第20話 ひとまずの、さよなら
三日後の夕暮れ時。
コトハは、カフェのカウンターで手紙を書いていた。
『親愛なるユアンへ
王宮での生活はどう? みんなは優しくしてくれてる?
こっちは相変わらずだよ。昨日は泣き虫の妖精さんが来て、
特製プリンを食べて笑顔になって帰っていったよ』
ペンを止めて、窓の外を見る。
異世界の森は、今日も不思議な色に染まっていた。オレンジとも紫ともつかない空に、光る葉っぱがきらきらと舞っている。
「手紙?」
ミリィが、紅茶を運んできた。
王子が帰ってから、彼女は正式にカフェの手伝いをしてくれることになった。記憶はまだ戻っていないけど、とても頼りになる。
「うん。ユアンに約束したから」
「ふふ、毎日書いてるね」
「だって、伝えたいことがたくさんあるんだもん」
コトハは再びペンを取った。
『それからね、新しいレシピを考えたの。
「再会のラズベリーケーキ」っていうの。
また会える日のために、とっておきの味にするつもり』
その時、カフェの扉が開いた。
「いらっしゃいま——」
言いかけて、コトハは固まった。
そこに立っていたのは、見覚えのある金髪の少女。
「ミーア!」
無感情の少女——いや、今は違う。ミーアの顔には、恥ずかしそうな笑みが浮かんでいた。
「あの……お茶、飲みに来ちゃった」
「もちろん! 入って入って!」
コトハは嬉しくなって、ミーアを招き入れた。
「元気だった?」
「うん。少しずつだけど、感情が戻ってきてる」
ミーアは窓際の席に座った。
「怒ったり、悲しんだり、大変だけど。でも、嬉しいこともたくさんある」
「よかった」
コトハは心から安堵した。
「ケーキ、食べる?」
「え、いいの?」
「今日の特製だよ。レモンタルト」
キッチンから、できたてのタルトを持ってくる。レモンの爽やかな香りが広がった。
「これ、新作?」
「うん。『新しい始まり』って意味を込めて作ったの」
ミーアが一口食べると、顔がぱっと明るくなった。
「美味しい! 酸っぱいけど、後味が甘くて」
「でしょ? 人生もそんな感じかなって」
二人は顔を見合わせて笑った。
「あのさ、コトハ」
「なに?」
「ユアンから、伝言」
コトハの心臓が跳ねた。
「王宮での初めての晩餐会で、ユアンが泣いたんだって」
「え?」
「嬉しくて泣いたの。『みんなが温かく迎えてくれて、こんなに幸せでいいのかな』って」
コトハの目頭が熱くなった。
「それで、貴族のおじさんたちが慌てちゃって。でも王様——ユアンのお父様が言ったの。『涙は感情の証。我が息子が心を取り戻したことを、誇りに思う』って」
「王様が……」
「うん。それからは、誰も何も言わなくなった。ユアンは堂々と、笑ったり泣いたりしてる」
それを聞いて、コトハも泣きそうになった。
よかった。本当によかった。
「それから、これ」
ミーアは小さな箱を取り出した。
「ユアンから、コトハへ」
震える手で、箱を開ける。
中には、小さな星型のブローチが入っていた。青い石が埋め込まれていて、カフェの明かりを受けてきらきらと輝いている。
「きれい……」
「裏を見て」
ブローチを裏返すと、小さな文字が刻まれていた。
『星のように、いつも輝いていて — ユアン』
胸が、いっぱいになった。
「お返事、書かなきゃ」
「うん。私が届けるよ」
ミーアは微笑んだ。
「実は私、王宮とカフェを繋ぐ連絡係になったの」
「本当?」
「シェルさんのアイデア。こうすれば、定期的に会えるでしょ?」
なんて素敵なアイデアだろう。
コトハは席に戻り、手紙の続きを書き始めた。
『ブローチ、受け取ったよ。大切にする。
いつか、このブローチをつけて会いに行くね。
その時は、最高のラズベリーケーキを用意して待ってる』
「ねえ、コトハ」
顔を上げると、シェルが本棚の上から見下ろしていた。
「なあに?」
「そろそろ、決めなければならないことがあります」
「決めること?」
「あなたが元の世界に戻るかどうか、です」
空気が、少し重くなった。
そうだ。いつかは決めなければならない。
「カフェの扉は、あなたの意志次第で開きます」シェルは続けた。「帰りたいと強く願えば、元の世界への道が開く」
「でも……」
「急ぐ必要はありません。ただ、知っておいてほしかった」
シェルは優しく言った。
「ここは、あなたの居場所でもある。でも、元の世界にも、あなたを待っている人がいるはずです」
おばあちゃんの顔が、頭に浮かんだ。
心配しているだろうな。
でも——
「まだ、いいかな」
コトハは微笑んだ。
「まだ、やり残したことがある」
「やり残したこと?」
「うん。もっとたくさんレシピを覚えたいし、もっとたくさんの人を笑顔にしたい。それに……」
コトハは手紙を見つめた。
「ユアンとの約束も、果たしてないし」
シェルは満足そうに髭を動かした。
「いいでしょう。その時が来たら、また」
話はそこで終わった。
ミーアがケーキを食べ終え、立ち上がる。
「そろそろ帰るね。手紙、預かる」
「うん、お願い」
封をした手紙を渡す。
「また来週来るから」
「楽しみに待ってる」
ミーアが帰った後、カフェはまた静かになった。
でも、寂しくはない。
コトハは新しいレシピノートを開いた。今日思いついた「希望のミルフィーユ」の作り方を書き留める。
ふと、窓の外を見ると、一匹の蝶が飛んでいた。
青い、美しい蝶。
もしかしたら、誰かの感情かもしれない。でも今は、ただ美しいと思った。
「コトハ」
「はい?」
「今日のディナーは何にしましょう」
シェルの日常的な質問に、コトハは笑顔で答えた。
「パスタがいいな。それと、新しいデザートの試作」
「またですか」
「だって、完璧なラズベリーケーキを作らなきゃ」
シェルはあきれたように首を振ったが、その瞳は優しかった。
夕食の準備をしながら、コトハは考えた。
いつか、元の世界に帰る日が来る。
でも、今はまだ、ここにいたい。
この魔法カフェで、誰かの心を癒すスイーツを作り続けたい。
そして——
ユアンと、また会いたい。
「ねえ、シェルさん」
「なんです?」
「約束って、素敵だよね」
「突然どうしたんです?」
「だって、離れていても繋がっていられるもの」
コトハは胸に手を当てた。星のブローチが、服の下で優しく光っている。
「約束があれば、『またね』って言える。『さよなら』じゃなくて」
「その通りです」
シェルは本棚から飛び降りて、コトハの足元にすり寄った。
「だから、これは『ひとまずの、さよなら』なんですよ」
「うん」
その夜、コトハは特別なケーキを焼いた。
ラズベリーケーキ。
まだ完璧じゃない。でも、再会への想いを込めて、心を込めて作った。
焼き上がったケーキを前に、コトハは小さく笑った。
「ユアン、待っててね」
窓の外では、星が瞬いている。
あの夜、感情の蝶たちが舞った空と同じ星空。
でも今は、希望の光に見えた。
魔法カフェの一日が、静かに終わろうとしている。
明日もきっと、誰かが扉を叩くだろう。
心に傷を負った、誰かが。
そしてコトハは、笑顔で迎えるのだ。
「いらっしゃいませ。魔法カフェへ、ようこそ」
物語は、ここでひとまず幕を閉じる。
でも、これは終わりじゃない。
新しい始まり。
コトハと王子の物語は、まだまだ続いていく。
次に会う時まで、お互いが成長して、もっと素敵な笑顔で会えるように。
それが、二人の約束。
星のように、ずっと輝き続ける約束。
— 第1巻 完 —
『魔法カフェと72時間で消える王子』―スイーツと感情で、君の心を取り戻す物語― ソコニ @mi33x
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