咲かない
第一章:出逢い
京の都は深い闇に包まれ、朧げな月が雲間から顔を覗かせていた。私は、人目を忍び、藤原の荘園の奥深くにある池のほとりに身を潜めていた。今宵は、秘められた花、「月下美人」が開くという稀有な夜。年に一度、わずか数刻だけその純白の姿を現し、夜明けとともに儚く散りゆくという幻の花…
その一瞬の輝きをこの目に焼き付けたくて、日が落ちるのを待ち侘びていたのだ。夏の終わり、まだ虫の音が賑やかな宵闇の中、水面に映る月影の下、白い花弁がゆっくりとほころび始めた。その幽玄な美しさに、私は息をのんだ。
その時、背後から澄んだ声が聞こえた。
「ああ、今年もその時が参りましたか。この花は、一度見れば忘れられぬ美しさ。さぞかし、遠方よりおいでになられた甲斐がございましょう。この香りは、いとけなくも、人の心を惑わす力がございますな。」
振り返ると、そこに立っていたのは、月光を纏ったかのような気品ある若者だった。なだらかな黒髪は夜風に揺れ、端正な顔立ちには知的な光が宿っている。彼は静かに微笑みながら、花を見つめている。
「あなたは…」
私が問いかけると、彼は優雅に頭を下げた。
「わたくしは、この荘園の主、源 頼光(みなもと の よりみつ)と申します。さきほどから、あなた様の気配を感じておりましたが、まさかこのような麗しき方がいらっしゃるとは。もしや京の姫君でいらっしゃいますか? このような夜更けに、お一人でいらっしゃるのは、いささか心許なく存じます。」
「いえ…わたくしは、ただ、この花を求めて参りました。都の喧騒を離れ、静かに咲くこの花に、心を惹かれておりましたゆえ。まさか、このような夜に、あなた様とお目にかかれるとは思いもよりませんでした。」
短い言葉を交わしただけだが、彼の雅やかな佇まいに、私は不思議な安らぎを覚えた。月下美人は静かにその命を終え、水面に散る。その刹那の逢瀬を、私たちは二人で分かち合った。頼光殿は穏やかな声で言った。
「この花の命は短うございますが、その輝きは心に深く刻まれましょう。まるで、夢のようではございますが。あなた様との出逢いもまた、わたくしにとって、かけがえのないものでございます。この出逢いを、何かの縁と申すのでしょうか。」
第二章:惹かれ合う心
夏の終わり、朝夕の風に秋の気配が混じり始める頃、私は昨夜の源頼光殿のことが忘れられず、再び荘園の庭を訪れた。期待と不安が入り混じる中、池のほとりへと足を向けると、彼は昨夜と同じ場所に立っていた。手には一巻の巻物を持ち、静かに庭を眺めている。
「またお目にかかりましたな…」と、彼は柔和な笑みを浮かべた。
「昨夜は、名も知らぬままお別れしてしまい、心残りでした。今宵は、宵闇も深く、月も冴え渡っております。もしよろしければ、この小亭にて、歌でも詠み交わしませんか? あなた様の雅なるお声を聞きとうございます。わたくしの拙い歌ではございますが…」
私たちは池の畔に設えられた風雅な小亭に腰を下ろし、互いの心の内を歌に託して語り合った。彼の詠む歌は、都の流行りとは異なり、自然の情景や人々の営みを深く見つめたものであった。彼の歌からは、深い学識と、世の理を静かに見つめる眼差しが感じられた。
「あなたの歌には、深い思慮と優しさが込められていますね。まるで、この世の全てを包み込むような…」私がそう言うと、彼は恥ずかしそうに微笑んだ。
「恐縮でございます。ただ、心に浮かんだままを詠んでおりますゆえ。あなた様の歌もまた、清らかで、わたくしの心を洗うようです。都の姫君の歌とはまた異なる、清らかな響きがございます。」
頼光殿は、懐から小さな木製の簪(かんざし)を取り出した。それは素朴ながらも丁寧に彫られた月下美人の花を模したものであった。
「これは、わたくしがこの花を初めて見た折に、その美しさに魅せられ、自ら彫ったものでございます。もし、よろしければ、あなた様にお納めいただきたく…」
私は驚きと喜びで、その簪を受け取った。その夜以来、私たちは毎晩のようにこの庭で会うようになった。月下美人はもう咲かないけれど、月の光の下で交わす歌や言葉は、何よりも私にとって貴き時間となっていった。互いの生い立ち、都での暮らし、そして秘めたる恋心。頼光殿は、時に私の言葉に深く頷き、時に静かに目を閉じて聞き入った。
「あなた様とお話ししておりますと、時を忘れてしまいます。これほど心安らぐ時は、ございませんでした。あなた様は、わたくしの心の奥深くに、静かに咲く月下美人のようでございます。」
私は彼の言葉に、静かに頷くしかなかった。言葉を交わすほどに、私たちは互いに深く惹かれ合っていることを感じていた。秋風が庭の木々を揺らし、紅葉が色づき始める頃には、二人の心は深く結びついていた。
第三章:秘めたる想い
紅葉が盛りを過ぎ、冬の足音が聞こえ始めたある夜、頼光殿は少し物憂げな面持ちで私に言った。
「実は、あなたにお話ししておかねばならぬことがございます。わたくしには、すでに藤原の姫との政略結婚の縁組が整っております。家の定めゆえ、抗うことは叶いませぬ。源氏の嫡男として、この宿命から逃れることはできませぬゆえ…」
突然の告白に、私の心は深く抉られた。喉の奥から声が出ず、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。手の中の月下美人の簪が、冷たく感じられた。
「お許しください、あなた様を欺くような形となってしまい、まことに申し訳ございません。わたくしのような者に、あなた様のような清らかな方が心を寄せてくださるとは…夢にも思っておりませんでした。しかし、それでも、あなたと巡り合えたことは、わたくしの人生にとってかけがえのない光でございます。」
頼光殿は悲しみを湛えた瞳で私を見つめ、私の手をそっと握った。
「この想い、たとえこの身が滅びようとも、決して忘れることはございませぬ。どうか、あなた様も、わたくしとの出逢いを、いつまでも心に留めておいてくださいますよう…そして、どうか、お幸せになっていただきたいと、心より願っております。」
私もまた、胸の奥に押し込めていた想いを彼に伝えた。震える声で、「わたくしも、あなた様を深く愛しております。叶わぬ恋と知りながらも、あなた様との時間こそが、わたくしにとっての真実でした。この美しき出逢いを、そしてあなた様の御心、決して忘れません。この簪も、わたくしの命ある限り、大切にいたします。」
頼光殿は、懐から一通の文(ふみ)を取り出し、私に手渡した。
「これは、わたくしの心の内を記したものです。もし、わたくしがこの世を去ることがあっても、この文があなた様の慰めとなれば幸いです…」
ただ月光だけが、私たちの沈黙の誓いを静かに見守っていた。互いの手が、まるで離れがたい運命を惜しむかのように、固く握りしめられていた。庭には、冬の訪れを告げる枯葉が舞い落ち、二人の未来を暗示するかのように、冷たい風が吹き抜けていった。
第四章:試練
冬が深まり、雪がちらつくようになった頃、頼光殿は突然、姿を現さなくなった。彼の屋敷からは、間もなく婚礼の儀が執り行われるという噂が、都中に響き渡った。私の心は絶望の淵に沈んだ。あの月下美人のように、私たちの恋も、一夜の夢であったと申すのか…手にした文を何度となく読み返し、彼の言葉の真意を確かめようとした。
悲しみに暮れる日々の中、私は都を離れ、故郷へ戻る決意をした。この地にとどまれば、彼への想いを断ち切れないと思ったからだ。
「たとえ、この心が張り裂けようとも、ここを離れるより他に道はございません。この恋は、最初から許されぬものだったのだ…」
旅立つ日の朝、名残惜しさに庭園に立ち寄ると、そこに思いがけない人物が立っていた。雪が舞い散る中、彼女は静かに私を待っていた。
それは、頼光殿の許嫁、藤原の姫であった。彼女は静かに私に近づき、深々と頭を下げた。
「御身こそ、頼光様が深く心寄せられる方でいらっしゃいますね。噂はかねがね耳にしておりました。」
驚きながらも頷くと、彼女は哀しげな微笑みを浮かべた。
「わたくしも、頼光様を深く慕っておりました。しかし、彼の御心があなた様にあることを知り、心痛の極みでございます。わたくしが頼光様を慕う気持ちは、あなた様と同じでございますゆえ、彼の苦しみが痛いほどに理解できます。ゆえに、わたくしは決意いたしました…」
そして、彼女は私に一枚の歌を差し出した。それは、頼光殿が私に宛てたものだった。
「月影に 霞むは夢か うつつかや 君を思えば 道はひらくも(月影に霞むは夢か現か、あなたを想えば道は開かれると信じたい)」
「これは、頼光様が、あなた様へのお気持ちを込めて詠まれた歌でございます。この歌を、わたくしに託されました。もし、あなた様がわたくしを想ってくださるならば、婚礼の夜、あの庭園にてお待ちしております、と。」姫は静かに告げた。
「わたくしは、頼光様が真に愛するお方と結ばれることを、心より願っております。どうか、あなた様と頼光様が、真実の愛を貫かれることを願っております…」
第五章:永遠の誓い
雪が降り積もり、京の都が白く染まった婚礼の夜、私は迷いながらも、あの庭園へと向かった。月はあの夜と同じように、静かに私たちを照らしている。そして、そこに頼光殿が立っていた。彼の顔には、苦悩の跡が刻まれているが、その瞳には強い決意が宿っていた。
「来てくださったのですね…!」
彼は涙を浮かべながら、私の手を固く握りしめた。その手は、冷たい夜気に震えていた。
「わたくしは、あなた様なしでは、決して幸せにはなれないと悟りました。この身がどうなろうとも、あなたを諦めることなど、到底できませなんだ。家の名誉も、地位も、全てを捨ててでも、あなた様と共に生きたいと、心より願っております。」
彼は、許嫁に全ての真実を打ち明け、名門源氏の嫡男としての地位を捨て、家との決別を決意したという。
「多くの者が、わたくしを愚かだと申しましょう。親兄弟も、わたくしを勘当するかもしれません。されど、あなた様と生きる道を選びたい。この願い、お聞き届けいただけますか? この月下美人の簪を、あなた様にお返しする日を、わたくしは夢見ておりました…」
「はい…!わたくしも、あなた様と共ならば、いかなる困難も乗り越えられましょう。この命尽きるまで、あなた様と共に生きて参ります。この簪は、わたくしにとって、あなた様との愛の証でございます。」私は、彼の言葉に、ただ涙を流しながら頷いた。
月下美人はもう咲かないけれど、月明かりの下で再び巡り合えた私たちの心には、永遠に消えることのない愛の花が咲き誇っていた。固く結ばれた手は、未来への希望に満ちていた。都を離れ、人里離れた山里で暮らすことになろうとも、二人の愛は尽きることなく、静かに、そして確かに育まれていった。
春には山菜を摘み、夏には清流の音に耳を傾け、秋には紅葉を愛で、冬には雪景色の中で寄り添う。月影の届く限り、二人の愛は尽きることなく、まるで月下美人のように、ひっそりと…
月下美人はもう咲かないけれど…
SCENE#31 月下美人はもう咲かない 魚住 陸 @mako1122
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます