エピローグ
水曜日の朝、九時。
私たちは、リビングに集まっていた。約束の時を、まるで判決を待つ被告人のように、固い表情で待っていた。
美咲は、私の手を強く握りしめている。隆史は、腕を組んで、押し黙ったままだ。
やがて、テントからペンが静かに出てきた。その姿は、いつもと変わらず凛としていた。ただ、その小さな翼には、霜が降りた葉っぱで丁寧に編まれたような、小さな包みが一つ、提げられていた。
インターホンが鳴った。
しかし、それは聞き慣れた電子音ではなく、遠くで氷山が軋むような、低く澄んだ音だった。
ペンが、私たちに向かって、深く、深く頭を下げた。
「十日間、大変お世話になりました。このご恩は、生涯忘れません」
彼は、まず美咲の前に進み出た。
「お嬢さん。あなたの純粋な優しさと探究心は、何よりの宝です。どうか、そのままで。私の、自慢の友人」
美咲は、声を殺して泣きながら、何度も頷いた。
次に、隆史の前に。
「隆史さん。あなたは、素晴らしい『群れ』の長です。これからも、この温かい家族を、お守りください」
「……ああ。お前も、達者でな」
隆使は、それだけ言うのが精一杯だった。
そして、私の前に。
「奥さん。あなたがいれてくれたハイボールは、世界一の味でした。本当に、ありがとうございました」
「……こちらこそ。ありがとう、ペンさん」
涙で、彼の姿が滲んで見えた。
ペンは、名残を惜しむように一度だけ部屋を見渡すと、よちよちと、しかし迷いのない足取りで、玄関へと向かった。
ドアを開けると、そこに立っていたのは、人間ではない。つるりとした白い体に、黒い服を着た、二羽のペンギンだった。彼らは、ペンに恭しく一礼すると、道を開けた。
ペンは、ドアの向こうへ一歩踏み出し、そして、最後に私たちを振り返った。
小さく翼を振る。それが、別れの合図だった。
ドアが静かに閉まり、リビングには、信じられないほどの静寂が訪れた。
ペンギンが去った後の我が家は、がらんと広く感じられた。
リビングの隅には、主を失った小さなテントだけが、ぽつんと残されている。美咲は、その場で泣き崩れた。隆史が、その小さな肩を、そっと抱きしめる。私は、ただ、ペンが消えたドアを、立ち尽くして見つめていた。
最初の数日は、家の中にぽっかりと穴が開いたようだった。
冷蔵庫を開けるたびに、ペンがいるような気がして、ドキリとする。ハイボールを作ると、氷の音がやけに大きく響いた。鮮魚コーナーで、無意識にアジに手を伸ばしては、我に返る。食卓の会話は、めっきりと減った。
一ヶ月が経つ頃、私たちは、少しずつペンの話を口にするようになった。
「そういえば、ペンさん、シシャモ出した時、ものすごく怒ってたな」
「宅配便の人が来た時は、本気で終わったと思ったよ」
「ペンちゃん、オセロ強かったよね!」
悲しい思い出は、いつしか笑い話に変わり、私たちの心を温めていった。ペンギンがいた十日間は、夢ではなく、確かに私たちの記憶の中に、大切な宝物として残り続けていた。
そして、一年後の夏。
再び、うだるような暑さがやってきた。あの日のように、キンキンに冷えた飲み物が恋しい、休日の昼下がり。
私は、ハイボールを作ろうと、冷蔵庫を開けた。
目を、疑った。
見慣れた冷蔵庫の、一番上の棚。
そこには、小さな氷の台座の上に、まるで宝石のように輝く、一匹の完璧なアジが、そっと置かれていた。そして、その隣には、一枚だけ、艶やかな黒い羽根が添えられている。
「……あ」
声にならない声が出た。私は、急いでリビングにいる隆史と美咲を呼んだ。
「みんな、来て!」
「どうしたんだ、そんなに慌てて……」
冷蔵庫の中を見た二人は、私と同じように、言葉を失った。
そして、顔を見合わせ、私たちは、ゆっくりと微笑んだ。
誰からの贈り物かなんて、聞くまでもなかった。
ご近所さんからの、時候の挨拶。あるいは、「元気にやっていますか」という、遠い友人からのはにかんだような便り。
あの夏は、夢じゃなかった。
私たちの家にやってきた、奇妙で、賢くて、おしゃべりなペンギン。
私は、頬を伝う涙をそのままに、そっと冷蔵庫のドアを閉めた。胸の奥が、南極の氷よりもずっと冷たくて、そして、真夏の太陽よりもずっと温かい、不思議な気持ちで満たされていた。
真夏とペンギンとハイボール 風葉 @flyaway00
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